バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話
第4章 ホームページの時代へ(4)
2017年5月25日 06:00
2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!
書籍(紙・電子)購入特典として、購入者全員プレゼントも実施中です! 詳しくはこちら!
夢のテレホーダイが登場 1995年
電話をかけるのに従量制料金が当たり前だった時代に登場したのがテレホーダイ。常時ではなく、深夜時間帯に限ったものでしたが夢のようなサービスです。
さっそく飛びついたのがパソコン通信利用者たちでした。
通信の自由化がおこなわれたのが1985年。国内通信を独占していた電信電話公社が民営化されNTTとなりました。これを契機にいろいろな通信会社が登場し競争原理が働くことになります。
当時、ビジネスパーソンの間で流行していたのがニフティサーブなどのパソコン通信。全国の人とネットを通じて議論や情報交換ができる夢のようなツールでした。書店にパソコン通信の入門キットが売られていて、各市に設置されたアクセスポイントの電話番号一覧が掲載されていました。パソコンからモデム経由で自宅に近いアクセスポイントに電話をかけ電話回線を通じてサーバにアクセスし、パソコン通信をすることができました。
当時、電話代とは別に通信費が一分間に十円ほどかかりました。従量制料金なので接続する時間が長ければ長いほど、どんどん課金されて、請求書を見て目をむくことになります。そこで重宝したのが巡回ソフトです。
巡回ソフトによく見る会議室などを登録すると、自動でアクセスポイントに電話をかけ、指定した会議室のデータをパソコンへダウンロードし、最後に電話を切ってくれます。これで通信料金を節約していました。
夢のテレホーダイが登場
1995年、NTTからテレホーダイという画期的なサービスが登場します。深夜二十三時から翌朝八時までの間、どれだけ通話しても一定料金(市内なら月千八百円)にするというサービスです。ただし定額制になるのは事前に指定した二つまでの電話番号だけです。
NTTでは遠距離恋愛している恋人向けに、電話料金を気にせず電話できるという利用者モデルを描いていたかもしれませんが、飛びついたのはパソコン通信利用者でした。
「これで電話料金を気にせず、思い切りパソコン通信ができる!」
皆、考えることは同じで二十三時直前にパソコンに陣取り、時計とにらめっこ。二十三時になったとたんにモデムからアクセスポイントに電話をかけます。結果、皆がアクセスするのでサーバ側がおいつかず、なかなか応答がかえってきません。深夜にアクセスするのはあきらめ、早朝に起きてアクセスすると、さすがに利用者が少ないこともあり、快適に使えました。
海外からの通信料金を安くできた
ニフティサーブなどは海外の事業者と提携しており、ローミングサービスが活用できました。ローミングサービスというのは提携している海外事業者のアクセスポイントに電話するとニフティサーブが使える仕組みです。国内より少し料金は割高にはなりますが国際電話を使わずにすみ便利でした。
海外アクセスポイントを事前に調べておき、海外出張して現地に着いたら調べておいたアクセスポイントへ電話することでパソコン通信ができました。当時のパソコン通信では指定した電話番号へメールすると自動的にFAXを送ることができました。日本まで国際電話をかけて通信料金を気にしながら通話しなくても、パソコン通信経由でメールをだしてFAXで届ければ、報告には十分でした。
もっとも海外のホテルでは電話機がじかに電話線につながっているケースが多く、電話機から線をはずしてモデムにつなぐことができないこともありました。海外出張でモデムが使えるホテルのリストがパソコン通信の会議室にアップされ、実際に接続できた人によって常時リストがアップデートされており、参考にしながらホテル予約をしたものです。
いまなら、こんな苦労をしなくてもスカイプで無料通話して終わり。便利な世の中になったものです。
楽天トラベルは社内ベンチャーから生まれた 1996年
出張などでホテル予約をする時に便利なサイトが楽天トラベル。もともとは日立造船コンピュータ株式会社から生まれた社内ベンチャーです。
ホテルの予約といえば電話が主流の時代にインターネットのサイトから即時予約できるサービスとして1996年に「ホテルの窓口」がスタートします。きっかけは日本を襲った造船不況でした。
日本の造船業は約四十五年間、世界に君臨していましたが、1990年代にはいり韓国勢の追い上げなどから競争力を落としてしまいます。日立造船コンピュータは親会社である日立造船のシステム開発を請け負っていましたが、親会社が苦しくなれば、しわ寄せは子会社にきます。親会社の受注に頼るだけではなく、自活しなければなりません。そんななか、出張が多かった社員が、ホテルへの電話予約をなんとかできないかと考えたのが「ホテルの窓口」開発のきっかけです。
八十六軒のホテルからスタート
社内にあった中古サーバやパソコンをかき集め、オフィスの片隅で開発を開始。1995年のことで、年末にウィンドウズ95が発売されますが、まだまだインターネット黎明期です。まずは協力してもらえるホテルを探さなければサービスは始まりません。
新幹線の駅で途中下車し、駅前のホテルに飛び込んで営業をかけます。雑誌のような広告宣伝費がいらないし、ノーリスクで販売チャネルを一つ増やすことができると根気よくメリットを訴え続けます。そして1996年1月、八十六軒のホテルから「ホテルの窓口」がオープンします。
またホテルに泊まったお客さんが情報交換できる掲示板をシステムに設置します。いわゆるクチコミ掲示板で先進的な仕掛けでした。掲示板にはホテルだけでなく、近くにある飲み屋やコンビニ情報、駅からの距離など泊まった人が必要とする情報があふれていきます。ヘンなことが書き込まれるのではと警戒していたホテル側もサービスの改善点やどういう情報を宿泊客が求めているのかがわかり、サービスの質を向上できます。翌年にはホテル側からの返信ができる機能がつき、宿泊客との間でコミュニケーションができるようになります。
「ホテルの窓口」の会員は順調に増え、サービスを開始した翌年の1997年に会員数が二万人を超えます。1998年に登録ホテル数が五百軒を突破、1999年には千軒を突破します。
「ホテルの窓口」は順調に会員数を伸ばし、1999年にはサービス名を「旅の窓口」にかえます。
最終的には楽天の買収によって今の楽天トラベルになっていきます。ベストリザーブも「ホテルの窓口」が原点です。
駅探も東芝の社内ベンチャーから生まれた
社内ベンチャーから生まれたサービスは他にもいろいろあります。出張や旅行時に便利なのが電車の乗り換え案内。スマホなどですぐ調べられます。1997年5月に首都圏千五百の駅を対象に乗り換え案内のサービスを始めたのが駅前探検倶楽部(駅探)。
もともとは東芝の社内ベンチャーで、東芝の半導体回路設計技術を経路探索技術に応用しています。1999年2月にNTTドコモがiモードサービスを開始する時に、携帯電話向け乗換案内サービスとして最初の公式コンテンツの一つになり、爆発的に使われるようになります。2003年1月に東芝から分社化し、2007年にはファンドと組んでMBO(経営陣が参加する買収)を実施し、現在の株式会社駅探になっています。
会社を追い出された男が、戻って見事に復活 1997年
自分が作った会社を、他社から引き抜き経営をまかした男に追い出されてしまいました。くじけず別の会社を作って成功。ところが自分を追い出した会社は業績不振に陥ってしまいました。そこで戻って見事に復活させた人物とは誰でしょう。
答えはスティーブ・ジョブズ。アップルの創業者です。
アップルを追い出される
スティーブ・ジョブズはスティーブ・ウォズニアックと共にアップル㈵を開発・販売。アップル㈵はよく売れ、ジョブズはビジネスとしてやっていけると判断しアップルを設立。次に出したアップル㈼が爆発的に売れ、アップルを軌道にのせました。
紆余曲折がありましたが、アップルの大きな転機になったのがマッキントッシュの発売。問題は価格でした。プリンタなど一式揃えると百万円もするパソコンで、おいそれとユーザは増えません。
当時のジョブズは自身の経営能力にあまり自信がありませんでした。そこでペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーを引き抜きます。なかなかウンと返事をしないジョン・スカリーを誘った言葉が「このまま一生、砂糖水を売り続けるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないか」です。
ジョン・スカリーとジョブズ、最初は良好な関係でしたが、やがて対立。結局、ジョブズは自分が作った会社を追い出されてしまいました。
ネクストを作ってカムバック
アップルを追い出されたジョブズが立ち上げたのがネクスト。アップルと同じコンピュータを作る会社でしたがパソコンではなく、技術者が使うワークステーションを製造。こだわりのジョブズですのでデザインに金をかけ、真黒い筺体に印象的なネクストのロゴデザインがついており、実に格好よくおしゃれなマシンでした。機械という印象が強かったコンピュータにプロダクトデザインという付加価値を加えたジョブズはやはり非凡です。
ネクストで特にすごかったのがOSで、先進的で洗練された仕様が話題を呼びました。ジョブズがシリコンバレーでネクストの最初のプロトタイプを発表するために壇上にあがると聴衆はスタンディングオベーションで迎えます。アップルを追い出されシリコンバレーから去った人間がもう一度、シリコンバレーの表舞台に戻ってきたことを歓迎するためです。
アップルに復帰
ジョブズを追い出したアップルは迷走していました。経営者がかわり、いろいろ手を打ちましたが業績不振が続きます。一時は倒産する、またはサンに買収されるのではないかなど、いろいろとウワサが流れました。マッキントッシュの次世代OSの開発もうまくいかず、そこで外部調達が検討され、声がかかったのが先進的なOSを作っていたネクスト。ジョブズは非常勤顧問としてアップルに復帰します。
やがて経営の実権を握り、改革を実施。ついにiMacを市場に送り出します。十五インチCRTが組み込まれた一体型ケースのパソコンで、電源を入れたらすぐ使えました。デザインもよかったのですが、すごかったのがカラーバリエーション。なかが見えるスケルトンモデルでカラフルな色のパソコンが家電売り場に並び、パソコン売場がブティックの印象に。女性がオシャレなパソコンが欲しいとパソコン売場に来るようになります。
これで復活したアップルはネクストのOSをベースに開発したMacOS Xを発表。やがてiPodとiTunesによって音楽事業に参入、音楽事業をパソコンと並ぶ事業の柱にしました。
『ピクサー 早すぎた天才たちの大逆転劇』(デイヴィッド・A・プライス)によれば、ジョブスはアップルの暫定CEOに就任してからは、他の会社からの収入があるという理由で給与は毎年一ドルにしています。他の会社というのは映画「トイ・ストーリー」で有名なピクサーです。ネクストを経営している時にルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を買収して作った会社で、今はディズニーに売却され子会社になっています。その関係でジョブズはディズニーの個人筆頭株主であり、ディズニーの役員にもなっていました。
スティーブ・ジョブズの愛車にはナンバープレートがない 1997年
アップルの創業者スティーブ・ジョブズの愛車メルセデス・ベンツにはナンバープレートがありませんでした。その代わりにバーコードが表示されていて、このバーコードに車両登録番号が登録されています。スティーブ・ジョブズなのでカリフォルニア州と交渉し、このバーコードをナンバープレート代わりに認めてもらっていると、もっぱらのウワサでしたが単なる都市伝説で真相は意外なところにありました。
日本では1999年5月からナンバープレートに自分の希望する番号をつけることができます。当然、人気がある番号は抽選となります。ラッキーセブンの「777」や末広がりの「8」は人気が高く、抽選でないと取得できません。語呂あわせの「625」(無事故)、「4649」(よろしく)も人気があります。
海外でも自分の希望するナンバープレートをつけられますが、数字だけでなくアルファベットを組み合わせることができます。ビートルズのアルバム「アビー・ロード」のジャケット写真ではアビイ・ロード・スタジオ前の横断歩道を歩くビートルズが写っています。道沿いにフォルクスワーゲンがとまっていますが、このフォルクスワーゲンのナンバープレートが「28IF」。「もし(IF)ポールが生きていれば28歳である」ことを意味しています。横断歩道を歩くビートルズの四人がそれぞれ神父(ジョン)、葬儀屋(リンゴ)、墓堀人(ジョージ)、死体(ポール)役というジャケット写真でした。
スティーブ・ジョブズの愛車にはナンバープレートがない
カリフォルニア州の法律では、ナンバープレートを取得した新車は六カ月間ナンバープレートなしでも公道走行が許可されています。そこでスティーブ・ジョブズはリース会社と契約し、六カ月ごとに新車のベンツと交換。これで常にナンバープレートなしで走ることができました。
理由を聞かれたスティーブ・ジョブズは「ファンなどに追いかけられるのが嫌だからナンバープレートをつけない」と語っていますが、ナンバープレートがない方が反対に目立つので、これは彼なりの哲学だったのでしょう。
コンピュータにまつわるナンバープレートも多い
グーグルやアップルの従業員用駐車場にはマニアックなナンバープレートをつけた車がたくさんとまっています。たとえば「HTTP418」というナンバープレートがありますが、コンピュータ関係者なら「やるなあ!」と思わず、ニヤッとしてしまうナンバープレートです。
HTTPはホームページを見るために使いますが、ホームページが表示されない時にエラーコードが返ってきます。418というのはエラーコードの一つで、418「私はティーポット」というエラーです。ティーポットにコーヒーをいれようとして、拒否された場合に返すジョークのエラーコードです。
また「RMーRF*」というナンバープレートがあります。UNIXというOSで入力するコマンドで、入力して実行してしまうとハードディスクの中身すべてを削除してしまい、後悔で三日間は寝込むことになります。自戒をこめたナンバープレートなのでしょう。
シリコンバレーのレストランの店頭には「Google」というナンバープレートが飾られています。このナンバープレートには「グーグルの株を買わなかったのはあまりに愚かだった。そこで、ナンバープレートは買った」という説明書きがついています。
Aドライブ、Bドライブはどこへ消えた 1998年
スティーブ・ジョブズがアップルに復帰し、出したのがiMac。モニターだけの一体型で、なんと内部が見えるスケルトンモデルでした。とてもスタイリッシュなデザインでしたがさらに驚いたのがフロッピーの差し込み口がなくなったこと。これがエポックメーキングとなりパソコンからフロッピーが消えていきます。
ウィンドウズでマイコンピュータをダブルクリックするとローカルディスク(C)、ローカルディスク(D)などパソコンに接続されている記憶装置のアイコンが表示されます。ドライブ番号と呼ばれています。
パソコンの記憶装置はとっても高かった
パソコンで作ったデータを保存するには記憶装置が必要で最初の記憶装置はカセットテープでした。パソコン雑誌(当時はマイコン雑誌)に十六進数でゲーム・プログラムのコードが書かれており、これを忍耐強くコンピュータに入力して遊びました。遊ぶ時間よりも入力時間の方が長かったという、とんでもない時代でしたが、今のようにソフトがパッケージに入って流通していませんでしたので、パソコン・ユーザはひたすら打ち込みました。パソコンの電源を落とすと、せっかく入力したプログラムが消えてしまいますので、データをカセットテープに保存します。
当時、フロッピー・ドライブは、大きな8インチサイズの時代で三十五万円もしました。とても個人ユーザが手を出せる価格ではありません。今ではあたりまえのハードディスクは、何億円もする汎用コンピュータで使われており、個人ユーザにとっては夢のまた夢でした。
フロッピー・ドライブにBドライブが割り当てられる
やがてフロッピー・ドライブの価格が下がりはじめ、サイズも8インチから5インチ、3・5インチと小型化されパソコン内蔵となりました。この時、フロッピー・ドライブに割り当てられたのがAドライブです。
ただ問題がありました。まだハードディスクが内蔵されていない時代ですので、ワープロや表計算ソフトをフロッピーから起動すると、できあがったデータはプログラムが入ったフロッピーに保存できません。プログラムが壊れないよう書込みできないようになっていました。一台しかフロッピー・ドライブがないので、保存のたびにフロッピーを入れ替えねばならず大変不便です。
すぐにフロッピー・ドライブを二台搭載したパソコンが登場し主流となります。フロッピーをコピーする時に一台目にオリジナルを入れ、二台目にコピー先を入れるとガチャガチャとやかましいアクセス音がしてコピーできました。この二台目のフロッピー・ドライブがBドライブになります。
フロッピー・ドライブ二台搭載というパソコン時代が続きますが、やがて外付けハードディスクが登場します。容量は十メガバイトで四十万円もしましたが、フロッピー・ドライブと同じように時間とともに安くなり、ハードディスクがパソコンに内蔵されるようになります。ハードディスクに割り当てられたがCドライブです。
Aドライブ、Bドライブが欠番に
ドライブ番号が固定されているのはA、B、Cだけで、D以降は、最初に認識された順番に番号が割り当てられます。USBメモリを複数個パソコンに接続すると、接続するたびにドライブ番号が変わるので、どのUSBメモリがどのドライブ番号だったか迷うことになります。
※“マイコンピュータにあるコンピュータの管理を使ってドライブ番号の変更は可能です。”
A、Bをフロッピー・ドライブ、Cをハードディスクとしたのはウィンドウズ以前のMS-DOS時代の話でしたが、ウィンドウズが登場した頃もフロッピー・ドライブ二台搭載のパソコンがたくさんありましたのでA、Bドライブをそのまま継続します。
やがてハードディスクが大容量となり、フロッピー・ドライブ一台で十分となったため、Bドライブが欠番状態となりました。現在ではAドライブも欠番状態になり、Cドライブから始まるようになっています。そのうちドライブ番号の割り当てについて大幅な見直しがあるかもしれません。
ドメインの問題解決はかなり大変! 1999年
アメリカのコンピュータ技術者に子供が生まれると、子供の名前をつける前にドメイン名が空いているかどうか検索をします。子供が将来、自分の名前で商売する時に困らないよう、ドメイン名をおさえてから子供の名前をつけるそうです。どうも都市伝説のようですが。
ドメイン名は世界に一つしかありません。インターネット上ではIPアドレスと呼ばれる数字を住所として使いますが、数字を覚えるのが大変なためIPアドレスと一対一に対応したドメイン名を使っています。IPアドレスとドメイン名はセットとなります。IPアドレスがインターネットの住所ですのでドメイン名も住所になります。住所ですので、なるべく短く覚えやすいドメイン名を取りたいと誰もが考えますが、基本的に早い者勝ち。ドメイン名の割当ルールはファースト・カム、ファースト・サーブが基本です。つまり最初に申請した人に割り当てる特許と同じ先願主義をとっています。
たとえば「sharp.com」は日本のシャープではなくアメリカ・サンディエゴにあるSharp HealthCareという会社が使用しています。同様に 「takasimaya.co.jp」は新潟・岩室温泉にある旅館・高島屋で百貨店の高島屋はヘボン式ローマ字の「takashimaya.co.jp」になっています。
自分が狙っていたドメイン名が既に取得されている場合は、別のドメイン名にするかドメイン名を取得している人と交渉して譲ってもらうか、売ってもらうことになります。ただしjpドメインを管理するJPNIC(社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター)ではドメイン名の譲渡を認めていません。また不正目的の取得に関してはドメイン名紛争処理方針に従って訴えることができます。
【2017年5月29日編集部補足】本稿において、「jpドメインを管理するJPNIC(社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター)」との記載がありますが、これは1999年当時の情報です。現在は、現在ドメインを管理しているのはJPNICではなく株式会社日本レジストリサービス(JPRS)に移管され、同社が登録・管理業務を行っています。また、「ドメイン名の譲渡を認めていません」との記載がありますが、譲渡は2007年頃から可能になっております。
ドメイン名を管理しているのはどこ
ドメイン名は住所と同様、世界で一つだけにする必要があります。同じ住所が複数あると、郵便の手紙が届かないのと同じで情報のやりとりができません。必然的にドメイン名を割り当て管理するところが必要となります。ドメイン名を管理しているのはICANNという民間の非営利法人。
ICANNがドメインの割り当てをおこなっていますが、全世界の割り当てをしていると大変なので、地域や国ごとに分担を決めています。たとえば「jp」ドメインについてはJPRS(日本レジストリサービス)が担当しています。
ドメインというブランドを守る必要がでてきた
企業や個人が、ドメインを取得しサイトを開設するようになり、新たな問題も生じてきました。サイバースクワッティング問題です。サイバースクワッティングとはドメイン名占拠のことで、先にドメイン名をおさえてしまい、後で高く売りつけることを目的としています。
たとえば百貨店の松坂屋のドメイン名は「matsuzakaya.co.jp」ですが、2000年頃まで「matsuzakaya.co.jp」にアクセスするとアダルトサイトが表示されてしまっていました。企業ブランドにとってはマイナスです。
登録商標や特許など知的所有権の国際的な紛争について調整する機関にWIPO(世界知的所有権機関)があります。インターネットが普及し、ドメイン名が商標のような価値をもつようになったため、WIPOが乗り出すことになりました。ドメイン名を管理している側とWIPOが集まってIAHC(インターネット国際特別委員会)という委員会を作り、ドメイン名に関する諸問題を検討しました。
商標は国ごとに登録しますので、WIPOが今までおこなっていたのは国と国との調整でした。ところがドメイン名は世界に一つしかなく国ごとに登録できません。ドメイン名について議論することはWIPOをはじめ参加者にとって、地球全体の問題を解いていく初めてのケースになりました。議論の過程で調整組織ができ、これが現在のICANNへなっていきます。
ドメイン名を守るために
○方策1:相手を調べて交渉する
ドメイン名を登録する際、約款に同意を求められます。この約款には、将来、登録するドメイン名について争いになった場合、DRP(ドメイン名紛争処理方針)による解決に従うことが盛り込まれています。読んでいない人も多いのですが、約款に書かれています。
社名とはまったく関係のない個人や会社が既にドメイン名を取得していた場合、まずは相手側と交渉します。ドメイン名登録者はJPRSの「WHOISデータベース」でドメイン名を入力すれば相手の名前、住所、電話番号などの連絡先やドメイン名の登録年月日、更新年月日がわかります。
ただしWhois情報公開代行というのがあり、検索しても登録事業者の情報しか掲載されていない場合があります。個人でドメイン名を取得している場合、プライバシー保護の観点から代行を申し込む人も多いのですが、この場合、ドメイン名の所有権を主張することができなくなります。登録事業者の情報しかない場合は、登録事業者にWhois情報公開代行の解除請求をおこない、わかった相手と交渉します。
○方策2:紛争処理機関に申し立てする
相手との交渉が不調に終わったらドメイン名登録者を相手方として紛争処理機関に申立をします。紛争処理機関では申し立てを受けると中立公正な一名または三名構成のパネリスト(弁護士、弁理士など)が選任され裁定をおこないます。パネリストの指名を受けた日から十余日(営業日)以内に裁定がでます。
申し立ては有料になっています。jpドメインの紛争処理機関は日本知的財産仲裁センターが担当しており、裁定結果(ドメイン名、日付、移転などの結果)は原則公開されます。日本知的財産仲裁センターの「JP ドメイン名紛争処理」から過去の裁定を見ることができます。
○方策3:ブランドを守るため他のドメインをおさえる
会社名のドメイン名を取得できたとしても安心していてはいけません。「abc.co.jp」は取得できました「abc.jp」や「abc.com」をどうするかです。「co.jp」ドメインを取得するには企業の登記簿謄本が必要となっています。「or.jp」ドメインも同様に非営利法人の登記簿謄本が必要で「co」、「or」の属性がつく場合、一組織一ドメインが基本となっています。
ただしネットワークサービス提供者となる「abc.ne.jp」の取得はできます。
「abc.jp」のように属性がつかない場合や「.com」、「.net」などもドメインが空いていれば簡単にとれます。もちろんドメインを取得するには登録料金や更新費用がかかりますが、ブランドを守るためにおさえるかどうかを考えなければなりません。