バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第4章 ホームページの時代へ(2)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

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ヤフー創業者 京都で恋に落ちる 1992年

スタンフォード大学名誉教授で経済学者の青木昌彦先生が、2015年7月にカリフォルニア州にあるパロアルトの病院で亡くなりました。近代経済学の研究をすすめ、やがて比較制度分析で経済学の新分野を切り開きます。ノーベル経済学賞に一番ちかい人物といわれていました。青木先生の長女の家庭教師が、後のヤフー創業者ジェリー・ヤンと結婚することになります。二人の出会いは京都でした。

ヤフーを創業するジェリー・ヤンとデビッド・ファイロ、京都へ留学

 青木先生がスタンフォードで教えていた時、コスタリカ生まれの日系人ヤマザキアキコ(山崎晶子)さんが長女の家庭教師になります。アキコさんの両親は日本人でしたが、自身は今まで日本には行ったことがありませんでした。日本に行きたいということで、1990年に設立されたばかりのスタンフォード日本センターで、助手として働くことになります。

 スタンフォード日本センターは京都市動物園の近くにありました。(現在は同志社大学・今出川キャンパスに移転)センターでは日米間の相互理解をすすめるため、若者の育成を目的として日本留学プログラムを提供しています。このプログラムの二期生として来日したのが、後にヤフーを創業するデビッド・ファイロとジェリー・ヤン。スタンフォード大学のマスターコースを終え、1992年に来日し、スタンフォード日本センターに一年間滞在しました。二人が来日した1992年といえば、東海道新幹線の「のぞみ」が運転開始した年で、長崎のハウステンボスが開業しています。

出会いは、スタンフォード日本センター

 ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロは一年間、京都で暮らすことになりますが、二人ともカツ丼が好きだったようで、食べるために交通費を節約していました。スタンフォード日本センターがあった岡崎周辺には朝粥で有名な瓢亭のようなお店はありますが、学生が行くような食べ物屋は少なく、西に歩いて河原町通りや北に歩いた京大周辺の学生街の食べ物屋へおそらく出向いていたのでしょう。京大の目の前には安くてガッツリ系のハイライト食堂などが現在もあります。

 スタンフォード日本センターへの留学時代、ジェリー・ヤンは恋におちることになります。センターに勤めていたヤマザキアキコさんにアタック。恋は実ることになり、アメリカへ戻ってから五年間の交際を経て1997年5月に結婚式をあげます。

ヤフーを創業

 ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロにとって、アメリカに戻ってからは怒涛の五年間となりました。趣味で始めた「ディレクトリ(検索)サービス」を1995年3月に事業化。事業化してできた会社の名前がヤフーです。投資家との交渉や株式上場など大忙しの五年間となりました。

 ヤマザキアキコさんは環境保護活動に熱心で、後に、ジェリー・ヤンと二人で「Y2E2」と呼ばれる大きな建物を母校のスタンフォード大学に寄付しています。人の交流と環境に優しい水や資源の循環を意識した建物になっています。二人を結びつけてくれたのがスタンフォード大学でしたので、その恩返しなのでしょう。

怪獣ゴジラから命名したWWWブラウザがあった 1993年

モザイクの後継となるファイアフォックスというブラウザのマスコットが「フォクすけ」。しっぽが炎になっています。見た目はキツネですが、実はレッサーパンダ。毎月、「フォクすけ」つきカレンダーの壁紙をダウンロードすることができ、人気を集めていました。

WWWブラウザ モザイクの登場

 ティム・バーナーズ・リーの世界初のWWWに感動したNCSA (イリノイ大学国立スーパーコンピュータ応用センター)の学生たちが、1993年にブラウザ・モザイク (Mosaic)を開発し、無償で配布します。

 NCSAはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校内にあるスーパーコンピュータ応用センターです。米国科学財団のスーパーコンピュータを扱う施設が五つありますが、その一つになります。イリノイ大学のキャンパスはアーバナ市とシャンペーン市にまたがる大きな大学で、飛行場まであり航空学部が実習をおこなっています。飛行場の隣には大学のゴルフ場もあります。

 ティム・バーナーズ・リーのWWWブラウザは論文参照が目的でテキストだけ扱えましたが、モザイクは画像も表示できるようになりました。つまりマルチメディア対応で使いやすく全世界に広がります。この頃からマスコミに「インターネット」という言葉が登場するようになります。

 モザイクは大きな成功をおさめますが、大学側とライセンスの問題から反目しあうようになります。

モジラの登場

 『新・電子立国 コンピュータ地球網』によれば、この頃、モザイクを見てビジネスとしての可能性が高いと判断したのがシリコングラフィックス社の創業者ジム・クラークでした。シリコングラフィック社はCG技術で有名な会社で、同社のCG技術を利用して、映画「スターウォーズ」「タイタニック」「ターミネーター」「ジュラシックパーク」などが作られています。ジム・クラークはモザイクを開発した中心人物だったマーク・アンドリーセンを誘ってネットスケープコミュニケーションズを創設します。

 ネットスケープコミュニケーションズで開発したWWWブラウザがネットスケープ・ナビゲーターです。そして別称をモジラ(Mozilla)と名づけました。「Mozilla」=「Mosaic」+「Godzilla(ゴジラ)」で、モザイクと戦うゴジラということです。最初はゴジラ風の怪獣ロゴが使われていました。

 ネットスケープ・ナビゲーターはインターネットが広がるなか、全世界に普及しました。ところがマイクロソフトが、ウィンドウズ95とインターネット・エクスプローラをセットで提供し始めたことで、同社が開発したブラウザをインストールする必要がなくなり、一気に情勢が変わっていきます。結局、業務が悪化した ネットスケープコミュニケーションズはAOLに買収されます。

 モジラは今も生きており、1998年にネットスケープは、ネットスケープ・ナビゲーターのソースコードを公開したことにより、興味のある人が自由に開発に参加できるモジラ財団がスタートしています。

 ここからファイアフォックスというWWWブラウザがリリースされ、世界にひろまっています。

インターネット広告の誕生 1994年

グーグルキーワード広告は、キーワードに合致した時にしか広告が表示されません。ピンポイントでターゲット層が狙え、しかもクリックした時に支払う費用や予算を自分でコントロールできます。画期的だったのは広告主の支払額によって表示順番が上下する入札方式にしたことです。それほど高くない費用で広告を出すことが可能となり、これまで広告など出したことがなかった町の商店や個人事業主が広告を出す時代を切り開いたことになります。

世界初のインターネット広告 バナー広告

 世界最初のインターネット広告は、1994年10月25日にホットワイアードに掲載されたAT&Tの広告です。AT&Tはアメリカ最大の通信会社で、日本のNTTに相当する企業です。ホットワイアードはインターネット上のウェブマガジンの先駆となったサイトで、1994年10月にスタートしました。ホットワイアードの日本語版もあります。

 ワイアードに登場したAT&Tの広告は横468×縦60ピクセルのバナー広告で、バナーをクリックさせることを狙っていました。

 当初、バナー広告には決められたサイズがなかったため、ホームページの空きスペースにあわせてサイズはバラバラでした。AT&Tの広告は468×60ピクセルの大きさでしたが、その後、フルバナーと呼ばれバナー広告としてもっとも一般的なサイズとなりました。現在では、ハーフバナーやマイクロバナーなど推奨の広告サイズがいろいろと生まれています。

効果測定ができるためネット広告が伸びる

 新聞広告やテレビ広告では、広告からどれぐらい購買に結びついたか効果をはかる手段がありませんでした。バナー広告ではクリックされた回数を測定することができ、広告効果がすぐにわかる画期的な広告となりました。コカ・コーラは「No more spray and pray」(スプレーのように広告をだし、あとは祈るだけというのはやめよう)と広告戦略を見直しています。

 ネット広告では、バナー広告の表示回数に対して課金するインプレッション保証型、ユーザがクリックした回数に応じて課金するクリック保証型、実際に成約した件数に対して課金する成果保証型など、さまざまな課金方法が生み出されます。

検索連動型広告登場で、中小企業がネット広告を出す時代に

 バナー広告は今までの雑誌広告と同じように、読者の目を引く画像で物やサービスを印象づける広告でした。雑誌などと同様、集客力のあるページに表示するには、まとまったお金が必要です。つまり資本力のある企業でなければ広告を出せません。そこに登場したのが検索連動型広告、いわゆるキーワード広告です。

 キーワード広告を始めたのはビル・グロスという人物です。十二歳の時、アイス売りでビジネスを始め、その後いろいろな会社を興します。それらの会社の一つがゴートゥーです。ゴートゥーが1998年に始めたのがキーワード広告で、現在はオーバチュアという社名になりヤフーの子会社になっています。検索連動型広告はオーバチュアが世界に先駆け、始めたものになります。サービス名はスポンサードサーチでした。

 ちなみに写真共有サイト「ピカソ」を作ったのもビル・グロスで、こちらはグーグルに売りました。このビル・グロスという人物、多い時には一カ月に一社の割合で新しい会社を創る、まさにベンチャーの雄です。そのかわりオーバチュアのようにうまくいった会社もあれば倒産した会社もたくさんあります。

 ビル・グロスが1998年、カリフォルニア州モントレーで開かれた会議で検索連動型広告のアイデアを発表しましたが、当時、グーグルをはじめ多くの反応は懐疑的でした。バナー画像と違い、わずか三行の短い文章表示に広告効果があるとは誰も信じていません。ところがビル・グロスが実際に始めてみると広告効果が高く、またたく間にウェブ広告業界を席捲。ビル・グロスは後に、このビジネスモデルをヤフーに売り込みにいき、これがオーバチュアとなりヤフーリスティング広告となります。

 ビル・グロスが検索連動型広告のアイデアを出した1998年は、グーグルが設立された年です。グーグルは検索窓しかないシンプルな画面で人気を集めましたが、いかに収益をあげるかで苦労していました。ヤフーと同様、バナー広告を出せば収益を確保できますが、最大の特徴であるシンプルな画面が崩れてしまい、ヤフーとの差別化ができなくなります。

 当時のグーグルは検索エンジンの精度をひたすら向上させていた時期で、ほとんど収益が出ていません。収益モデルが見出せないグーグルに対して、出資者であるファンドなどから検索連動型広告に乗り出せと圧力がかかります。結果的にグーグルはビル・グロスのアイデアをもとにグーグルアドワーズを始めざるをえなくなり、ビル・グロスから多額の訴訟を起こされる羽目になります。

 グーグルは、2002年2月からキーワード広告「アドワーズ」を始めました。収益の手段を手に入れたグーグルの快進撃はここから始まります。それまでは資金力が必要だった広告の世界を急激に変えてしまいます。

 日本でのアドワーズは2002年9月に開始、最初に広告を出したのはウェブホスティングの会社でした。日本最初のバナー広告掲載のお礼にグーグルはグーグルグッズを贈っています。

 出稿する広告主が増え、検索結果に掲載される全八枠の広告が初めて埋め尽くされたキーワードは「はんこ」でした。

世界初のインターネット専門誌は日本で生まれた 1994年

世界初のインターネット専門誌は意外なことにアメリカではなく日本で生まれました。インプレス発行の『インターネットマガジン(Internet Magazine)』で1994年に創刊されました。インプレスを立ち上げたのが塚本慶一郎氏で、西和彦氏と一緒に日本初のパソコン専門誌『アスキー』を立ち上げた人物です。

 塚本慶一郎氏はアスキーの出版部門を取り仕切っていましたが、やがて社長の西和彦氏と意見が対立。1991年にアスキーを辞め、翌年にインプレスを立ち上げました。インプレスの社名は「人に感銘を与える」から名づけられています。当時、インターネット市場は生まれたばかりで、インターネット専門誌を出しても商売として成り立つか未知数です。そこで1994年7月、幕張メッセで開催された日本初のインターネット展示会「インターロップ」にプレ創刊号を並べてみました。二万部用意しましたが、来場者が二重三重とブースの周りに列をつくり、あっという間にプレ創刊号がなくなってしまいます。

世界初のインターネット専門誌を創刊

 反応のよさに、これはいけると『インターネットマガジン』を創刊したのが1994年10月、価格は1980円でした。雑誌にはCD-ROMが付録としてついていました。CD-ROMにはインターネットの接続ソフトが入っており、雑誌を買ってソフトの設定をすればインターネットを始めることができ、便利でした。当時はパソコンにネット接続ソフトはなにも入っておらず、自分で調達しなければならなかった時代です。

 創刊号三万五千部はまたたく間に完売し、六千部をすぐ増刷しました。インプレスでは『インターネットマガジン』を日本初と思って創刊しましたが、米国にもインターネット技術やハウツウを本格的に扱った専門誌はなく、日本初どころか世界初でした。その後、インターネット接続するネットサーファーのバイブルとなります。

 “※専門誌ではありませんがアメリカにインターネットを扱った雑誌が一誌だけありました。”

インターネット接続までが大変。創刊号に接続ガイド

 創刊号の記事は「これがインターネットの世界だ」「パソコン通信VSインターネット」。当時、まだまだパソコン通信が全盛の頃です。ビジネスパーソンはニフティサーブなどのパソコン通信で情報のやり取りをしていました。

 創刊号にはインターネットの接続ガイドが載っていますが、まずモデムの準備が必要です。当然、外付けです。

 次に電話をモジュラージャックにかえましょうという内容が書かれています。今や見ることもなくなりましたが、黒電話に代表されるように電話は直接回線につながっていて、今のように電話を取り外しできませんでした。まずモジュラージャックへの変更工事をNTTに依頼する必要がありました。プロバイダへの申込も書面に印鑑を押して、郵送が必要な時代です。

プロバイダはわずか二十九社からスタート

 『インターネットマガジン』は季刊誌でしたが第六号から月刊誌となり、国内の商用プロバイダの接続状態を表したマップがつくようになります。当時はわずか二十九社だけの牧歌的な時代でした。

 やがて、インターネットの発展とともにプロバイダがますます増え、マップもどんどん大きくなり、虫眼鏡で見なければプロバイダが見つからない状況へとなっていきます。

『InternetMagazine』創刊号(1994年10月)。毎号、国内の商用プロバイダ接続状態を表したマップがついていた。当初29社しかなかったプロバイダがどんどん増え、虫眼鏡で見ないとわからない状態になっていく。

ネット接続するために必ず通る稟議書の書き方教えます 1994年

インターネットが話題になってくると、どうしても見てみたいという欲求が出てきます。家庭でインターネットに接続するには、まず高価なパソコンを買わなければならず家族が反対します。
そこで会社でインターネットができないか画策することになります。

日本で個人がインターネット接続できるようになったのは1994年5月から

 日本初の商用プロバイダIIJが1992年に設立されました。1994年5月にダイアルアップ接続サービス(電話回線を使ってインターネットへ接続)の提供を始め、会社や学校でしか接続できなかったインターネットを個人に開放。同じ年の10月にリムネット、12月にはベッコアメがダイアルアップ接続サービスを開始、個人でもインターネット接続できる時代が到来します。

 当時、ダイアルアップ接続サービスを提供していた商用プロバイダはIIJ、スピン、インフォウェブ、リムネット、JETON、WIN、ベッコアメの七社。個人向けといいながら高品質のインフォウェブは接続料が一分二十円という時代です。ベッコアメは固定料金で初回登録料一万円、年会費が二万円で使い放題でした。他に安いのはリムネットとWINで、個人でつなぐならこの三社。

 ただベッコアメは安かった分、問題があるユーザが多く集まり、なかには危ないサイトを立ち上げて稼ぎ出すユーザが出ました。ユーザとベッコアメが警察の強制捜査を受け、これが国内初のプロバイダへの捜査。その後も同様の事件があり、よく紙面をにぎわしました。

皆、話題のホームページを見たかった

 今でこそインターネット接続は当たり前ですが、当時は接続していることが珍しい時代。まだインターネットに接続していない会社の社員はなんとかホームページというものを一度は見てみたいと思っていました。個人向けのダイアルアップ接続は登場していましたが、接続するにはモデムの知識やアプリケーションのインストールや設定など面倒な作業がいろいろ必要で、相当パソコンに詳しくないとできません。

 パソコンの知識もないし、会社でなんとかインターネットにつなげられないかなと思っているところへ登場したのが「インターネット接続を社長にお願いするときの文章の書き方」。雑誌『インターネットマガジン』1995年2月号に掲載されていました。

インターネット接続を社長にお願いするときの文章の書き方

 題して「拝啓 社長殿 IP接続かならず通る稟議書の書き方」。

 当時、会社から専用線を使ってプロバイダと接続しようとすると月に二十~五十万円の経費がかかりました。年間二百四十~六百万円となりますので、会社もおいそれと許可するわけにはいきません。そこで稟議を通さないといけませんが必要なのが稟議を通すための殺し文句。

 雑誌にはこの殺し文句がいくつか出ています。

別のコストが削減できます

“海外と連絡するのに国際電話やテレックスが使われていた時代。コストが馬鹿になりません。インターネットに接続すれば国際電話やテレックスを電子メールで置き換えることができるので、これは確かに殺し文句です。”

名刺に電子メールアドレスのない会社は生き残れないそうですよ

 当時、名刺に電子メールアドレスを載せるだけで、名刺を受け取った相手から「すごく先進的な会社ですね」と言われた時代。

 今では「検索でホームページが見つからない会社は存在しないのと同じ」といわれる時代になりましたので、確かに電子メールアドレスやホームページアドレスがない会社は生き残れなくなりました。

社長の顔を世界じゅうにアピールできますよ

 当時、企業ホームページがいくつか立ち上がっていましたが、どこも会社案内の内容ばかり。会社概要をクリックすると社長の顔写真がドーンと載っていました。この殺し文句は確かに社長には響くでしょう。会社のホームページができると、FAXや電話などで取引先や親戚に連絡し、連絡した相手が「ホームページとはすごいですね!」と開設するだけで見てくれました。

同業他社がやり始めましたよ

 集団主義の日本人のメンタリティーに根差した殺し文句で、今でもいろいろな場面で活用できる殺し文句。豪華客船が沈没しそうになった時に乗客を飛び込ませるジョークに、イタリア人なら「海で美女が泳いでいます」、ドイツ人には「規則ですから飛び込んでください」。

 そして日本人にかける言葉は「みなさん飛び込んでいますよ」。

 同雑誌には日本インターネット協会会長・石田晴久教授(東京大学)による、社長向けに書かれたインターネット接続のメリットという真面目な文章があり、これをコピーして稟議書の添付資料に使うと、さらに成功率が高まると至れり尽くせり。

 インターネット接続するだけで大騒動した時代でした。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/