バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第1章 コンピュータ黎明期から汎用コンピュータの時代(1)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

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1837年バベッジの解析機関(機械式コンピュータ)
1942年ABC(世界で最初に作られた電子計算機)
1946年エニアック(真空管式計算機)
1950年チューリングテスト(人工知能の考え方)
ユニバックⅠ(最初の商用計算機)
1957年フォートラン(科学技術計算向きプログラム言語)
1959年コボル(事務処理向けプログラム言語)
1964年システム360(汎用コンピュータ)

 「アンティキテラ島の機械」というのをご存じですか。

 クレタ島北西部にあるアンティキテラ島近くの海底に沈んでいた沈没船から発見された遺物です。歯車みたいなものが見えていましたが腐食しており、長い間、この遺物がなになのか、よくわかりませんでした。

 調査をすすめると紀元前150年頃にロドス島で作られた歯車式機械で、いわば最古の機械式コンピュータだったことがわかります。たくさんの歯車やギアが使われており、太陽や月の位置、日食や月食の時期、四年に一度のオリンピックまで表示できたようです。

ギリシャのペロポネソス半島とクレタ島の間にあるアンティキテラ島近海の沈没船から見つかった遺物。

 アンティキテラ島の機械のように、コンピュータの歴史は機械仕掛けから始まりましたが、現代のような電子式のコンピュータが始まったのは、第二次世界大戦がきっかけです。

 戦争では正確な弾道計算ができれば命中率があがります。モークリー(ペンシルバニア大学の教員)とエッカート(ペンシルバニア大学の卒業生)が弾道計算することを目的に軍に申請して予算をもらい、コンピュータの研究をすすめます。開発したコンピュータをエニアックと名づけました。モークリーは宣伝上手だったこともあり、エニアックが世界初のコンピュータという認識が広がります。1980年代の情報処理技術者試験ではエニアックを世界最初のコンピュータとして出題していたこともありましたが、今ではそれ以前に、他のコンピュータが開発されていたことがわかっています。

 やがてアメリカの統計局用にユニバックⅠ(UNIVACⅠ)が開発されたのを皮切りに、全世界にコンピュータが広がっていきます。初期のコンピュータは統計処理など用途が決まった専用マシンでしたが、アイビーエムがどの業務でも使えるシステム360を開発します。360とは360度、なににでも使えるという意味で、ここから汎用コンピュータという言葉がでて、企業に導入されるようになります。

 日本の企業に汎用コンピュータが導入され、できたのが電算室という部門。コンピュータというメチャクチャ高価で、わけのわからない物を扱い、おまけに英語の論文を読んで専門用語をしゃべる、かなり“とがった”人間が配属される部署でした。

 社内では、そろばんを使っていましたが、定型業務ではコンピュータのスピードにはかないません。各部署の業務をシステム化したいのですが自分たちではプログラムを作れないので電算室に頼むしかありません。電算室には開発の裁量権があり、トップはコンピュータのことなど理解できず、力のある電算室のいいなり。今では考えられませんが電算室が社内で大きな力をもっていた時期がありました。現在のシステム開発部は、さまがわりし、うまくシステムが動いていても感謝もされず当たり前と思われるだけです。トラブルがあれば、早く復旧しろと、やいのやいの言われる職場になっています。

 当時はプログラマがコーディングシートと呼ばれる紙に書いた手書きのプログラムを見ながら、そのまま紙カードに穴をあけるパンチャーという仕事がありました。受託専門の会社があり、たくさんのパンチャーを雇っていました。穴があいた紙カードの束がプログラマに届くと、カード読み取り装置にかけてプログラムをコンピュータに入れていきます。千行のプログラムであれば千枚の紙カードになります。

 つまずき紙カードをばらまくと目もあてられませんでした。

 そんなコンピュータ黎明期から汎用コンピュータが登場する頃のお話です。

世界最初のプログラマは女性だった 1837年

文字を一つ間違えただけで動かなくなるのがプログラム。白河法皇が自分の力ではどうにもならないと嘆いたのが「賀茂川の水、サイコロの目、山法師」の三つですが、今なら「地震、為替、プログラム」になるでしょう。小学校でプログラミング教育が始まりますが、小さいうちから自分の思い通りにいかないことを教育するには最適かもしれません。

 世界最初のプログラマはオーギュスタ・エイダ・キングといわれています。エイダはイギリス貴族の女性で夫はラブレース伯爵だったことから彼女はエイダ・ラブレースと呼ばれます。1815年に生まれ、1852年に亡くなりました。

 生年の1815年といえば日本では杉田玄白が「蘭学事始(らんがくことはじめ)」を出し、井伊直弼が生まれた年です。また没年の1852年は明治天皇が生まれ、ペリーの乗った軍艦が日本に向けて出航した年になります。エイダが生きた時代、日本では幕末に向けて大きく動いていた時代でした。

 エイダが結婚する前の姓はバイロン。バイロンといえば、あの十九世紀ロマン派を代表するイギリスの詩人バイロンです。エイダはバイロンの娘でしたが、両親は早々と離婚してしまいエイダはお母さんの元で育ちました。お母さんが数学を習っていたこともあり、エイダも数学が好きで、ド・モルガン(イギリスの数学者)に数学を教わっています。ド・モルガンって、どっかで聞いた名前ですね。そうです、中学で習う集合で出てくるのが「ド・モルガンの法則」です。

 エイダは知り合いにチャールズ・バベッジ(イギリスの数学者)を紹介されます。バベッジという名前はコンピュータの歴史を勉強すると必ず出てくる名前で、解析機関の発明者として有名です。解析機関とはすべての数列が最終的に単純な差で表されることを利用して、複雑な計算をおこなう機械です。たとえば整数を累乗した値は足し算だけで計算することができます。当時は歯車を使った機械で考案され、コンピュータのご先祖にあたります。

 解析機関に興味をいだいたエイダはバベッジの研究を助け、やがて解析機関のプログラムを書くことになり、世界最初のプログラマになったといわれています。でもエイダ自身はあまり幸福な人生ではなかったようで、ギャンブルで破産寸前になったりしながら三十六歳で亡くなっています。偶然にも父親バイロンが亡くなったのと同じ年齢でした。お墓は父バイロンの隣にあります。エイダの友人がフランケンシュタインの作者メアリー・シェリー(イギリスの小説家)で、プログラマだけでなくSF小説の創始者も女性でした。

 アメリカ国防総省の提唱で生まれたプログラム言語には、彼女の名前をとってエイダ(Ada)と名づけられました。またエイダの生まれた1815年にちなんで規格番号には1815の数字が入っています。プログラム言語エイダはボーイング777、F-22戦闘機の制御ソフトなどに使われています。

紳士は互いの信書は読まないものである 1931年

時には経営判断によって特定部門をつぶす必要があります。部門閉鎖にともない従業員解雇ともなれば、再就職先を世話するなど慎重にことを運ばないと、とんでもないことになりかねません。というのが日本の考え方ですが、ドライなアメリカというお国柄なのか国家機関の一つをつぶしたせいで、とんでもないことになってしまいました。

 ハーバート・オズボーン・ヤードレーというアメリカ人がいます。第一次世界大戦時に陸軍省所轄の暗号局ブラックチェンバー(闇の会議所)を設立し、暗号解読で活躍していた人物です。このブラックチェンバーが、ある日、国務省から予算を打ち切られてしまいます。

 当時はフーバー第三十一代大統領の時代で、国務長官のヘンリー・L・スティムソン(アメリカの政治家で原爆投下にも関与)が外交文章を盗み見るような行為は駄目とブラックチェンバーを閉鎖してしまいました。理由は「紳士は互いの信書は読まないものである」と政治の世界ではとうてい考えられないような能天気な理由です。ブラックチェンバーの従業員は年金等の補償なしに解雇されてしまいました。

 暗号解読によりアメリカに多大な貢献をしたことを評価せず、ブラックチェンバーを閉鎖したことにハーバートは憤慨。ほかの国は暗号解読をやっているのにアメリカだけやめるとはなにごとだ、と1931年に執筆したのが『ブラックチェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』という本です。

 本の中にはブラックチェンバーの内幕や、ドイツのインクを使った暗号、美貌のスパイなど暗号の裏話が満載で、いわゆる暴露本です。具体的な暗号の解読方法も書いてありました。アメリカでは発表と同時にベストセラーになり、日本でも緊急翻訳されます。アメリカ国民はこの本で、暗号局ブラックチェンバーの存在を初めて知ることになります。

 さすがに、“紳士は互いの信書は読まないものである”という牧歌的な時代はすぐ終わり、第二次世界大戦が近づくなか、暗号局は復活しました。今ではアメリカ国家安全保障局がアメリカ国家の安全を守るためという理由で世界中の通信を傍受しています。これまたスノーデンによって暴露されてしまいました。

プライバシーを守るソフト

 その後、国家が暗号をコントロールするようになったのですが、それに反対したのがフィル・ジマーマンというアメリカ人です。彼はもともとプログラマでしたが、同時に反核・反戦活動にもたずさわっていました。ある時、反核グループがFBIの捜査を受けてパソコンが押収されてしまい、内部データがFBIの手に渡ったことから、個人のプライバシーは個人で守るしかないとPGPというソフトを開発しました。

 PGPはPretty Good Privacyの略で、日本語で言えば“プライバシーを守る、クールなソフト”のようなニュアンスです。PGPを使えば暗号化したメールを送ることができますので、秘密のやり取りをする時に重宝します。まさにプライバシーを守るクールなソフトでした。

 アメリカでは暗号は兵器扱いで、PGPも輸出規制品項目でした。アメリカ以外にソフトを持ち出せば重大な犯罪行為になります。

 ところがアメリカというのは面白い国で、出版の輸出入は憲法上保証されています。そこでPGPのソースコードを印刷して本の形で輸出します。これなら法律違反になりません。輸入した国では本の内容をOCRから読みとることでコンピュータに取り込むことができ、PGPが世界中に広がっていきました。

 その後、アメリカ政府も輸出規制を緩和し、国外でもそのままPGPが使えるようになりました。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/