福田昭のセミコン業界最前線
日本企業とIntelの「真剣勝負」から生まれた世界初のマイクロプロセッサ
2017年7月31日 06:00
世界初のマイクロプロセッサ「4004」を生み出すきっかけは、日本企業がIntelにカスタム半導体チップの共同開発を持ちかけたことにあった。具体的には、1969年(昭和44年)初めに日本の計算器製造・販売会社「ビジコン」が半導体の開発と製造を米国の半導体メモリベンチャーIntelに依頼したことが、世界初のマイクロプロセッサ「4004」を生み出すきっかけになった。このことは、プロセッサの歴史に関心の深いPCユーザーの間では、良く知られている。
しかしIntel本社にある「インテルミュージアム」の4004説明パネルに欠けているように、ビジコンとは「どのような企業だったのか」、ビジコンが「なぜIntelを選んだのか」、といったことはあまり良く知られていない。本コラムの前回(Intelに「世界初」のプロセッサ開発をもたらした日本企業)では、ビジコンの歴史と、ビジコンがIntelを選択した理由を説明することで、これらの疑問にある程度はお答えできたと思う。
カスタム論理チップからマイクロプロセッサへの転換
残る疑問は、共同開発の内容が大幅に変化した理由である。ビジコンは当初、カスタム論理チップの共同開発をIntelに依頼した。マイクロプロセッサの開発は想定していない。にも関わらず、共同開発プロジェクトの内容は大きく変貌し、マイクロプロセッサを含めた4チップのファミリを共同開発するプロジェクトへと至る。
この経緯に関しては、ビジコンの論理設計者だった嶋正利氏による著作や回想録などがいくつか存在する。嶋氏から見たマイクロプロセッサ「4004」開発の概略は、マイクロプロセッサの歴史に関心のある日本のPCユーザーなどの間ではご存知の方が少なくない。
またIntelが「世界初のマイクロプロセッサ開発企業」であることを強調するあまり、Intelが一般向けにリリースした資料では「4004開発におけるビジコンの嶋正利氏の貢献を意図的に軽視してきた」との印象(例えばIntelによる4004開発40周年を記念したWebサイトの一部を日本のPC関係者に与えてしまった傾向がある。
しかしIntelの一般向け資料ではなく、Intelのエンジニアによる回想録や、当時の最高経営責任者(CEO)であるロバート・ノイス(Robert Noyce)氏が国際学会で発表した論文などからは、少し違った情景が見えてくる。
その1つは半導体スタートアップ企業だったIntelの苦しい台所事情と開発能力の限界である。もう1つは、日本と米国の企業文化の違いだ。お互いがお互いを「知らない」ことによる行き違いがさまざまなドラマを生むことになった。
そこで本コラムの今回は、カスタム論理チップの共同開発がどのような経緯でマイクロプロセサファミリの共同開発へと変貌していったのかを、少しだけ説明したい。なお以下は人物名の敬称を略しているので、ご容赦されたい。
基本合意に基づく開発(前期)と正式契約に基づく開発(後期)
ビジコンとIntelによる世界初のマイクロプロセッサ開発プロジェクトは大きく、2つの期間に分けることができる。初めは両社の基本合意(1969年(昭和44年)4月28日に仮契約を締結)にもとづく開発で、正式契約(本契約)につながる最初のステップである。1969年(昭和44年)4月から12月までがおおむねこの期間にあたる。本稿では便宜上、この期間を「開発前期」あるいは「前期」と呼ぶ。
ビジコンとIntelが共同開発を本格化させるのは、正式契約(本契約)を1970年(昭和45年)2月8日に締結してからだ。同年4月7日にビジコンの嶋正利がIntelに到着してから、4004ファミリの開発が始まる。Intelが4004ファミリの販売を発表するのは、翌年の1971年(昭和46年)11月のことである。そこで本稿では1970年2月から1971年11月までの期間を「開発後期」あるいは「後期」と呼ぶ。
ビジコン側の事情と思惑
ビジコンがIntelに半導体開発を依頼した目的は、公式には「プリンタ(印字機能)付き電子式卓上計算器(Desktop Calculator)の『Busicom 141-PF』向けに」半導体チップ群を共同開発し、Intelに共同開発したチップの製造を委託することにあった。先述のように、ビジコンとIntelの共同開発は、契約ベースで見ると、2段階のステップを踏んで進んだ。最初のステップは、基本合意書(仮契約)の締結である。仮契約が結ばれたのは、1969年(昭和44年)4月28日のことだ。
基本合意の要旨は、「電卓用」半導体チップセット(注:基本合意書では「キット」と呼称)の開発意思を双方が確認したこと、半導体チップセットの独占販売権を一定期間はビジコンが持つこと、製造用前払い金10万ドル(後に開発用6万ドルに変更)をビジコンが支払うこと、などである。
ビジコンの会社沿革を解説した本コラムの前回では、ビジコン(日本計算器販売)に対する開発工場を「日本計算器」が担っていると説明した。
追加の説明を加えると、日本計算器の電卓開発工場は大阪(茨木市)にあり、Mostekとの電卓用ワンチップLSIの共同開発を担当した。これに対して東京には、ビジコンと日本計算器、三菱電機の共同出資による電卓開発会社「電子技研工業」が1968年に設立されていた。この電子技研工業に出向あるいは移籍していた技術者が、Intelとの共同開発プロジェクトを担当した。
共同開発の目的は、ビジコンにとって初めてのプリンタ付き電卓「141-PF」の開発であった。ただし、半導体メモリ(ROM)にプログラム論理を格納するアーキテクチャを採用していたので、電卓以外の用途にも開発した半導体チップは応用可能である。そこでビジコンでは、伝票発行機(ビリングマシン)や銀行端末、キャッシュレジスタなどへの応用も想定していた。ただし、こういった用途はOEM(相手先ブランドによる製造)ビジネスが主体となるため、Intelには応用を「電卓用」とだけ伝えていた。このことは後になって、トラブルの原因となる。
ビジコンにとってプリンタ付き電卓「141-PF」の開発プロジェクトは決定事項であり、Intelとの基本合意(仮契約)は単なる通過点でしかなかった。ビジコンの技術者チームが渡米し、Intelにビジコンの設計案を説明して詳細を詰めれば、そのまま本契約へと移行すると思われた。本契約を済ませ、開発ステップを基本設計から詳細設計へと進め、Intelがレイアウト設計を実施してチップセットを製造する。必要なリソースは「当然」Intelが用意している。後から考えると、信じがたいほど楽観的なシナリオだった。
日本企業の「当然」は、米国企業の「当然」ではない。カードゲームにたとえれば、お互いのカードはまだ伏せられたままだった。実態は、カードゲームの競技卓にビジコンとIntelが座っただけに過ぎない。
Intel側の事情と思惑
1968年(昭和43年)7月18日に設立されたIntelは当時、スタートアップ企業であり、技術ベンチャー企業であり、つねに資金繰りの心配をしなければならなかった。ビジコンと基本合意契約(仮契約)を結んだ1969年4月のIntelは、最初の製品であるショットキー・バイポーラRAM「3101」を発売したばかり。売り上げはまだゼロで、出資金を取り崩して食いつないでいる状態だった。
1969年12月期のIntelの業績報告書によると、年間売上高は約37万ドル、損益は当然ながら赤字で、約191万ドルの損失を計上している。売り上げが出始めるのは、1969年7月である。
つまり、創業わずか1年にも満たない、売り上げがゼロの時期に、10万ドルもの資金を得られる開発案件が日本から舞い込んできた。Intelに限らず、どの半導体スタートアップ企業であっても、この開発案件を断ることなど考えられないだろう。10万ドルが6万ドルに減ったとしても、事情はあまり変わらない。仮契約を結ぶまでは、「できない」なとどは口が裂けても言えない。とりあえず仮契約を結ぶ。考えるのはそれからでも遅くない。
仮契約を結んだIntelは、アプリケーション部門(応用研究部門)のマネージャーであるテッド・ホフ(マーシャン・エドワード・ホフJr.: Marcian Edward Hoff, Jr.))を当面の担当者に据える。といってもビジコンとの開発プロジェクトは本業ではなく、コンサルタントとしてである。基本合意が成立したといっても、ビジコンとの今後の交渉次第では、本契約に至らないことが考えられるからだ。Intelを含めた米国企業では、ジョブ(仕事)が発生する、あるいは発生することが確実になってから、必要な人材を雇用するのが通例である。「仮」契約では、新たに人を雇う理由としては弱い。
一方、ビジコンは嶋正利が東北大学を卒業してすぐに入社したように、日本の中堅企業であり、新卒採用がある。ジョブ(仕事)が新たに発生しなくても、何の仕事もできない新卒でも、社員として雇用する。日本企業と米国企業の文化の大きな違いの1つが、この雇用方針にある。そのほかにも、企業文化の違いは少なくない。さまざまな違いが浮き彫りになるのは、1969年6月にビジコンの技術者チームが渡米してからである。
空中分解の危機を迎えた共同開発
ビジコンの技術者3名(増田、高山、嶋)は1969年(昭和44年)6月に、米国カリフォルニア州マウンテンビューのIntelを訪れる。ビジコンでは渡米前に、電卓用LSIの論理設計と回路設計、回路シミュレーションを完了していた。さらに各LSIの論理図の大半を作成済みだった。渡米の段階で、共同開発を本格的に始められる準備が整っていた。
前のめりに開発を進めようとするビジコンにとって、Intelの対応は予想外だった。あまりにも冷ややかだったのだ。半導体メモリメーカーであるIntelには、電卓の論理設計やアーキテクチャなどに関するリソースがまったくと言っていいほど存在しておらず、しかも電卓に関する技術情報をほとんど収集していなかった。専任担当者が存在しなかったのだから、電卓に関する技術情報の収集がおろそかになっていたのは当然である。仮契約段階でそこまでする義理は、Intelにはなかった。
ビジコンは「当然」そのような事情を知らない。対応したテッド・ホフを専任担当者だと思い込み、設計案の内容を説明した。テッド・ホフは設計案にあまり興味を示さないように、ビジコンの技術者には見えた。不可解だった。
しかしテッド・ホフは、ビジコンの設計案の問題点を見抜いていた。1997年に「世界初のマイクロプロセッサの開発」の功績で「京都賞」を受賞したホフは記念講演で、ビジコンが依頼してきた半導体チップ群について以下のように述べている。
「彼らの設計は1つのチップファミリで多くの異なった電卓モデルを実装しようとするため、チップの種類が多くなりすぎ、またチップ自体が複雑になりすぎて、Intelの限られた設計能力を超えてしまうのではないかという不安を持つようになりました。また、チップの数が多く複雑なために、電卓の製造コストも高くなりすぎるのではないかと懸念しました」。
テッド・ホフはメインフレーム(IBM 1620)のプログラミング経験があり、またミニコンに関わっていた。Intelに1968年に入社したのは、半導体メモリの重要なアプリケーションである、コンピュータのことが分かる人材が必要だったからだ。
粗く断言してしまうと、当時のIntelには8種類もの複雑な半導体チップを同時並行的に開発する能力はなかった。そしてシステム(電卓)を構成するキットの価格である50ドル(基本合意書の価格)は、ビジコンの設計案では半導体チップが大きく多くなりすぎて実現が不可能だとIntelは判断した。
1969年(昭和44年)8月21日には、Intelのノイスからビジコンの小島宛に、最後通牒とも受け取れる手紙が送られた。Intelの概算ではキットの価格が300ドルになってしまうことを通知するとともに、開発プロジェクトを継続するかどうかを問い合わせるものだった。価格が跳ね上がってしまう理由は、ビジコンの設計案が複雑なランダムロジック回路を使っていることと、開発する集積回路の種類が多すぎることなどとされていた。ビジコンとIntelの共同開発契約はこのままだと、本契約に進まない可能性が強まってきた。
コストを大幅に下げたマイクロプロセッサのアイデア
ところが1969年8月下旬に突破口が開き始める。テッド・ホフが最初のマイクロプロセッサの原型となるアイデアを提案したからだ。しかしこのアイデアは、すんなりと受け入れられたわけではない。嶋とその上司である高山省吾から見るとホフのアイデアは、開発プロジェクトのやり直し(すなわち新製品の発売の遅れ)を意味したからだ。
技術的にも大きな問題があった。ビジコンの技術者にとってホフのアイデアを受け入れにくかった大きな理由は、ビジコンが開発しようとしていたプリンタ付き電卓の論理アーキテクチャは10進法の演算であったのに対し、ホフのアイデアは2進法の演算であったことによる。
まず、2進法の演算ユニットではトランジスタ数は減るものの、速度が低下する。プリンタ付き電卓には、印字中でもキー入力を受け付けるというリアルタイム制御が必要である。ビジコンの設計案はハードウェアによる制御である。
しかしホフのアイデアではソフトウェアによって制御を実行しなければならず、実現には大きな不安があった。また2進法の演算アーキテクチャでは、必要なメモリの容量が著しく大きくなってしまうという問題もあった。さらに、2進法のアーキテクチャによる4bitのマイクロプロセッサというアイデアは、演算部分だけのものであり、電卓の回路全体をカバーするものではなかった。
意外にも、ビジコンの社長である小島義雄と技術部長の丹羽堂は、テッド・ホフのアイデアを採用する。その大きな理由は、ホフのアイデアが汎用性を備えていることに気付いたからだ。ビジコンが当初から考えていた伝票発行機や銀行端末などへの展開が、容易になると期待できた。しかもキットの価格は、当初の案よりも下がる。開発プロジェクトはやり直しになり、開発スケジュールは当初よりも遅れることになるが、それも許容されたと見られる。
ただし、技術的に解決しなければならない問題はいくつも残っていた(詳しくは嶋正利「世界初のCPU「4004」開発回顧録(5)」を参照されたい)。Intelは開発負担を軽減するためにマイクロプロセッサの開発にとどめ、メモリは市販の半導体メモリ製品の採用を主張した。これはシステムのコストが大幅に上がってしまうため、ビジコンは専用メモリの開発を主張して譲らなかった。専用メモリを開発することに決まっても、必要な容量が大きすぎるという問題は残っていた。
Intel側にはアプリケーション部門の技術者として1969年に入社したスタンレー・メイザー(Stanley Mazor)が加わった。ホフ、メイザー、嶋らによる、4bitマイクロプロセッサを基本とする設計案の見直し、あるいはIntelとビジコンの厳しくかつ本格的な交渉は、1969年9月から同年の12月まで続いた。技術的な課題に対処する作業はすなわち、Intelとビジコンの交渉(正式な契約に向けての交渉)を意味した。交渉にあたってビジコン側の窓口となったのが、ソフトウェアとハードウェアの両方を理解できる嶋だった。
解決案として、命令セットの修正や追加(例えば、2進化16進数を2進化10進数(バイナリコーデッドデシマル)のデータに変換する命令の追加によるメモリ容量の削減)が実施された。さらに、電卓用言語をマイクロプロセッサで実行するためのインタプリタ機能を開発した。
インタプリタ機能の実装も、メモリ容量の削減に大きく寄与した。チップセットの構成も見直された。マイクロプロセッサチップのほかにROMチップとRAMチップを開発することとした。入出力機器(キーボードとプリンタ)をソフトウェアでリアルタイム制御(実時間制御)する機能も開発し、そのためにシフトレジスタ(SR)チップを追加することになった(詳しい経緯は、嶋正利「世界初のCPU「4004」開発回顧録(6)」、同「世界初のCPU「4004」開発回顧録(7)」、同「世界初のCPU「4004」開発回顧録(8)」を参照されたい)。
こうしてビジコン案の8種類のチップは、ビジコンとIntelの激しい交渉作業によって4種類のチップへと昇華した。種類は減ったが、電卓の構築に必要なLSIの個数は10個で、変わらなかった。ただしキット価格は、大きく下げられた。交渉が完了したのは1969年(昭和44年)12月のことである。
そして翌年(1970年)の2月6日に、ビジコンとIntelの間で正式な共同開発契約(本契約)が結ばれる。これで共同開発が順調かつ本格的に進んでいくはず、とビジコンは期待した。だが、ビジコンとIntelの共同開発プロジェクトは、またもや大きな行き違いと紆余曲折を生んでしまう。詳しくは本コラムの次回以降で説明したい。
なお以上の記述は、嶋正利の回想「マイクロプロセッサ4004の開発」、嶋正利の回想録「マイクロコンピュータの誕生」(岩波書店、1987年発行)、嶋正利の1997年京都賞受賞記念講演「私とマイクロプロセッサ―初めに応用ありき、応用が全てである」、佐野正博(明治大学経営学部)の論文「マイクロプロセッサ-Intel4004の製品開発プロセス」、嶋正利による回顧録「嶋正利のプロセッサ温故知新」を参考にした。いずれも重要な歴史的資料である。これらの著者には、個人的に深く感謝したい。