バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第3章 ベーシックパソコンからMS-DOSパソコンへ(2)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

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富士通のパソコンCMといえばタモリだった 1982年

パソコン全盛時代、CMに登場して宣伝していたのはアイドルたち。そんな時代に一線を画していたのが富士通のパソコン。芸能人だけでなくタッチおじさんという大阪弁をしゃべるキャラクターを登場させ、キモかわいい路線を目指していました。タッチおじさんの声はヨシモト(吉本興業)の坂田利夫が担当していました。

 富士通が出した最初のパソコンがFM-8。1981年に発売された八ビットパソコンで、まだまだフロッピーディスクが高く、データ保存には音楽用カセットテープを使っていました。定価は二十一万八千円。FM-8のイメージキャラクターはデビューしたばかりの伊藤麻衣子さんで、コンピュータCMに女性アイドルが起用されるきっかけになりました。

FM-8。富士通が初めて出したパソコン。21万8千円だった。

1982年、FM-7のCMからタモリが登場

 翌1982年、FM-8の廉価版であるFM-7が発売されます。十二万六千円と価格が大幅に下げられたこともあり、よく売れました。このFM-7のCMに出ていたのがタモリです。自宅でも実際にパソコンを使っていたようで、富士通の機関誌にはFM-7と一緒にタモリが写っている写真を掲載。FM-7のCMコピーは「青少年は興奮する」で、キャッチフレーズは「興奮パソコン」でした。

 FM-7が出た1982年は「笑っていいとも」がスタートした年です。1982年10月4日に「森田一義アワー 笑っていいとも」として始まり、最初のテレフォンショッキングのゲストは桜田淳子さんでした。

 タモリといえば「笑っていいとも」の司会者や「ブラタモリ」の博識イメージが強いのですが、当時はぶっちゃけた芸人で、オールナイトニッポンでディスクジョッキーをつとめ人気を集めていました。ハナモゲラ語なるインチキ言語を作り、一人でおこなう四カ国語親善麻雀をラジオで流して人気を集めていました。中洲産業大学・芸術学部西洋音楽理論教授の講義などハチャメチャな芸が多く、そんなイメージが強かったので新しく登場したパソコンのCMに起用されたのでしょう。

FM-77では3・5インチフロッピーディスクドライブが主流に

 FM-7の後継機として1984年にFM-77が出ました。FM-8はキーボード一体型でしたが、FM-77ではキーボードが分離します。カセットテープがなくなり3・5インチフロッピーディスクドライブを本体に内蔵。タモリが「今や、3・5インチフロッピーディスクが主流」とCMで強みを訴えていました。この頃からパソコンにフロッピーディスクドライブが二台設定されるようになります。

 さらに上位機種として1985年にFM77AVが発売されます。筐体の色は黒で、印象的なパソコンです。FM77AVのCMはタモリから交代し南野陽子さんに。「NANNOがめじるし」ということでパソコンショップに大きな南野陽子さんのポスターが貼られていました。南野陽子さんはFMRシリーズのCMにも登場しています。

 1989年に発売されたFM TOWNSは世界で初めて全モデルにCD-ROMドライブを標準搭載しパソコンショップで異彩をはなちます。CMは南野陽子さん、宮沢りえさんが担当します。

 また高倉健さんがFMVパソコンの「顔」でした。大ヒットした「幸福の黄色いハンカチ」と同じ倍賞千恵子さんと夫婦役という設定でCMに出演していました。

元祖ネットアイドル Yo 1982年

「Yoのけそうぶみ」という言葉を聞いて、懐かしいと思う人は、かなりのおじさんです。1982年~1987年にかけて『月刊アスキー』(当時はマイクロコンピュータ総合誌ASCII)に連載されていたエッセイのタイトルが「Yoのけそうぶみ」。パソコンではなくマイコンと呼ばれていた時代です。

 月刊アスキーに、TBN(Tinyベーシック ニュースレター)というコーナーがあり、最初は文字通りTinyベーシック(コンパクトなホビー用ベーシック)に関する記事が掲載されていました。だんだんコラムやお便りコーナーが増え、息抜きページに変貌していきます。TBNに「マイコン私情」という黒田百合香さんが書いていたエッセイがあったのですが、結婚してニュージランドに住むことになったことから、引き継いで始まったのが「Yoのけそうぶみ」。「けそうぶみ(懸想文)」とはラブレターのことで、今ではメールで告白したりしますが、大昔は相手を慕う和歌を紙に書いて花などを添えて渡すのが流儀でした、これが懸想文。

元祖ネットアイドルにメロメロ

 「Yoのけそうぶみ」を書いていたのが鷹野陽子さん(ペンネーム)。鷹野陽子さんは連載当時、理学部物理学科に通う大学生でした。「プログラムの課題が三つもあるので、パンチカードをかかえて電子計算機センターへ行った」とか「秋葉原のパーツショップへ行って、十六ピンのソケット二十コに、コンデンサーをごそっと買うなんて、スーパーマーケットで、人参二袋、ピーマン三袋と揃えるのと同じ感覚じゃないの」なんて文章が登場します。

 ようやくマイコンがビジネスに使われだしましたが、まだまだオタクの世界。おじさんばかりの古書市に若い女性がふらっと登場したようなものです。女の子がコンピュータをいじるなんて本当に珍しい時代、ワープロのオアシスで書かれたエッセイに男性読者はイチコロでした。

 エッセイには毎回、イラストが載っていて、メガネ姿でロングヘアをなびかせる美人のイラストでした。写真が載らなかったので、男性読者はイラストを見て、こんな女性だろうと勝手に想像していました。今でいう「萌え」であり、鷹野陽子さんはネットアイドルの元祖。

 このエッセイはかなり好評で、あとでエッセイだけを集めた単行本『Yoのけそうぶみ』が出ました。鷹野陽子さんが大学を卒業し連載は終了。その後、プログラマとして就職し、アスキーの元編集者と結婚されたそうです。

 プロポーズは夕暮れ時の秋葉原だったというオチもあります。

『Yoのけそうぶみ』表紙。女子大生の書いたエッセイに読者の男性陣はイチコロ

アスキーの創業、『月刊アスキー』の創刊 1977年

マニアの人気を集めたパソコン雑誌といえば『月刊アスキー』という時代、出版元のアスキー創業は1977年。王選手がホームラン世界記録を達成し国民栄誉賞第一号を受賞した年です。翌年はキャンディーズが解散を発表。「普通の女の子に戻りたい」が流行語になります。

月刊アスキーを創刊

 アスキーを創業したのが郡司明郎氏、西和彦氏、塚本慶一郎氏の三名。日本マイクロコンピュータ連盟から日本初のマイコン専門雑誌『I/O』(アイオー)が創刊される時に、早稲田大学の学生だった西和彦氏と郡司明郎氏(西が下宿していた大家さんの息子)、塚本慶一郎氏(電気通信大学の学生)が加わります。西和彦氏が編集長に就任しましたが、やがて社長とたもとをわかって、1999年アスキーを創業、『月刊アスキー(ASCII)』を創刊します。

月刊誌でベンチマークテスト

 アスキーを創業した翌年、たまたま大学の図書館でベーシック言語の記事を読んだ西和彦氏はマイクロソフトに国際電話をします。ビル・ゲイツとアメリカで会い、意気投合。西氏はマイクロソフトが作ったベーシックの東アジアにおける独占販売権を手に入れ、マイクロソフトの副社長に就任します。といっても当時のマイクロソフトはまだ小さなベンチャー企業でした。

 アイビーエムが発売したパソコンがヒットし、追随するため日本電気や富士通がパソコンを作ろうと思ったらマイクロソフトのMS-DOSとベーシックを握っているアスキーと手を組むしかありません。二十代の若者に頼みこまないと最新の情報が手に入らない状態でした。

 しかし1986年、アスキーとマイクロソフトは路線の違いから提携を解消します。

 各社からパソコンの新機種が登場すると『月刊アスキー』でおこなわれたのがベンチマークテスト。数種類のプログラムを用意し、処理にかかった時間などを誌面で発表します。いわば『暮しの手帖』パソコン版です。

 PC-9801徹底研究などの特集もあり、読者の参考になりました。パソコンそのものが高かった時代、皆、『月刊アスキー』で情報を集め、お金を貯め、清水の舞台から飛び降りる思いでパソコンを買い求めました。

アスキーは人材輩出企業

 経営者などをたくさん輩出する企業としてリクルートが有名ですが、IT業界ではアスキー出身の経営者がたくさんいます。創業者の塚本慶一郎氏は後にインプレスを創業。インスパイア創業者の成毛真氏、マイクロソフト日本法人の初代社長となった古川享氏、インターネット総合研究所の藤原洋所長、IIJの深瀬弘恭会長など、そうそうたるメンバーがアスキーから輩出されています。

エイプリルフールにはパロディ版の発刊も

 インターネットがなかった時代、コンピュータに関するエイプリールフールネタといえば『月刊アスキー』が定番でした。1983年から毎年四月になるとパロディ版冊子がつき、これが本号以上に力が入った力作。好評だったため別売されるようになります。編集者もめちゃくちゃ楽しんで作っているのが、よくわかる誌面でした。

 パロディ版には楽屋落ちのアドベンチャーゲームもありました。これが南青山アドベンチャー。きちんとソースコードが印刷され、誌面を見ながらプログラムを自分で入力すれば実際に遊べました。アドベンチャーゲームといっても今のようなきれいなグラフィックも音楽もなく、キーボードを使って操作するテキストベースのゲーム。しかも内輪ネタで、南青山は当時、アスキー本社があった場所です。

『ASSCIIパロディ版』(1983年)。当時アスキーがあった南青山を舞台としたゲーム「南青山アドベンチャー」を掲載。実際に動いた。

 ゲームは、1983年にコールド・スリープに入った男が十八年後の2001年に目覚めるところからスタート。南青山アドベンチャーが出たのが1983年で2001年は近未来でした。ゲームの設定では2001年、株式会社ア・スキーは世界最大のパソコン会社になっています。実際のアスキーは経営の多角化に失敗し、投資会社の支援を受けていた頃になります。パロディ版を作っていた編集者も想定できなかった近未来でした。

 ゲームによれば、ア・スキー社を創業し一代で世界に冠する巨大企業に育てあげたのが「西崎郡一郎」という人物。実際のアスキー創業メンバー、郡司明郎、西和彦、塚本慶一郎をくっつけた名前です。西崎郡一郎は最高顧問になって楽隠居。隠居場は趣味に走って江戸時代の旗本屋敷を復元したもので伊賀モノが警備していました。屋敷にはア・スキー社根幹にかかわる重大な謎があるという噂が流れます。

 ゲームの主人公はア・スキーに四十七回もハガキを投稿したのに一度も掲載されなかったショックからコールド・スリープに入っていました。ア・スキー憎しの主人公は秘密をあばいて破壊工作をおこなうミッションに参加することになります。

 南青山アドベンチャーはPC-8001など当時のパソコンで動作しましたが、クリアできない人が続出した超難関ゲームでした。クリアすると「よくぞ ここまで やりとげました。あんたは えらい!」と表示され、住所、氏名を書いて送るとプレゼントがもらえたようです。パロディといいながらすごく手がこんでいました。

 アスキーは『月刊アスキー』と共に大きくなっていきましたが、やがて衛星通信や半導体など新事業を始め、この多角化が失敗。出版事業に専念するようにしましたが『月刊アスキー』は2006年で休刊。

 2013年10月1日、角川グループの各社が合併し、社名を「KADOKAWA」に統一しました。合併したのはアスキー・メディアワークス、角川書店、中経出版など。これでパソコン雑誌を出し続けていたアスキーという社名がなくなります。

 一つの時代が終わりました。

表計算ソフトはインド哲学の影響をうけて誕生 1983年

1960年代から70年代にかけてベトナム戦争への厭戦気分からヒッピー文化が広がります。マリファナの使用や悟りを求めるインド巡礼が流行します。ビートルズメンバーもインドへ瞑想の修行に出発し、インド楽器シタールを取り入れるなど音楽にも多大な影響を与えました。当時、パソコンソフトを作っていたのはこういった若者でした。

表計算ソフトロータス1-2-3誕生

 世界最初の表計算ソフト「ビジカルク」に対応するためマイクロソフトからマルチプランという表計算ソフトが1982年に発売されます。マルチプランはショートカットキーやコマンド入力などが多く、初心者にとって扱いが難しい表計算ソフトでしたが、IBM PCで使えたのでビジネスパーソンが飛びつきヒットしました。マルチプランが発売された少し後、1983年に発売されたのがロータス1-2-3(ワンツースリー)です。

 ロータス1-2-3はマルチプランの使いにくい点を改良。マルチプランでグラフを出そうと思えば別のマルチチャートというソフトを起動する必要がありましたがロータス1-2-3では簡単にグラフ作成へ連動できました。またデータベースやマクロ機能がついていました。ロータス1-2-3が市場シェア・ナンバーワンソフトへとなっていきます。日本ではロータス1-2-3の日本語版発売が1986年と遅れたため、その間はマルチプランがシェアトップでした。

ヒッピー文化から生まれたパソコン

 1968年から1970年代初頭にかけベトナム戦争の影響からアメリカや日本では学生運動が起き、大規模な反戦運動がおこなわれました。日本ではベ平連運動(ベトナムに平和を!市民連合)が注目を浴びていた時代です。反戦運動の中からヒッピーが登場し、同時代に誕生したパソコンはこのヒッピー文化の影響を大きく受けていました。

 当時、スティーブ・ジョブズは、世界初のビデオゲームを作ったアタリ社でバイトをしていました。アタリ社で稼いだお金でインドにわたり放浪し、精神指導者のもとで修行しています。やがてインドからアメリカへ戻り、1976年にアップルを立ち上げます。

 ロータス創業者ミッチー・ケイパーはジョブズよりもさらに本格的で、TM(超越的瞑想)をやっていました。「悟りさもなくば破滅」というすさまじいコースに参加しています。またヨガの瞑想教師でもありました。会社名は蓮(ロータス)から名づけられ、蓮はヒンズー教の悟りの象徴で、生命の源泉となる聖なる植物です。

ロータス1-2-3がデファクト・スタンダードに

 使いやすいロータス1-2-3が表計算ソフトのデファクト・スタンダード(事実上の標準)となっていきます。当時、ロータス1-2-3の売上だけで、マイクロソフトの売上を上回っていました。1983年、ロータス1-2-3に対抗するためコードネーム「オデッセイ」というプロジェクトがマイクロソフトに組織されます。これが現在のエクセルとなります。オデッセイは後にウィンドウズXPの開発コードネームにも採用されました。

 日本ではマイクロソフトが作ったマルチプランという表計算ソフトを三菱電機が日本語で扱えるようにし1982年に発売します。マルチプランの価格は十万円もしました。『日経パソコン』(日経BP社)の表計算ソフトの売れ行きランキングでは1984年下期から1986年下期まで一位をキープしますが、1987年上期に、1986年に出たロータス1-2-3日本語版に敗れます。

ジョブズの娘の名前がつけられたパソコンがあった 1983年

マッキントッシュの前身となったのがリサ。キーボードからコマンドを入力してパソコンを動かすのがあたりまえの時代に、マウスを使って絵を描いたりできる夢のようなパソコンでした。多くの人に衝撃を与えましたが、ただ高すぎました。

スティーブ・ジョブズの娘リサ

 ジョブズが二十三歳の時、高校時代からつきあい同棲していたガールフレンドとの間に生まれた子供がリサです。ところがジョブズは認知せず、別れた母子は生活保護費にたよる生活。アップルの業績がよかったため母子が住んでいた地方公共団体が娘の認知と生活保護費の返還を訴え、ジョブズへの裁判を起こします。ところがジョブズは自分と娘との血縁関係を否定。裁判途中でようやく和解し、認知だけはしましたが、あとはほったらかし。

 ジョブズ自身も未婚の母から生まれ、すぐに貧しい義父母に養子に出された経緯があり、家庭的には恵まれない人でした。やがてジョブズ自身が伴侶をえて、新しい家族を築いたことで考え方がかわり、リサを自宅に迎え入れ数年間一緒に暮らしています。

リサ。ジョブズの娘の名前から命名。先進的なパソコンだったが商業的には失敗。マッキントッシュに受け継がれる。

パロアルト研究所で衝撃をうける

 スティーブ・ジョブズが創業したアップルはアップルⅠからスタート。当時はコマンドを入力してコンピュータ操作するのが当たり前の時代でした。創業三年目の1979年、ゼロックスのパロアルト研究所を見学したジョブズが出会ったのがアルトというコンピュータです。

 アルトはアラン・ケイが作り上げましたがビットマップディスプレイやマウスを標準で装備し、ウインドウシステム、メニュー操作など、現在のパソコンのもととなる技術が実現されていました。後にアラン・ケイはアップルのフェローにもなっています。

マッキントッシュの前にパソコンを出していた

 アルトを見たジョブズはビックリ。さっそく先進的な仕組みをマネしたパソコンを開発し、1983年にできあがったのがリサ(Lisa)。ジョブズの娘の名前から名づけられました。本体・ディスプレイ一体型で、リサには箱状のワンボタンマウスがつきます。

 リサの画面にはコマンド入力するところがなく、画面の下にゴミ箱、時計、計算機などのアイコンが並び、マウスで操作するパソコンでした。ソフトが最初から入っていてリサライター(ワープロ)、リサドロー(図表作成)、リサキャルク(表計算)、リサプロジェクト(プロジェクト管理)、リサリスト(データベース)がついていました。

 当時、私が勤めていた会社にキヤノン販売から評価用に借りたリサが置いてあり、さっそく使ってみましたが、リサドローではマウスを使って円や線を描くことができ、コンピュータとはコマンド入力して使うものという固定観念がくずれ衝撃を受けました。またマルチウィンドウ対応になっていて表計算で計算した結果を見ながら別のウィンドウで文章を打つことができました。リサによってコンピュータは一画面だけで操作するものだという常識をぶっつぶしてしまいます。

リサの失敗の教訓がマッキントッシュに

 日本に販売チャネルがなかったアップルはキヤノン販売と提携。キヤノン販売が全国の主要都市に展開していたゼロワンショップでリサは発売されます。リサは先進的なパソコンでしたが一万ドル(当時の日本円で約二百三十三万円)ちかい価格はあまりにも高すぎ、商業的には失敗でした。

 そこでリサの機能の七十%しかなくても、価格が二十%のパソコンを作ろうと、1984年に初代マッキントッシュが発売され(当時の価格は二千四百九十五ドル)、今に続くマッキントッシュになります。

 『ジョブズの料理人』(日経BP社)によればシリコンバレーにあった寿司「桂月」にジョブズは自分で寿司を注文して自分で取りに来ていました。一人で来ることもありましたが奥さんやロンドンから来た娘のリサを連れて、よく来店していました。

デルの創業者は外科医になる予定だった 1984年

メーカーで一番困るのが在庫。作っても売れなければ不良在庫となり、儲けはふっとんでしまいます。不良在庫がでないデル・モデルは、いわば持ち帰り弁当店と同じビジネスモデル。コロッケなどを揚げる前の状態で保存しておき、注文があってからコロッケを揚げて、弁当の形にして販売することで在庫リスクをなくしています。

 デルでは注文があると注文内容に合わせてパソコンを組み立て販売します。デル・モデルとは直接販売と受注生産を組み合わせたビジネスモデルで流通在庫や完成品を持たなくてもよく不良在庫を抱えるリスクをなくせます。

 デルのサイトでは、デスクトップやノートパソコンがかなり安い価格で購入でき、直販の強みになっています。卸や小売を通しませんので、中間マージンを削減でき、価格を下げても利益を確保できます。また注文の傾向などから売れ筋や消費者のニーズなどを直接手に入れ、自社のマーケティングや商品開発に活用することができます。デルは創業時から通信販売をしていましたが、一時は小売・量販店にも製品を卸していました。1990年代初頭に直販専業となり、デル・モデルを作り上げ磨き上げました。

外科医を目指して大学へ

 このビジネスモデルを作り上げたのがマイケル・デルです。マイケル・デルは1965年生まれで、家族が医師だったこともあり、外科医を目指して地元テキサス大学オースチン校へ進学します。

 ところがわずか十二歳の時に、切手ビジネスを始めるなど小さい頃からいろいろ商売に手を出していたこともあり、大学の学生寮で当時出たばかりのパソコンの通信販売を始めていました。1984年当時、パソコンを売る販売店は登場していましたが高いマージンをとり、販売する側もパソコンのことをよく知らず、サポート体制も貧弱でした。そこでお客さんにダイレクトにパソコンを販売し、よいサポートを提供すればビジネスとしていけるのではと考え親に話しましたが、息子は医者になると思っていた親は当然、猛反対。

 意思の固いデルに親もついにおれ、期限をきって事業が軌道にのらなければ、医者の道に進むと約束し、ビジネスをスタートしました。千ドルの資金を元に学生寮の自室で会社を作ります。元手が千ドルしかありませんので在庫をかかえては資金繰りが問題となります。そこで注文があってから生産することにしました。しかも直販です。これが大成功しデル・モデルが誕生しました。

 マイケル・デルは結局、親に内緒でテキサス大学を中退、ビジネスに専念し、どんどん成長させていきます。二十四歳の時にナスダックに株式公開をおこない、デル・コンピュータに社名変更。(現在はデル)またいちはやくインターネットの可能性に着目しオンライン販売に移行させました。1992年、デルがフォーチュン500社入りをした時はフォーチュン500社のなかで最も若いCEOになりました。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/