福田昭のセミコン業界最前線
世界初のマイクロプロセッサ開発を巡る日米エンジニアの苦闘
2017年8月8日 11:41
日本企業ビジコンの電卓用LSIセット開発プロジェクトは、Intelの提案によって世界初のマイクロプロセッサ「4004」の開発プロジェクトに変貌した。そのジグザクな経緯は、本コラムの前回(日本企業とIntelの「真剣勝負」から生まれた世界初のマイクロプロセッサ)でご報告した通りだ。具体的には、1969年(昭和44年)4月28日に仮契約が締結されてから、翌年(昭和45年)2月6日に本契約が締結されるまでの期間である。本契約の締結によって、マイクロプロセッサ「4004」の開発プロジェクトは今度こそ、円滑に進むとビジコンには思われた。しかしその期待は、あっけなく裏切られる。
今回は、本契約以降から、Intelが「4004」ファミリを市販するまでの開発ドラマを述べていく。ただしその前に、1950年代~1960年代に米国の半導体産業がどのような状況であったのかを簡単に説明しておきたい。
シリコンバレー黎明期の主役、フェアチャイルド半導体
米国における半導体産業は1950年代に始まる。電気/電子システム企業であったTexas InstrumentsやMotorolaなどが新規事業として半導体事業を手がけた。そしてカリフォルニア州のシリコンバレーでは、シリコンバレー地域にとって初めての半導体メーカーである「ショックレー半導体研究所(Shockley Semiconductor Laboratory)」が、1956年(昭和31年)に誕生する。そして翌年には、ショックレー半導体研究所を辞めた8名のエンジニアが、「フェアチャイルド半導体(Fairchild Semiconductor International)」を同じシリコンバレーに設立する。
このフェアチャイルド半導体が、シリコンバレーにおける半導体産業の開祖であり、さまざまな半導体ベンチャーを生み出す母体となった。同社が半導体の技術開発で世界の最先端を突っ走っていたのは、1957年の設立からおよそ10年、すなわち1968年ころまでだ。ロバート・ノイス(Robert Noyce、Intelの共同創業者)によるシリコンのプレーナ型半導体プロセスの開発、ゴードン・ムーア(Gordon Moore、Intelの共同創業者)による「ムーアの法則」の提唱などはいずれも、彼らがフェアチャイルド半導体に在籍していたときの成果である。このほかにも標準論理ICの開発、オペアンプの開発、多結晶シリコンゲートMOSプロセスの開発など、素晴らしい開発実績を挙げている。
また重要なことは、フェアチャイルド半導体は「シリコン」の半導体製品を開発/製造する目的で設立されたことだ。1950年代後半の半導体製品はゲルマニウムが主流であり、シリコンの実用化にはまだ問題があった。しかし共同創業者の1人であるロバート・ノイスは、シリコン材料がきわめて安価であることに注目し、始めからシリコンでゲルマニウムを置き換えるとともに、半導体製品を安価にして世の中に普及させることをもくろんでいた。
しかしフェアチャイルド半導体は独立資本の企業ではなく、ファチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメント(Fairchild Camera and Instrument)が出資した子会社だった。半導体会社は西海岸にあり、親会社は東海岸にあった。そして親会社は、半導体会社が挙げた利益を半導体会社に還元せず、いろいろなベンチャー企業の買収に回していた。また半導体会社の幹部に対する冷遇が存在していた。
このようなことから1960年代後半に入ると、フェアチャイルド半導体の有能な幹部や著名な技術者などがスピンアウトして、別の半導体ベンチャーを立ち上げる動きが活発化する。そして1968年にはノイスとムーアがフェアチャイルド半導体を辞め、Intelを同年7月に創業する。有能な経営幹部と優秀な技術者の大半が流出したフェチャイルド半導体は、1970年頃には半導体産業の先導役であり続けることは不可能になってしまった。
共同開発プロジェクトの本契約から外販までを描く
話題を元に戻そう。1970年(昭和45年)2月6日に、ビジコン(厳密にはグループ企業3社)とIntelの間で半導体チップセットの共同開発に関する本契約が締結される。
本コラムの前回では、開発期間を2つに分けて以下のように定義した。「ビジコンとIntelによる世界初のマイクロプロセッサ開発プロジェクトは大きく、2つの期間に分けることができる。始めは両社の基本合意(1969年(昭和44年)4月28日に仮契約を締結)に基づく開発で、正式契約(本契約)につながる最初のステップである。1969年(昭和44年)4月から12月までがおおむね、この期間にあたる。本稿では便宜上、この期間を「開発前期」あるいは「前期」と呼ぶ」。
前回は、この前期に相当する期間の経緯をご報告した。また、「ビジコンとIntelが共同開発を本格化させるのは、正式契約(本契約)を1970年(昭和45年)2月6日に締結してからだ。同年4月7日にビジコンの嶋正利がIntelに到着してから、4004ファミリの開発が始まる。Intelが4004ファミリの販売を発表するのは、翌年の1971年(昭和46年)11月のことである。そこで本稿では1970年2月から1971年11月までの期間を『開発後期』あるいは『後期』と呼ぶ」と説明した。今回は、この「開発後期」について少し詳しく述べていこう。
4つのチップを共同開発する本契約の概要
1970年2月に結ばれた正式契約(本契約)では、4種類の半導体チップを共同開発することとなった。内訳は、4bitのマイクロプロセッサ(注:当時はまだ、「マイクロプロセッサ」という名称は存在していない。「ARU」と呼んでいた)、容量2,048bitのROM、容量320bitのRAM、それからシフトレジスタである。
開発費は6万ドル。これとは別に、ROM(マスクROM)のマスク代金が1種類につき2,000ドル。これらがビジコンからIntelに支払われる。
開発が完全に停止した「空白の4カ月」
本契約が結ばれたことで、Intelはマイクロプロセッサを含めたチップセットの設計作業を本格化すると、ビジコンは期待した。本契約の2カ月後、ビジコンの担当者が開発の進行状況をチェックするために渡米する。担当者とは嶋正利、ただ1名のみ。前年にさんざん苦労させられた嶋は、Intelに対して一抹の不安を抱きながらの再訪問となった。その不安は最悪の形で的中する。
粗く言ってしまうと、1969年12月の開発状況(嶋正利が帰国したときの状況)と、1970年4月の開発状況(嶋正利が再びIntelを訪れたときの状況)は、まったく変わっていなかった。なんの進展もなかった、4月7日にIntelを訪れたときのことを、嶋正利は以下のように回想している。
「インテルを訪問すると、1週間前に入社したという新しい担当者であるシリコンゲートテクノロジーの第一人者であるファジン博士を紹介されました。不安が的中して、プロジェクトは全く進行していないばかりでなく、仕事の引き継ぎもされていませんでした」(嶋正利の1997年度京都賞受賞記念講演「私とマイクロプロセッサ―初めに応用ありき、応用が全てである」から)
「今度の訪問目的はインテルが設計している論理回路図の確認であった。かなりの進ちょくを期待して、インテルを訪問した。……(中略)……少し強い口調で、「設計図を見せてくれ」と問うと、「何もない」と言う。本当に1枚の図面もなかった。設計は全く進行しておらず,仕事の引き継ぎに関してもメイザーからの簡単な説明以外は全くなされていなかった。メイザーからの説明の翌日に私が訪問したとのことである」(嶋正利、「世界初のCPU「4004」開発回顧録(9)」から)
「さらに悪いことに、開発技術者はファジンと2人のレイアウト設計者しかいなく、論理設計者はいませんでした。」(嶋正利の1997年度京都賞受賞記念講演「私とマイクロプロセッサ―初めに応用ありき、応用が全てである」から)。論理設計者なしでは、IntelはCPUを設計できない。事態は深刻であった。
Intel側の事情と限界の露呈
それではこの間、Intelは何をしていたのだろうか。平たく言ってしまうと、「複数の半導体メモリ製品の開発作業で手が一杯になっており、4004開発に割けるリソースがなかった」のである。ロバート・ノイスはテッドホフとの共著論文「A History of Microprocessor at Intel」(IEEE MICRO, Feb. 1981)で、以下のように述べている。「Because of Intel’s small design staff and active development programs in memory products, however, little progress was made until Federico Faggin joined Intel in the spring of 1970」(同論文の11ページから)。
それでは業務の「引き継ぎ」についてはどうだろうか。日本企業では「引き継ぎ」が旧担当者の義務として受け止められている。しかし米国企業の常識に日本的な「引き継ぎ」は存在しない。引き継ぎを含めた業務の立ち上げは、新しい担当者の義務なのだ。旧担当者が社内に残っていれば(残っていないことは珍しくない)、新しい担当者が旧担当者に情報を求めることある。しかし、「引き継ぎ」は旧担当者の義務ではない。ここには企業文化のギャップがみられる。
もっとも、ファジンは入社して数日しか経過していない段階で嶋正利に矢面に立たされている。事情を把握した日本企業の社員からすれば、Intelはファジンに対して厳しすぎるように見えるだろう。嶋正利もファジンが置かれた厳しい立場を、徐々に理解していく。
論理設計者については、Intelは求人をかけたものの、雇用できなかったようだ。「契約書では2人の技術者を雇うことになっていたが,4ビットのコンピュータということで,誰にも興味を持たれず,論理回路設計者を雇うことができなかったらしい」(嶋正利、「世界初のCPU「4004」開発回顧録(9)」から)。
これには同情の余地がある。Intelは仕事の内容を「4bit」のCPU開発と説明した可能性が高い。ところが、論理設計者の主な仕事とは世界初のマイクロプロセッサではなく、メインフレームの設計である。「32bit」クラスの複雑なCPU設計が主流なのだ。彼らからみると「電卓向け4bit CPU設計」の仕事など、論外だったのだろう。
フェデリコ・ファジンの不幸と幸福
Intelは、新人のフェデリコ・ファジン(Federico Faggin)を初めから、嶋正利の担当に据えて矢面に立たせようしたように見える。それには事情があった。ファジンは自分からIntelへの移籍を売り込んでいた。
ファジンはフェアチャイルド半導体で多結晶シリコンゲートMOSプロセスを開発した優れた技術者であり、フェアチャイルド半導体の凋落に幻滅し、Intelへの入社を切望していた。1970年の始めには、フェアチャイルド半導体時代の上司でIntelに移籍したレス・ヴァダズ(Leslie L. Vadász)MOS設計部長に、Intelへの就職を打診している。
ヴァダズ部長はファジンを採用することを決めたものの、ファジンが担当するプロジェクトについては明かそうとしなかった。「このプロジェクトについてはなかなか全容を明かしてもらえませんでした。レス(筆者注:レス・ヴァダズ部長のこと)はただ、日本の顧客のために4個のチップの設計をしていて、ランダム・ロジック設計が必要なチップもあるとしか言いませんでした」(フェデリコ・ファジンの1997年京都賞受賞講演「シリコンバレーでの我が半生―新製品開発にかけて」から)。
ファジンが入社した日付ははっきりしない。4月上旬であり、嶋正利と面会する4月7日以前であることは確かなのだが、資料によって日付けにばらつきがあるのだ。4月7日は火曜日なので、ファジンがその前日に初めてIntelに出社した(そのような資料もある)とすれば、6日の月曜日となる。入社日と出社日が違う可能性はある。また2~3日前、あるいは1週間前という資料もある。ファジン自身の回顧録では1970年4月にIntelに入ったとだけあり、日付けを明示していない。
いずれにせよ、ファジンは入社してから、スタンレー・メイザー(テッド・ホフの部下)から簡単にプロジェクトの説明を受け、設計図面を渡され、なんだか様子が良くわからないままに嶋正利と面会し、テッド・ホフからファジンが開発プロジェクト担当に代わったと言われ、開発がストップしていたことに激昂した嶋から罵倒されることになってしまう(テッド・ホフは担当の交代を告げると休暇を取ってしまった)。
この経緯を知ると、フェデリコ・ファジンがなんとも気の毒になる。本人の責任ではないのにも関わらず、会ったばかりの嶋から罵倒されたのだ。明確に言って、Intelのノイスとヴァダズは面倒事をファジンに押し付けてしまったようにすら、見えてくる。
一蓮托生となった嶋とファジン
ファジンの回想録によると、嶋正利の怒りが収まるまでには1週間近くかかったという。怒りが収まった嶋はようやく、ファジンと自分が運命共同体であることを自覚する。ファジンに開発プロジェクトの詳細と技術情報を説明し、ファジンと二人でやっていく覚悟を決める。
開発分担が決まり、開発作業が本格化する。幸いなことに両者の得意分野は補完関係にあった。CPUチップの設計は主に嶋が担当し、ROMとRAM、シフトレジスタの設計はファジンが担当した。嶋は論理設計とロジック回路設計に関する技術知識をファジンに教え、ファジンはLSI設計とレイアウト設計に関する技術知識を嶋に教えた。
嶋とファジンの共同開発チームは、恐るべき勢いで仕事をこなしていく。「ファジンと2人で月曜日から土曜日まで毎日11時間ほど仕事中毒のように働き、設計開始からわずか8カ月で4つのLSIの設計を完了させました」(嶋正利の1997年度京都賞受賞記念講演「私とマイクロプロセッサ―初めに応用ありき、応用が全てである」から)。「それから私は1日12時間から16時間、死にもの狂いで働きました」(フェデリコ・ファジンの1997年京都賞受賞講演「シリコンバレーでの我が半生―新製品開発にかけて」から)。
開発作業が本格化してからわずか4カ月後の1970年(昭和45年)8月には、すべてのチップの論理設計と回路設計が完了する。そして9カ月後の1971年(昭和46年)1月、世界初のマイクロプロセッサ「4004」のシリコンダイが動作した。わずか9カ月。ロバート・ノイスは前述の論文「A History of Microprocessor at Intel」(IEEE MICRO, Feb. 1981)で、ファジンの功績を「Faggin worked at a furious pace and in only nine months produced working samples of the four chips that would become the MCS-4」(12ページから)と賞賛している。
マイクロプロセッサ事業の将来性に気付いたIntel
良く知られていることだが、Intelは当初、4004ファミリが大きなビジネスになるとは考えていなかった。Intel幹部の脳内はほぼ完全に、半導体メモリ事業で占められていた。
しかし4004ファミリを開発したIntelの技術者は、マイクロプロセッサが電卓以外の用途にも使えるとして、外販を経営幹部に強く働きかけた。
そこで1971年の6月~8月にかけてIntelの幹部が日本のビジコンを訪れ、外販許可を得る交渉を実施した。その結果、開発費をビジコンに返却すること、ビジコンが購入するチップの価格を下げること、などを条件として外販が可能になった。
そして1971年11月15日付けの電子業界誌「Electronic News」に、4004ファミリの販売開始を知らせる広告が掲載される。これが、世界初のマイクロプロセッサが世間に知れ渡った瞬間だった。
4004開発のタッグを組んだ嶋正利とフェデリコ・ファジンの2人はその後、再びタッグを組むことになる。ファジンが独立して1974年に設立したマイクロプロセッサ開発企業「ザイログ(Zilog)」においてである。嶋正利は1975年にザイログに入社する。そして8bitマイクロプロセッサの業界標準製品となる、「Z80」の設計に携わる。「Z80」は1976年に発売されると大ヒットし、セカンドソースが大量に生まれ、現在に至るまで、実機に使われている。