福田昭のセミコン業界最前線

半導体メモリ大手MicronのCEO、Appleton氏が急逝



 半導体メモリの大手メーカーであるMicron TechnologyのCEO(最高経営責任者)であるSteve Appleton氏が、2012年2月3日(米国時間)に飛行機事故で急逝した。51歳だった。

 Appleton氏がMicron Technology(以降はMicronと表記)のCEOに就任したのは1994年のことである。以来、17年にわたってMicronのCEOを務めてきた。半導体メモリ業界では、Appleton氏を知らない人はいないと言って良いくらいの著名人である。また年間売上高が約87億ドル、従業員数が約2万名という、米国のハイテク産業を代表する企業の1つにMicronを育て上げたCEOとして米国では知られている。

Steve Appleton氏Appleton氏の急死を悼む、Micronのホームページ画像(2月4日撮影)

●Micronの始まりはDRAM専業ベンチャー

 Appleton氏は1982年に米国アイダホ州ボイジ(Boise)市のBoise State University(ボイジ州立大学)の経営学士号を取得し、1983年にMicronに入社した。Micronは1978年の創業以来、ボイジ市に本社を構えている。1983年当時のMicronは、現在と違って創業5年のベンチャー企業である。地元の大学を卒業して地元の中小企業に就職するという、比較的地味な人生コースを選んだようにも見える。

 Appleton氏はMicronに入社以降、めきめきと頭角を現す。製造担当マネージャー、製造担当ディレクター、製造担当副社長を経て、入社してわずか8年後の1991年には社長兼COO(最高執行責任者)に就任する。COOはいわば、CEO(最高経営責任者)に次ぐ企業のナンバーツーである。

 Appleton氏がCOOに就任するまでのMicronは、DRAM製造を専業とするベンチャー企業であり、半導体メモリ業界に占める地位や評価などはそれほど高いものではなかった。確認のため、1978年の創業以降のMicronの歩みを振り返ってみよう。

1978年~1990年のMicronとAppleton氏、半導体業界の主な出来事

 Micronは設立3年後の1981年に初めての製品である64Kbit DRAMの製造を開始する。このとき大手DRAMメーカー、特に日本のDRAMメーカーは64Kbit DRAMを大量に生産中であり、日本系DRAMのシェアが米国系DRAMのシェアを追い抜いていた。64Kbit DRAMが市中で大量に販売されているところへ、Micronは新規参入したことになる。

 Micronにとって幸いだったのは、1980年代前半のDRAM産業がきわめて好調だったことだ。DRAMの需要は急速に拡大し、需給はタイトで供給は不足気味だった。Micronもその波に乗って急成長し、1984年にはNASDAQ(店頭市場)に上場する。

 ところが1985年に市況が急激に反転する。DRAMは供給過剰となり、価格が暴落した。米国ではDRAM事業から撤退する企業が相次いだ。そんな中、日本製DRAMをダンピング販売で米国通商代表部(USTR)に提訴したのがMicronである。なお、このときIntelは日本製EPROMをダンピング販売でUSTRに提訴している。その結果として生まれたのが日米半導体協定であり、DRAM価格に最低価格を設けることだった。最低価格の設定により、DRAMメーカーは息を吹き返す。一方で日米半導体協定のために、日本の半導体ユーザー企業は全体で外国系半導体を20%(金額ベース)も購入せざるを得なくなる。

 この当時、エレクトロニクス産業で働く日本人から見たMicronのイメージは、あまり良くないものになっていた。「政治家へのロビー活動に長けたDRAMメーカー」、「米国政府を動かして利益を確保したDRAMメーカー」といった評価である。それでもMicron自体は順調に事業を拡大し、1990年にはニューヨーク証券取引所に上場を果たす。

●Texas InstrumentsのDRAM事業買収で大手メーカーに

 Appleton氏は1991年にCOOに就任した後、1994年には社長兼会長兼CEOに昇格する。その直後、1996年~1997年にDRAM業界を襲ったのが再度のDRAM供給過剰と価格の暴落である。このDRAM不況でシェアを伸ばしたのが韓国系メーカーだ。日本系メーカーはシェアを失い、DRAM事業の再構築を迫られる。

1990年~2000年のMicronとAppleton氏、半導体業界の主な出来事

 DRAM業界が不況に喘ぐ中、Micronは1998年に、Texas Instruments(TI)の半導体メモリ事業(主力はDRAM事業)を買収する。この買収は半導体業界を驚かせた。米国の大手新聞USA Todayが2006年にAppleton氏にインタビューした記事によると、同氏はTIの半導体メモリ事業買収についてテニス(Appleton氏の趣味の1つ)のプレースタイルになぞらえながら、このように語っている。

 「日本企業のプレースタイルはミスをしないように、安全に行くというものだ。このやりかたは、グローバルな競争環境ではうまくいかないだろう。リスクを取るべきだ。1997年~1998年の半導体メモリ市況は本当に深刻で、厳しいものだった。どん底だった。どん底のところでTIの半導体メモリ事業を買収したものだから、評論家連中は私たちがおかしくなったと考えた。(しかし)この買収は私たちを大きく飛躍させた」。

 実際、この買収でMicronはDRAM大手の一角を占めるようになった。また1998年にはもう1つ重要な出来事があった。IntelがMicronに5億ドルを出資したことだ。NANDフラッシュメモリの共同開発など、IntelとMicronの現在の密接な関係を考慮すると、このことは見逃せない。

●CMOSイメージセンサーとNANDフラッシュメモリに参入
2001年~2012年のMicronとAppleton氏、半導体業界の主な出来事

 2000年以降もMicronは目まぐるしい動いていく。2001年~2010年の10年間における前半の大きな動きは、CMOSイメージセンサー事業とNANDフラッシュメモリ事業への参入である。

 2001年にMicronはCMOSイメージセンサーの開発企業Photobitを買収する。この買収が功を奏し、2005年にはCMOSイメージセンサーの市場でシェアトップの企業となる。スチルカメラやビデオカメラなどのイメージセンサー技術がCCDからCMOSへと移行する時期と重なり、CMOSイメージセンサーの事業は拡大していく。

 2004年には2GbitのNANDフラッシュメモリを開発し、NANDフラッシュメモリ事業に参入する。そして2005年にはNANDフラッシュメモリの共同開発と、NANDフラッシュメモリ製造の合弁会社設立でIntelと合意する。この製造子会社IM Flash Technologiesは2006年に設立された。同社が製造したNANDフラッシュメモリは全量がIntelとMicronに出荷される。MicronはIntelとの提携により、NANDフラッシュメモリの大手企業へと成長していく。

 また2001年には神戸製鋼所とTIの合弁企業KTIセミコンダクター(TIの半導体メモリ事業買収により、実質は神戸製鋼所とMicronの合弁企業になっていた)に関する神戸製鋼の持ち株を買い取り、KTIセミコンダクターを子会社化する。これが現在の日本法人、マイクロンジャパンである。

●半導体メモリの世界ナンバー・ツーへ
IntelとMicronが2011年末に共同開発を発表した128Gbit NANDフラッシュメモリのシリコンダイ写真。記憶容量128Gbitはシングルダイとしては過去最大である

 2010年までの10年間の後半も、Micronの動きは目まぐるしい。後半の大きな動きは、CMOSイメージセンサ事業の分離と、NORフラッシュメモリ事業の買収である。

 一時は事業の柱となっていたCMOSイメージセンサー事業だが、2008年には子会社として事業を分離する。そして2009年には子会社の株式の大半を投資ファンドに売却し、CMOSイメージセンサー事業からは事実上、撤退してしまう。

 CMOSイメージセンサー事業を売却した直後の2010年には、NORフラッシュメモリ大手のNumonyxを買収する。NumonyxはIntelとSTMicroelectronicsの合弁企業で、IntelのNORフラッシュメモリ事業、STMicroelectronicsのNORフラッシュメモリ事業とNANDフラッシュメモリ事業、IntelとSTMicroelectronicsの共同開発による相変化メモリ事業を承継していた。これらの事業すべてがMicronの手中に収まった。その結果、MicronはDRAMとNANDフラッシュメモリ、NORフラッシュメモリの全てで大手ベンダーとなり、売上高で世界第2位の半導体メモリメーカーとなった。

●Appleton氏の趣味と突然すぎる死

 Appleton氏の趣味がテニスであることは先に述べたが、もう1つの趣味が、自家用飛行機による曲芸飛行である。USA TodayによるとAppleton氏は20機を超える飛行機を所有していたという。米国アイダホ州のオンラインニュースIdaoStatesman.comが伝えた記事によると、事故当日にAppleton氏は、小型飛行機Lancairを操縦してBoise空港から午前8時54分(現地時間)に離陸すると、100~200フィートの高さでバンクし、そこから失速してロールし、墜落した。大地に激突するまで機体は発火しておらず、激突後に機体は炎上した。乗員は同氏だけだった。

 Appleton氏が操縦していたLancairは高性能な小型飛行機として知られており、Appleton氏のような操縦技術に長けたパイロットでないと、扱うのが難しいとされている。USA TodayがAppleton氏の死去を伝えた記事によると、米国連邦航空局(FAA:Federal Aviation Administration)は2010年に、Lancairは地上近くで低速飛行すると失速する傾向があるとの注意書きを発布していた。

 またAppleton氏が航空機を操縦して墜落事故を起こすのは、これが初めてではない。2004年にはボイジ市の東にある砂漠に墜落し、肺臓や椎間板などを潰す大けがを負っている。

●「明日死んでも不満はない」
Mark Durcan氏

 Appleton氏が事故死した翌日の2012年2月4日(現地時間)、Micronは同社のCEOにMark Durcan氏が就任すると発表した。同氏は1984年にMicronに入社し、2007年から社長兼COOを担当していた。年齢はAppleton氏と同じ51歳である。

 この人事は妥当なものと言えるが、問題もある。Durcan氏は2012年8月末日(Micronは8月が会計期末)付けで引退する予定であることだ。このことは1月26日付けで発表されていた。このためMicronの取締役会は、後任のCEOが選任されて就任するまでの間、Durcan氏がCEOを務めると2月3日に発表している。

 半導体メモリは変化の激しいビジネスだ。常にリスクがつきまとう。USA Todayの2006年のインタビュー記事でAppleton氏は、質問者が「リスクに関して言えば、曲芸飛行の事故で貴方は死にかけた。その貴方が勇敢さについてアドバイスする理由は」と述べたのに対し、このように答えている。

 「年齢を重ねるにつれて人は、より大きなリスクを取るべきだ。George Bush Sr(先代のブッシュ元大統領)が80歳でスカイダイビングに興じたように。パラシュートがもし開かなかったら、どうなっていただろうか。~(中略)~。私は明日に死んだとしても、不満はない。人が人生に期待していた以上のものを経験してきたから」。

 Appleton氏のご冥福を謹んでお祈りいたします。

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(2012年 2月 6日)

[Text by 福田 昭]