山田祥平のRe:config.sys

世の中にたえてFlashのなかりせば




 米Appleのスティーブ・ジョブズCEOが、AdobeのFlash技術に関する声明を発表した。けっこうなるほどと頷ける内容だ。ジョブス氏にしてみれば、まさにFlashがなければ、「愛(i)の心はのどけからまし」といったところだろうか。でも、深読みすれば、これはAdobeへのエールでもある。

●FlashがWebをダメにした

 在原業平の詠んだ「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 」という歌には作者不詳の返歌がある。それが「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か 久しかるべき」というものだ。「桜は散るからこそ美しいのであって、この世に永遠に続くものなんてないんだよ」と解釈すればいんだろうか。

 ブラウザの中でクラッシュするFlashコンテンツを見て美しいという人はいないだろうけれど、Flashの天下は、ジョブスがこんな声明を出さなくても、永遠には続くことはないにちがいない。

 誤解を恐れずに書けば、個人的にはFlashは、インターネットのコンテンツを静的なものから動的なものにした点で大きな貢献をしたことは評価できるが、その反面、デバイスの特性を無視したWebページの乱立に拍車をかけてしまったようにも思う。

 古の時代のWebページでも、フレームやテーブルを本来の目的とは異なる使い方をして見かけのレイアウトを整えるという手法が頻繁に使われていた。そこにあったのは、ほとんどの人はInternet Explorerを使っている、とか、多くの人のディスプレイはXGA(1,024×768ドット)だ、とか、たいていはフルスクリーンでブラウザを使っている、といった決め打ちの精神だ。そして、ページに埋め込まれたFlashコンテンツも、その傾向を助長してしまっている。結果としてそうなのであって、悪いのは使う人、Flashが悪いわけではないのだが、共犯と理解してもいいと思う。

 決め打ちでページをレイアウトした結果、ニッチもサッチもいかないクローズドなページが横行し始めた。これでは、サイトを訪れるユーザーを自ら制限しているようなものだ。

 ちなみにぼくはブラウザのフォントを「メイリオ」にしている。その方がデフォルトのMS P明朝よりもフォントとして美しいし、行間に余裕ができて読みやすいからだ。

 紙の雑誌ならデザイナーの指定した書体を受け入れざるを得ないが、コンピュータを使って読むコンテンツくらいは自分の自由にしたいと考える。送り放しの放送でさえ、タイムシフトや一時停止が可能なのだ。ブラウザで見るコンテンツにそのくらいの自由があってもいいはずだ。でも、結果として、フォントを別のものに指定しただけで、レイアウトがガタガタに崩れてしまったり、スタイルシートで決め打ちされたフォントによって自分の好きなフォントでは表示できないというサイトも少なくない。

 そもそも、目立たせる文字列を画像で作るなんてことを始めたのは、いったい誰なんだろう。ロゴ程度なら許せるが、特集タイトルのようなものまでがGIFで作成され、文字列をコピーすることができない。レストランの名前と住所、電話番号をコピーしてメールで送ろうとしたらそれが画像だったためにできなかったなんて経験はないだろうか。見かけの美しさにかまけて実用性を捨ててしまった結果である。

●デバイスインディペンデント・Web

 携帯電話やiPhoneなどを含むスマートフォン、iPadのようなMID(Mobile Internet Device)は、それぞれが異なる表示デバイスを持つ。そして、PCで使われる表示環境はさらに多岐にわたる。デバイスのサイズと解像度は無関係だし、ブラウザのウィンドウサイズも人それぞれで、ケースバイケースだ。それをどこかに決め打ちしてしまったら、いつか破綻するのはわかっていたはずだ。

 こういうと、必ず検証できる環境には限りがあるという答えが返ってくる。だからサイトをXGAフルスクリーンのIEに最適化したときに正しく表示されるようにするというのだ。でも、ユーザーはそんなことは望んでいない。自分の好きなように表示されること、百歩譲って、自分が使っているデバイスに最適な表示が行なわれることを望んでいる。

 個人的には、これからのWebページのトレンドは、デバイスインディペンデントな方向に向かうべきだと思う。つまり、リフローの時代だ。

 表示デバイスの横幅、あるいは、ウィンドウサイズの横幅に応じて、ダイナミックに流し込みが制御され、どんな横幅でもリーズナブルで美しいレイアウトとなるようなオーサリングだ。ビジュアルを含むコンテンツの論理的な構造とデバイスに応じたレイアウトを結びつける方程式とそれを解く処理系。そもそも今のWebコンテンツに論理的な構造があるのかどうか……。

 今、各サイトは代表的なデバイスごとにページを用意している。だからコストも余分にかかる。たとえば、朝日新聞のサイトasahi.comでは、i.asahi.comを用意し、iPhoneやiPod touchでも読みやすいようにページがデザインされている。実は、このサイト、PCでも表示が可能で、ウィンドウの横幅に応じてリフローが行なわれ、用途によっては本家のasahi.comよりも使いやすい。こうしたことが、もっと複雑なレイアウトのページでもできるようになれば、どんなにいいだろう。

 iPhoneやiPod touch、iPadなら専用アプリを使って、もっと快適にコンテンツを楽しめるというのはなしだ。それでは、これまでの10年を繰り返すだけだからだ。コンテンツの数だけアプリを用意するのは無駄だしコストもかかる。1つのコンテンツを用意しておくだけで、さまざまなデバイスの単一のアプリケーションから快適なページが表示できる環境が欲しい。

 これは、ある意味で、インターネットコンテンツの総電子ブック化だ。デタラメに進化をし続け、はちゃめちゃになってしまったWebの世界を、いったんリセットし、高い処理性能を持ったコンピュータにこそできるコンテンツブラウジングの世界に昇華できないものだろうか。

 ジョブス氏はきっと思ったに違いない。iPadで電卓を起動したときに、単にどでかく表示される電卓では意味がないのだと。iPhoneとiPadという、極限まで同じであるにもかかわらず異なるデバイス、しかも、世の中的に影響力の高いデバイスを手にしたアップルが、Flashを否定するのは、こんな背景もあるんじゃないだろうか。

 でも、このハードルを超えたところには明るい未来が見える。変えられるとしたら今しかない。そして、その方向に全世界のクリエイターを導ける影響力を持っているのは、まさにAdobeなのだ。