■笠原一輝のユビキタス情報局■
Lenovoがテクニカルパートナーシップを結んでいるボーダフォン・マクラーレン・メルセデスチームのマクラーレンMP4-25(Lenovo提供) |
三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキットにおいてF1世界選手権 第16戦 日本GPが10月8日から10日にかけて開催された。PC WatchでなんでF1の記事? という感想をお持ちの読者も少なくないと思うが、実のところPCとF1の関わりはもはや切っても切れないモノになりつつある。現代のF1はPCを利用したさまざまなシミュレーションや車の状態のモニタリングなどを行なうことが、当たり前になっているからだ。
さらに、F1で利用されているIT技術はPCだけではない。F1チームのファクトリーでは、多数のHPC(High Performance Computing)と呼ばれる大規模演算用のスーパーコンピュータが設置されており、F1カーの設計に利用されているのだ。特に、今年(2010年)からはF1チームの総経費に制限がかけられることになっており(バジェットキャップ制と呼ばれる)、いかに低コストで車の開発を続けていくかが課題になっているため、ITの技術をうまく活用していくことがF1チームにとっても重要なファクターになっているのだ。
そうしたF1とITの関わりの好例となるのが、世界第4位のPCメーカーであるLenovoだろう。Lenovoは、ボーダフォン・マクラーレン・メルセデスチームのテクニカルパートナーとして、IT関連の製品を提供しており、実際に現場で同社のノートPCであるThinkPadがマクラーレンのエンジニアやドライバーなどに利用されているのだ。
F1に限らず、モータースポーツというのは自動車というツールを利用して、誰が最も速く設定されたコースを走ることができるか、ということを競う競技だ。ここで、優劣を決まるパラメータは競技者(ドライバー)の能力、ツールである自動車、さらにはその自動車を路面に接地させているタイヤなどがあり、それらの中で最良の組み合わせが勝利するというタイプの競技となる。
他のスポーツでも、競技に道具を利用するというものは少なくない。例えば、野球はグローブとバットを利用するし、サッカーならサッカーボールを利用するだろう。しかし、モータースポーツが他の道具を利用するスポーツと大きく異なるのは、道具の優劣が結果に影響する割合の違いだろう。例えば、野球ならバットの性能により飛ぶ飛距離は若干変わるかもしれないが、それでもイチローのバットを利用したからといって全員が何年にも渡り200本安打を実現するというのが不可能だというのは、野球に関しては素人の筆者でもわかる理屈だ。
しかし、モータースポーツはそうではない。モータースポーツでは結果に影響する道具の割合は、“ほとんどすべて”といっても過言ではない。例えば、2009年のチャンピオンであるジェンソン・バトン選手は昨年こそチャンピオンになったが、2008年は入賞もおぼつかないような悲しい成績だった。これはバトン選手の実力が上下しているのでなく、2008年の車は他チームに比べてあまりよくない出来だったが、2009年の車は非常によい出来で他車に比べてアドバンテージがあったということだ。つまり、チャンピオンになれるドライバーであっても、車の出来不出来によっては下位に沈むというのがモータースポーツの本質なのだ。
だとすれば、F1で勝つ秘訣は、何よりも他チームを上回るような優れた車を作ることだというのは、もはや繰り返すまでもないだろう。
●現代F1カーの設計に重要な空力だが、コストの問題で風洞試験に制限では、一言で良い車を作るといっても、実に多くのパラメータがある。ただし、現代のF1ではタイヤはワンメイクになっているほか、もう1つの重要な要素であるエンジンは開発が凍結されており、どのメーカーもエンジンはほぼ同じ性能になっている(若干の違いはあるが)。また、ギアボックスやトランスミッション、ブレーキ、サスペンションなどもチーム間での差は小さいと言ってよい。
では何が違うのかと言えば、それが空力の違いだ。この空力の研究は、以前は天才と呼ばれるデザイナーが勘で図面を引き、それを元に起こしたモデル(1/2や1/4などのスケールモデルや1/1の実サイズモデル)を、風を当ててどのような効果が発生しているかを確認できる風洞と呼ばれる施設に持ち込んで確認する仕組みになっていた。風洞はスケールモデルよりも、実サイズに近いモノになればなるほど正確な結果がでるため、各チームは競ってより大きな風洞を作る競争になっていた。しかし、風洞は施設の建設そのものに多大なコストがかかるし、維持費にも多大なコストがかかるのだ。
2008年に発生したリーマンショック後、世界経済は依然として不透明な状況にある中、スポンサーシップに依存するF1の経済も厳しくなっており、ホンダ、トヨタ、BMWなどのF1撤退という事態もおこり、F1では行き過ぎた開発を抑制するため、バジェットキャップが導入された。これにより多額のコストがかかる風洞を多数作りテストするということは現実的では無くなってしまったのだ。
●CFDやレース作戦のシミュレーションにIT技術が活用されているそこで大きな注目を集めているのが、コンピュータによるシミュレーション技術だ。こうした空気の流れをシミュレーションすることはCFD(Computational Fluid Dynamics)と呼ばれており、その演算には多大な演算能力が必要になる。このため、この分野ではUNIXベースのスーパーコンピュータなどが利用されていたのだが、スーパーコンピュータもコストが非常に高いので、最近ではx86プロセッサを利用した、いわゆるHPCと呼ばれるPCアーキテクチャベースの高性能なコンピュータで並列演算する方式が採用されつつあるのだ。
F1で利用されるシミュレーション技術はCFDだけではない。もう1つはサーキットの現場でのシミュレーション技術だ。各チームではレース前に、どのタイミングでタイヤ交換をするのかコンピュータ上でシミュレーションを行なう。これによりだいたい何周でピットインすれば最も効率が良いかなどをデータとして持っておき、実際のレース展開でそれらのデータを参考にしながら、ピットインのタイミングを探っていくのだ。
さらにレース現場では、F1カーからリアルタイムに送られてくる情報(テレメタリーと呼ばれる)が随時エンジニアが利用するPCへと送られてくる。例えば、ドライバーが操作しているアクセルの開度、ブレーキの踏みしろ、ハンドルの切れ角などの情報のほか、エンジンの油圧、油温、水温やタイヤの温度や空気圧などの情報がすべて数値化されてコンピュータに記録されていく。エンジニアはそれらを見ながら、ドライバーに指示を出したり、セッションの合間に車をセッティングする際の参考にするのだ。
このように、今やF1の現場ではITの技術は必要不可欠のモノになっているのだ。実際、PCメーカーも、AMDとAcerはフェラーリに、HPはルノーに、そして2009年までIntelとDellはBMWザウバー、パナソニックはトヨタにというように、PCやサーバーなどをF1チームに現物供給したりすることでF1に関わっているのだ。
●すでに5年目に突入しているLenovoとF1との関わりそして、前出の企業に加えて、IT企業の中で積極的にF1にかかわっている会社がLenovoだ。F1を知らない本誌の読者でも、Lenovoは知らないという人はいないと思うが念のため説明しておくと、Lenovoは世界第4位のシェアを持つ大手PCベンダーで、ビジネス向けノートPCのThinkPad、ビジネス向けデスクトップPCのThinkCentre、コンシューマ向けノートPCのIdeaPad、コンシューマ向けデスクトップPCのIdeaCentreのブランドでPCビジネスを展開している。
Lenovoは元々は中国のローカルブランドだったLegend(レジェンド)がその母体になっており、2005年5月にIBMからThinkPadのビジネスを買収したときに、グローバルブランドとして“Lenovo”へ改称し現在に至っている。資本が中国であるため中国のPCメーカーというとらえられ方をすることが多いが、実は本社はIBM PC部隊の本拠地だった米国ノースカロライナ州ラーレにあり、どちらかと言えば米国のビジネス的な考え方で運営されているDellやHPのような形のPCベンダーだと考えた方が実態に近いと思う。
LenovoとF1の関わりは、実は結構長い。最初は2006年から3年間に渡り、ウィリアムズF1チームにスポンサードしたことから始まっている。この時にはテクニカルパートナーとしてPCやサーバーなどをチームに供給すると同時に、ボディにもLenovoのロゴが表示されるというスポンサーとしてかかわっていた。そして2009年からは、ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス(以下マクラーレン)とテクニカルパートナー契約を結び、マクラーレンにITに関する製品(PCやサーバーなど)を提供するという活動を行なっている。
それと同時に一昨年ぐらいからは、いくつかのサーキットにおいて、ThinkPadの看板をサーキットに出すという広告活動も行なわれている。チームへのスポンサードだと、そのチームのマシンがTVに映った時しかアピールできないのに対して、サーキットのコース脇に設置されている看板であればマシンがそのコーナーを通るたびにロゴが映り込むことになり広告効果が高いのだ(ただし広告費は決して安くないと言われている)。なお、この看板はすべてのサーキットに出されたのではなく、中国GP、シンガポールGP、マレーシアGPなどアジア圏を狙って出されているように見える。これはThinkPadをこれから売り込んでいきたいのがアジア圏であることが影響しているのではないだろうか。
日本GPもその例外ではなく、鈴鹿サーキットには“ThinkPad”の看板が多数掲示されていた。印象的だったのは、アジアの他の地域ではローエンド向けのThinkPad Edgeの看板だったのに対して、鈴鹿での看板はThinkPad T Seriesとなっており、成熟市場の日本ではハイエンド製品であるTシリーズがフィーチャーされていたことだ。
ウィリアムズF1チームをサポートしていた時代の車、Lenovoのロゴがリアウイングに掲示されていた | |
今回の日本GPのメインストレート上の看板、ThinkPad T SeriesとIntelのロゴが入った看板がサーキットのあちこちに掲示されていた | どこのサーキットかは不明だが(おそらくトルコGPか?)サーキットに掲示されたThinkPad EdgeとIntelのロゴ(Lenovo提供) |
●ピットガレージにおいて市販されているThinkPadをエンジニアとドライバーが使用
Lenovoがテクニカルパートナーを務めるマクラーレンチームは、過去に12回のドライバーチャンピオンと8回のコンストラクターズチャンピオンを獲得している名門チームだ。日本のF1ファンにとっては、かつて日本のホンダのパートナーとして、1988年、89年、90年、91年と4度のドライバー/コンストラクターズチャンピオンになったチームとして、そしてドライバーとして日本で人気があったアイルトン・セナ選手が走っていたチームとしても記憶されているだろう。現在のマクラーレンは、1995年からドイツのメルセデスをエンジンパートナーとして、メインスポンサーにイギリスの通信キャリアであるボーダフォンを迎えて活動している。ドライバーは2009年のチャンピオンのジェンソン・バトン選手、そしてもう1人が2008年のチャンピオンであるルイス・ハミルトン選手だ。
Lenovoはマクラーレンチームに対して、スポンサー(F1マシンに自社のロゴを貼り付けて宣伝してもらう形での関わり)ではなく、テクニカルパートナーとしてかかわっている。これは、オイル屋さんがエンジンオイルを、ブレーキメーカーがブレーキパッドとディスクを供給するのと同じで、IT製品ももはやF1には欠かせないことを意味している。Lenovoではマクラーレンに対して同社の、ノートPC、ワークステーション、PCサーバーなどを提供している。
その使われ方だが、図1を見て欲しい。これはマクラーレンへの取材を元に筆者が作成した図で、大きく4つの場所でLenovoのPCやワークステーションが利用されていることを模式的にしたものだ。
【図1】マクラーレンF1におけるPC/ワークステーションが利用されている場所(マクラーレンへの取材より筆者作成) 1.ピットガレージ(サーキット) 2.サーキット内チームオフィス(サーキット) 3.ピットウォール(サーキット) 4.マクラーレンテクノロジーセンター(イギリス) |
GPウィークエンドにおけるチームの最前線となるのがピットガレージだ。ピットガレージとは、サーキットで車を調整したりするための場所のことで、メカニック達はここで車の組み立てや調整などを行なう。F1の場合、車を実際にいじるのはメカニックだが、そのメカニックに対して調整の指示を出すのはエンジニアで完全に役割分担されている。
マクラーレンの場合、ピットのセンターハブと呼ばれるマシンとマシンの間にある作業場所がエンジニアのために確保され、そこにThinkPadが設置されており、エンジニアはThinkPad(T410、X201 Tablet)を利用してさまざまな作業を行なっている。例えば、マクラーレンのF1カーであるマクラーレンMP4-25には250を超えるセンサーが設置されており、そのデータはリアルタイムで車からPCへ送られているのだ。
話は脱線するが、車のセンサーからのデータは、サーキット内に張り巡らされたFOM(Formula One Management、F1の権利関係や国際映像作成などF1の商業権を管理している会社)の専用無線を通じてチームのコンピュータへとリアルタイムで送られているのだという。
このFOM無線を通じて送られてくる車の各種データは実にさまざまだ。タイヤの空気圧や温度、エンジンの油温や油圧など実に多様なデータを、公式セッション中やその合間などにエンジニアが確認する。その数値はドライバーも確認可能で、マクラーレンチームではドライバーはThinkPad X201 Tabletを利用して確認することができるのだという。なお、このThinkPad X201 Tablet、市販品では見たことがないドッキングステーションにささっているが、マクラーレンによるとこれだけはカスタム品ということだった。これだけはと書いたが、「我々のガレージで利用しているThinkPadは市販品と何も違いは無い」(マクラーレン ITサポートアナリスト トム・グラハム氏)とマクラーレンチームで利用されているThinkPadは市販品と同じものが利用されているという。
ThinkPadをのぞき込んでいるのがジェンソン・バトン選手(右)。昨年(2009年)のワールドチャンピオン(提供:Lenovo) | 同じくThinkPadをのぞき込んでいるルイス・ハミルトン選手(左)。一昨年(2008年)のワールドチャンピオン(同) |
綺麗に整頓されたマクラーレンのガレージの様子。中央に見えるガラス張りのブースは、スポンサーのゲストがセッション中にガレージの様子を見学するための場所 | このようにセッション中にゲストがガレージの様子を見学できる |
●Lenovoのシステムは現場だけでなく、来季の新車開発などにも利用
Lenovo製品はそれ以外の場所でも利用されている。F1チームはピットガレージだけでなく、ピット裏の各チームのオフィスにもエンジニアがいる場所(図1で言うところの2)が用意されており、エンジン関連のエンジニアなどがデータをチェックしている。そこでも、ワークステーションであるThinkStation D10、モバイルワークステーションであるThinkPad W510などが利用されているという。さらにピットウォールには、チームの首脳陣(チーム代表であるマーティン・ウィットマーシュ氏など)が座るエリア(図1で言うところの3)が用意されており、そこにはモニターとしてレノボの24型液晶ディスプレイが利用されているということだった。
そして、イギリスのマクラーレンのファクトリーとなる“マクラーレンテクノロジーセンター”には、F1カーを開発するチームや、GPウィークエンドに作戦のシミュレーションを行なうチームらがおり、そこでもLenovo製品が利用されている。
すでに述べたように、GPの週末には、各チームはさまざまなパラメータを元にレースのシミュレーションを行なう。マクラーレンチームでは、このシミュレーションなどは現場では行なわず、ファクトリーにデータとパラメータを送ってファクトリーにあるThinkStationを利用してシミュレーションを行なうのだという(なおグラハム氏によればサーキットからファクトリーへ送られるデータは1GBを超える量だという、単純な数値であることを考えればどれだけデータ量が膨大であるかわかるだろう)。この方が現地でやるよりも速くできるという説明だったので、おそらくThinkStationだけを利用してというよりは、マクラーレンのデータセンターにあるHPCサーバーなども演算に利用しているのだと考えることができる。
チームのファクトリーでは、今頃は2011年用の車の設計が佳境を迎えているところだと思われる。従来、マクラーレンチームではこの部分はSun MicrosystemsのUNIXサーバーを利用して演算を行なっていた。というのも、Lenovoと契約する前、マクラーレンのIT関連のテクニカルパートナーがSunだったからだ。現在でもそのシステムは利用されているということだったが、現在はXeonベースのLenovoのサーバーなどに順次置き換えられているという。
「Lenovoのシステムに置き換えることで、処理能力が上がっているのに消費電力は下がった」とマクラーレンのグラハム氏は話し、このパートナーシップに大いに満足していることを強調した。
マクラーレンのピットウォール。チームの首脳陣が座る場所になる。利用されているモニターはLenovoの24型ディスプレイ | このように1台の車を走らせるのに多くのメカニックがそれにかかわっている | マクラーレンにおけるITシステムについての説明をしてくれたマクラーレン ITサポートアナリスト トム・グラハム氏 |
●テクニカルパートナーシップをマーケティング手段として活用するLenovo
このように、LenovoのF1における活動は、マクラーレンとのテクニカルパートナーシップに始まり、F1サーキットにおける広告など多岐にわたっているが、それだけでなくそうした活動を周知するマーケティング活動も行なっている。一般のコンシューマ向けとしては、Lenovoの日本法人であるレノボ・ジャパンのオフィスがある六本木ヒルズの大型ビジョンでビデオを流したり、Webサイトで関連の情報を提供したりしている。
さらには、グランプリの週末には同社のパートナーとなる代理店や販売店などの関係者を、パドッククラブと呼ばれる特別席に招待してLenovoとF1の関わりを説明するなどの活動も行なわれている。ヨーロッパではF1は“貴族のスポーツ”という位置づけであるため、パドッククラブ(ちょうど各チームのピットガレージの真上にあり、各チームの様子などを近くから見ることができる)に招待することが1つのステータスになっており、スポンサーやパートナー各社が自社の顧客を招待してビジネスをする場として利用されているのだ(まさに“社交界”の考え方だと言ってよい)。特にLenovoにとっては、F1が盛んなヨーロッパが重要な市場であることは言うまでもないが、現在グランプリの数が増えつつあるアジア太平洋地区はこれから重要になる市場であり、そうしたAPAC地域のグランプリで盛んにそうした活動をしていると聞いている。F1を単なる宣伝の場としてだけでなく、ビジネスのツールとして利用するというのは理にかなっている。
こうした意味で、F1をマーケティングの場としてきちんと活用できていること、ビジネスの話をする場としても活用できていること、そしてテクニカルパートナーとして品質でマクラーレンを納得させていることは、ブランド認知度を上げるという効果は決して小さくなく、LenovoのF1での活動はIT系の企業にとって成功例の1つだと言っていいのではないだろうか。
(2010年 10月 14日)