バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第4章 ホームページの時代へ(3)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

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世界一有名な猫「ソックス」 1995年

NHKで放映されている「岩合光昭の世界ネコ歩き」、ネコが紹介されているだけの番組ですがやはり見てしまいます。ネコ目線で撮影されていて、どうやって撮っているのだろうと疑問に思う映像もあります。ショートバージョンには猫識という猫に関するウンチクコーナーもあります。
ホワイトハウスには世界一有名になった猫がいました。

インターネット接続したら、まずホワイトハウスへ

 パソコンを買い、インターネット接続するようになると、まず見るのがホームページ。大企業を中心にホームページが開設されはじめた時代で、それほど数は多くありません。ホームページを見るには雑誌などで紹介されたホームページのURLを間違えないように入力するか、1996年に日本でサービスを開始したヤフーを使っていました。

 ヤフーはカテゴリー分類になっていて大分類から中分類へと、どんどんページをたどり、最終的に求めるホームページを見ることができます。グーグル日本語版がスタートするのは2000年で、本格的なキーワード検索はまだまだ先の話です。

 当時、雑誌で紹介されていたホームページの定番がホワイトハウス。ホワイトハウスやビル・クリントンの写真が掲載されていましたが、皆の目当ては大統領ではなく、猫の「ソックス」。ホワイトハウスでペットとして飼われていた猫で、毎日、たくさんの手紙やプレゼントが届きました。

世界一有名な猫「ソックス」

 クリントン大統領がまだアーカンソー州知事だった時代、娘さんがピアノ教室から帰る途中に、娘さんのところへ飛び込んできたのがソックス。そのままクリントン家のペットになりました。クリントン大統領が誕生し、家族と共にソックスもホワイトハウスへ引っ越します。ファーストペットとして新聞などで紹介され、一躍有名になりました。そこでホワイトハウスのホームページではアニメ化されたソックスがホワイトハウスの案内役になっていました。

 ソックスの鳴き声もホームページにアップされていて、世界中のインターネット・ユーザーが楽しんでいましたが、通信速度が遅かったので、鳴き声を聞くのに十分以上もかかった時代です。鳴き声を聞くためにパソコンをはじめて買ったという人もいました。

 ところがソックスに受難の時期が訪れます。クリントン家の新しいペットとしてラブラドールレトリバーの「バディ」がホワイトハウスにやってくると、ソックスはファーストペットの座を追われてしまいます。それが理由というわけではありませんが、この犬と猫は犬猿の仲でした。

 やがて大統領の任期が終わり、ホワイトハウスを出ていくことになりますが、犬のバディはクリントン家と共にニューヨークの自宅へ。ところがバディと仲が悪いソックスの行先が決まらず、これが新聞報道されるほどでした。結局、ソックスはクリントン大統領の元秘書に引き取られます。2009年、ソックスは長寿を全うしますが、「クリントン国務長官一家の愛猫ソックスが死亡」という新聞記事が全世界に流されました。

インターネットの別国家 1995年

日本の中にもう一つの国家がありました。1995年4月1日に建国された国家で、名称は「関西電子共和国」です。もともとは東京への一極集中ではダメなのではないかという議論からスタートした国です。東日本と西日本に政府を作り、それぞれの風土にあった政治をおこない、「どうも、私は東の政府の方が向いている。」と思えば東の政府に税金を払い、「西の方が向いている。」と思えば西の政府に税金を払う仕組みでした。

二大政府制構想の関西電子共和国

 たとえば汚職などが起きれば、誰も税金を払わなくなって政府がすたれ、別の政府の勢力が大きくなります。つまり政府が緊張感をもって政治運営ができるよう二大政党制ではなく二大政府制で実現する仕組みです。ただ現実世界では難しいので、インターネットを使って実験を行おうという話になりました。他にも色々なシミュレーションをおこなう場を作りたいということもあり、市民が自主的に参加する電子社会のシミュレーションの場として関西電子共和国が建国されました。

都の名前は「平成京」

 建国に際してはIT業界で有名だった臼井義美さんが色々なところに声かけをして賛同者を集め、設立一年後には国民が千名を超えるぐらいまでの規模になっていきました。商用プロバイダが誕生し、個人が電話回線でインターネット接続できるようになったのが1994年でしたので、当時はまだまだインターネット接続している人は少なく、その中でかなりの数を共和国国民として集めています。

 国にはやはり都が必要と、関西電子共和国には「平成京」という都が作られ、条里制が採用されました。といってもバーチャル世界での話です。上京区には色々な研究所が置かれ、たとえば電子社会法研究所では電子社会の到来にあたり市民の観点からどういう法律が必要かなど皆でメーリングリストを使って議論していました。新しい法案は共和国の国民に公開され、電子投票で採決されます。

 また電子自警団詰所が設置され、他人を誹謗・中傷する内容の電子メールの送信やホームページの作成などがおこなわれないようパトロールをしていました。現在のサイバーポリスの活動を先取りしていたことになります。

 中京区は官庁街で、行政府、立法府、司法府が設置され、国民はいずれかに自由に所属し、三権分立をおこなうことになっていました。左京地区には住宅地が整備され、私はコスモタウンという分譲地に住んでいました。実際はホームページのリンク集ですが、当時、個人でホームページを持っている人はかなり限られていました。

 国民になるには共和国憲法に賛同し、関西に興味があれば誰もが国民になれます。実際に海外からアクセスする人も多く、大使館が中京区に建てられました。当時、友人との間で「今晩、飲みにいかない?」「ごめん、今日は共和国の会議があるんだ。」というスターウォーズ“ジェダイの騎士”のようなカッコイイ会話がおこなわれていました。

「冠位十二階の制」まであった

 ビジネスマン、エンジニア、弁護士、公認会計士、議員、学生、主婦、芸術家、経営者など多士済済な人が集まり、ボランティアで運営する国家でした。真面目なだけでは面白くないし長続きしませんから、色々と遊び心を入れた運用をおこなっていました。

 たとえば「冠位十二階の制」があり、画期的な事業やおもしろい企画を提案するなど、他の国民のために奉仕した者は、その貢献の程度に応じ冠位が与えられます。冠位が上がると投票権が一票増える仕組みです。

 奈良にある“けいはんなプラザ”で1996年4月におこなわれた関西電子共和国 建国一周年記念では多くの国民が見守るなか、天理大学雅楽部の生演奏がおこなわれ、奈良朝の衣冠束帯に身をつつんだ共和国の功労者に対して薬師寺執事の村上太胤氏から冠位が授けられました。この時は同じく国民であった桑名正博さんのライブもありました。ハードディスクが壊れた話など、パソコンやネットワークのトークが中心の異色のライブでした。

初代大統領に中島らも氏を選出

 関西電子共和国では日本初の電子選挙をおこなっています。住民登録をおこなった国民に対し、選挙管理委員会からIDとパスワードが交付され、指定されたサーバにアクセスし一票を投じます。不正投票(二重登録や国民以外の登録)を防止した本格的なシステムです。

 最初の電子選挙は共和国の大統領選挙でした。七夕に選挙がおこなわれましたが、投票締切から結果発表まで数分という電子選挙の威力をまざまざと体験できた選挙でした。初代大統領に選出されたのが中島らも氏で、決まってから大統領就任を依頼しに行き、シャレで引き受けてもらったそうです。

 中島らも氏と一緒にリリパットアーミーを立ち上げた“わかぎゑふ”さんに後年、この頃のいきさつをお聞きしたら、“なにがなんだかわからないけど、まあいいか”と面白がって大統領を引き受けていたとおっしゃってましたので、大統領就任をシャレで引き受けたのは本当だったようです。

かって日本に存在したバーチャル国家のトップページ。大統領は中島らも氏で共和国国民にはミュージシャン・桑名正博氏らなど多彩なメンバーがそろっていた。

関西電子共和国 今はどうなっているの?

 関西電子共和国は株式会社「けいはんな」の仮想社会研究会実験プロジェクトとして色々な実験をおこなっていました。ネットワークが普及したら社会にはどういうことが起こるだろうか、どのような制度をつくればよいのかを考える研究会です。実験の一つに電子決済などの商取引をおこなう実験がありました。ネットショップや楽天市場が登場する以前の話です。平成京で流通する通貨も作られ、関西らしく「デッセ」、「マッカ」という単位が作られます。

 ところが話を聞きつけた新聞記者が取材をし、大きく紙面に掲載されてしまいました。関西電子共和国は公的機関にサーバを置いていたこともあり、商取引はまずいということになり、サーバの移転問題が発生します。今ではインターネット・モール運営をしている公的機関も多いのですが、当時はそんな時代でした。結局、この移転問題が共和国衰退の原因の一つになっています。共和国国民は旧約聖書のような流浪の民になってしまいました。

 『プリンセス・トヨトミ』という小説をご存じですか。作者は『鴨川ホルモー』、『鹿男あをによし』などの作品で有名な万城目学です。大阪国という秘密国家があるという奇想天外な物語です。この中で大阪国の総理大臣が「壊すのは簡単。ただし、一度壊れてしまったら二度と戻すことはできない」。

 大阪国と違い、関西電子共和国は消滅してしまいました。

 関西電子共和国は市民が自主的に参加した壮大な実験でした。時間や距離を超越してコミュニティを作り上げる日本でも始めての例でした。

ジャバはジャワ島コーヒーから名づけられた 1995年

コンピュータを動かすにはプログラムが必要ですが、プログラムを作るにはプログラム言語が必要です。星の数ほどのプログラム言語があり、そのなかで生き残り使われ続けるのは芸能界のように大変です。

ジャバの登場

 ジャバ(Java)が世界に向けて正式に発表されたのが1995年、サン・マイクロシステムズの見本市「サン・ワールド」の席でした。ゲストスピーカーにネットスケープコミュニケーションズ副社長のマーク・アンドリーセンが登場します。

 マーク・アンドリーセンはイリノイ大学でWWWブラウザのモザイクを開発した人物です。モザイクの登場によりインターネットが急速に広まり、やがてネットスケープやインターネット・エクスプローラなどのWWWブラウザが誕生します。

 アンドリーセンはジャバもモザイクと同じような多大な影響をインターネットに与えることになるだろうと発表しました。アンドリーセンの予想通りジャバはなくてはならないものになっています。

ジャバはお蔵入り寸前の技術だった

 ジャバはサンではお蔵入り寸前の技術でした。ジャバはデジタル家電向けの軽いプログラム言語を開発したいというニーズからスタートし、最初は「オーク」と呼ばれていました。

 ところが商談を進めていたデジタル家電の話が流れてしまいました。せっかく開発した技術をこれからどうしようか、残念ながらお蔵入りかなと話をしていた時に、開発プロジェクトに加わっていた女性が、それならインターネットのブラウザで使えないかと提案をしたことから新たな展望へ進みます。インターネットで勝負するなら「オーク」という名前より、もっと印象的な名前を考えようとブレーンストーミングが始まりました。

 プログラマは深夜まで仕事をすることが多く、必然的にコーヒー好きになります。プログラマに好まれるようなプログラム言語にしようという願いからジャバ(Java)と名づけました。ジャワ島のJavaコーヒーという意味です。そしてジャバのトレードマークはコーヒーカップになりました。

エンジニアはコーヒー好き、紅茶好き“!?”

 1980年代、人工知能の研究(第五世代コンピュータ)を通産省が中心となっておこなっていた頃、脚光を浴びていた言語がリスプ(LISP)です。リスプの判断文では「はい」をt(ティー)といいます。研究者が喫茶店へ行くとウェイトレスさんの「コーヒーですか?」という質問につい「t(ティー、つまりYes)」と答えるので、運ばれてくるのは紅茶ばかり。おかげで紅茶好きになってしまったという笑い話があります。

プログラム言語で地域おこし

 プログラム言語を作るにはコンピュータの仕組みを理解しなければなりません。教育効果が高いので、大学の情報処理学科ではプログラム言語を作る講座があり、学生はオリジナルのプログラム言語を作っています。

 なかには草を植えるためのプログラム言語という実用性もなにもないプログラム言語もあれば、「まつもとゆきひろ」氏が作ったルビー(Ruby)のように世界中のエンジニアが賞賛し、ツイッターやクックパッドのシステム作りに採用されるすごいプログラム言語もあります。

 「まつもとゆきひろ」氏は島根県松江市在住。島根の印象を聞かれると「砂丘のある所ですか?」や「ゲゲゲの鬼太郎で有名な」など、よく鳥取県と間違えられるため、“ルビーなら島根”をキャッチフレーズに県と市をあげてプログラム言語を地域おこしに活用しています。

 高校生向けにルビーを学ぶルビー合宿をおこない、ルビーの国際的カンファレンスを毎年開催して、世界中から技術者を松江市に集客しています。

ヤフーはスモウの「曙」から誕生した 1995年

ヤフー創業者であるデビッド・ファイロとジェリー・ヤンは1999年に母校のスタンフォード大学に次代の起業家を育てるための基金とするため二百万ドルを寄付しています。スタンフォード大学はシリコンバレーに多くの人材を輩出している大学で、こういう寄付はけっこうありますが、母校へ「恩返し」したデビッド・ファイロとジェリー・ヤンは、それぞれ三十歳と二十八歳で過去最年少でした。

 スタンフォード大学はパロアルト市に隣接するスタンフォードにあり、シリコンバレーの中心です。スタンフォード大学はIT企業創業者を輩出する大学として有名で、ヒューレット・パッカード、サン・マイクロシステムズなどが生まれています。ヤフーもスタンフォード大学から生まれました。

 ヤフーの始まりは、スタンフォード大学電気工学科の博士課程で学んでいたデビッド・ファイロとジェリー・ヤンが、インターネットのサイトを整理しようと、自分たちでよく使うURL(ホームページのアドレス)の住所録を作ったのがきっかけです。ヤフーの原型となるホームページの検索サービスで、二人は大学にあったトレーラーハウスにこもりパソコンにむかっていました。

 1994年頃から「ジェリーのWWWガイド」というサイトを作り始めます。担当教授が長期研修で不在なのをいいことに、論文書きをやめて作業をしました。ホームページのアドレスを単純に並べるのではなく図書館のように階層分類ごとに整理し、リンクで飛ぶことができました。これが使いやすいと口コミで評判になり、人気サイトになっていきます。これが後のヤフーとなります。

「曙」からヤフーが誕生した

 日本に留学し、日本贔屓だったデビッド・ファイロとジェリー・ヤンは相撲のファンでもありました。特に曙が好きで、研究用ワークステーションに「曙(akebono)」、「小錦(konishiki)」という名前をつけます。ヤフーのプログラムはこの二台のワークステーションに入っていました。

 初期のヤフーのトップページには曙が土俵入りしている写真が掲載されていました。二人が作ったサイトは評判がよく、アクセス数が増え、やがて大学のサーバがパンク状態になります。放置しておけなくなった大学側が二人に「出ていってくれ」と宣告する事態にまで発展します。

ヤフーを事業化

 これだけ評判がよいのであれば、いっそ事業化しようと考え、色々なベンチャー・キャピタルを訪問してプレゼンしましたが、今までになかったビジネスモデルでもあり理解を得るのが大変でした。そのなかで興味を示してくれたセコイア・キャピタルを選び、創業資金を得ることになります。1995年3月にヤフー・コーポレーションとして正式に事業化します。当時、デビッド・ファイロは二十九歳、ジェリー・ヤンは二十七歳でした。

 この年の終わりに、当時、社員数十五名で設立したばかりのヤフーに二億円出資した人物がソフトバンクの孫社長です。ハイテク関連雑誌の出版社であるジフ・デービスの社長に「これからインターネット関連で成長する会社はどこか?」と聞いたところ、名前が上がったのがヤフーで、さっそく創業者のジェリー・ヤンに会いに行き、これは本物と、その場で二億円を投資することを決めます。ヤフーを設立してわずか一年後の1996年春に株式を公開し、デビッド・ファイロとジェリー・ヤンは億万長者になります。

 日本でのヤフー開始は1996年4月1日です。1997年11月にジャスダック市場へ、やがて東証市場へ上場します。日本の株式市場で初めて一億円を突破した株として騒がれました。

ヤッホーという検索サイトがあった 1995年

漫才コンビ「ナイツ」のテンポよい言い間違いネタ。漫才の冒頭に出てくるのが「ヤホーで調べました」というフレーズ。ヤフーの言い間違いなのですが、日本のインターネット黎明期にはナイツの言葉通り、本当にヤッホーという検索サイトがありました。

ヤフーの名前の由来

 ヤフーが創業したのは1995年3月。原型は1994年にスタンフォード大学でジェリー・ヤンが作り始めた「ジェリーのWWWガイド」です。人気サイトとなり、もっとインパクトがある名前をつけようと、「YA」で始まる言葉で色々と辞書を調べました。そしてガリバー旅行記に登場する野獣「ヤフー」という言葉を見つけます。

 YAにこだわったのは、当時、コンピュータ業界で「Yet Another」(もう一つの)という言葉が新しいソフトの頭文字によく使われていたからです。他に「Yet Another Hierarchical Officious Oracle(もう一つの気の利いた階層構造のデータベース)」の略だという説もあります。

日本の検索サイトの歴史

 日本の検索サイトは日本電信電話株式会社の「日本の新着情報」から始まりました。1993年12月にスタートしましたが当時はホームページそのものが少なく、新しく登録されただけで皆が見に行くような時代でした。だんだんホームページが増えるにつれ、図書館のように分類する必要ができ、誕生したのがディレクトリ型検索サイトです。ヤフーはディレクトリ型検索サイトとしてスタートしました。

 ヤフーが日本でサービスを開始したのが1996年4月1日です。今では漫才ネタになるぐらいメジャーな名前ですが、当時はヤフーという言葉は初耳でしたので、読み方がわからず、よく「ヤホー」、「ヤッホー」と呼んでいました。

 検索サイト、ヤッホー(Yahho)がスタートしたのは1995年6月で、日本のヤフーより一年ほど先輩です。豊橋技術科学大学の大学院生だった近多泰宏氏が開発した検索サイトでディレクトリ型検索サイトのはしりです。

 名前の由来は「YAsuhiro chikata Hyper HOtlist」で、Yahho (A Guide to Japanese WWW page)というタイトルで、下記のようなディレクトリ(分類)から構成されていました。

バイナリーデータ企業
コンピュータ学校・教育関係
工学エンターテイメント
イベント行政機関
インターネットニュース
雑誌・読みもの各種団体
レクリエーション科学
社会文化WWW

 ヤッホーは近多氏の大学卒業に伴いサーバの提供者を探していたところ、提供者が見つかり1997年9月に「うぇいぶなび」へ名称変更されましたが現在はサービスを停止しています。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/