バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第2章 インターネット・パソコンの黎明期(3)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

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アップルは非合法的ビジネスからスタート 1976年

アップルといえば常に時代の先をいく製品を世に送り出す華やかなイメージですが、最初、非合法的なビジネスからスタートしました。この時からウォズニアックが作り、ジョブズが売るという二人三脚が始まり、その後の世界を大きく変えていきます。

アップル、最初の製品は“小さな青い箱”

 アップルを創業したのはスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック(アメリカ人)の二人のスティーブです。ウォズニアックはジョブズの五歳年上でしたが妙に気があいました。

 ニューヨーク・タイムズの「ファイブサーティエイト」(2015/11/4)に掲載された動画によれば、二人が最初の事業を始めるきっかけになったのが一つの記事。1971年、カリフォルニア大学バークレー校の寮に入っていたウォズニアックに母親から『エスクァイア』誌の記事が送られてきました。記事の題名は「小さな青い箱の秘密」で、内容は電話回線を不正に使って無料で電話する若者たちを取りあげた記事です。

 当時、キャプテン・クランチというスナック菓子があり、オマケに小さなホイッスルがついていました。ホイッスルを吹くと電話料金が無料になることに技術者が気づきます。このホイッスルの周波数が、偶然、電話のトーン信号と同じでした。このトーンは、電話線が待機状態を示す信号で、まず電話して呼び出している間にトーンの音を電話線に流すと電話線は待機状態になります。待機状態となったところで、つなぎたい電話番号を発信すれば相手に電話がつながり、これで無料電話がかけられます。この仕組みで開発されたのが「ブルーボックス」と呼ばれる電子装置。ブルーボックスが若者に出回り、不正に長距離電話をしていました。

 ウォズニアックはさっそくジョブズに記事を見せ、独自のブルーボックスを開発することにします。ブルーボックスを開発した技術者にも会って話を聞き、スタンフォード大学の図書館で電話会社の技術資料を見つけ、トーンの周波数を突き止めます。既存のものよりも小さなブルーボックスを作ろうとウォズニアックは考え抜いた回路を書き、タバコの箱の大きさぐらいまで小型化に成功します。

ウォズニアックが作り、ジョブズが売り歩く

 十六歳のジョブズは、学生にとって長距離電話料金は懐に痛く、ニーズがある商品なので量産して売ることを考えます。そしてバークレー校の寮に入っている学生の部屋をノックしては訪問販売を始めました。学生はもちろん大歓迎。ブルーボックスを二百台販売したところで、最初に開発した技術者が逮捕されたため、商売から手をひきました。

 アップルはウォズニアックがアイデアを形にして作りあげ、ジョブズが魅力をアピールして商品を売りさばくという役割分担で業績を伸ばしていきますが、最初のビジネスからその役回りでやっていました。ただウォズニアックはブルーボックスの開発、製造にかかりっきりで、ほとんど授業に出ておらず悲惨な成績となり大学を去ることになります。

アップルⅠを世界に送りだしアップルがスタート 1976年

二人のスティーブがいろいろと回り道をしていた頃、マイクロプロセッサが世の中に登場し始めます。ただし、自分で部品を揃え自分で組み立てなければなりませんでした。時間も技術もない人には手が出ません。そこで完成したボード(基盤)を売ったら儲かるのではないかとジョブズがアイデアを出します。ブルーボックス以来の事業です。
アップル発展の原動力となったアップルⅠ。アタッシュケースに入れるなど、ユーザはいろいろ工夫した。

 さっそくコンピュータショップのオーナーに見本を見せると、五十台の注文を受けました。アルテアと違い、他のハードウエアを揃えなくても、キーボードとテレビをつなげば使えました。

 ボードを製作するために、ジョブズはワーゲンバスを、ウォズニアックはヒューレット・パッカード製のプログラミング電卓を売り、最初の資金を作ります。

 そして「アップルⅠ」を作って売り出しました。よく売れ、儲かったため、本格的に事業化することにし会社を作ります。当時、働いていたウォズニアックは事業化をしぶっていましたが、ジョブズが“一度くらい失敗してもいいじゃないか。それよりも、俺は一度会社を作ったことがあるのだぜ、と自慢できる方が大切さ”と口説き、アップルがスタートします。

 アップルという社名を考える時、ビデオゲームを作る世界最初の会社アタリよりも前に、アルファベット順で名前が出るように考えたという説があります。創業者が囲碁初段で、囲碁用語「アタリ」から社名をつけたといわれているこの会社で、若きジョブズはアルバイトをしていたことがあったのです。

アップルのリンゴマークは「旭」という品種

 アップルのロゴマークと言えば端っこが欠けたリンゴマークです。このリンゴは英語名「McIntosh」で、日本語名は「旭」という品種です。カナダのオンタリオ原産のリンゴで、この英語名からパソコン・マッキントッシュ(Macintosh)と名づけられました。

 本当はリンゴと同じ「McIntosh」と名づけたかったのですが、同名のオーディオ製品メーカーがあったため間に「a」を入れてマッキントッシュ「Macintosh」となりました。このマッキントッシュの名づけ親はジェフ・ラスキン氏(アメリカのコンピュータ技術者)で、「マックの父」と呼ばれた人物です。2005年2月に亡くなっています。

 アップルのリンゴのロゴは現在、単色になっていますが、以前はカラフルなロゴで、上から緑、黄、橙、赤、紫、青となっていました。これは既成概念にとらわれないことをあらわしています。

アップルの初期のロゴはアイザック・ニュートンだった

 アップルの初期のロゴはリンゴではありませんでした。アップルが発売した「アップルⅠ」のロゴに使われていたのがリンゴの木にもたれかかって本を読んでいるアイザック・ニュートンです。

 リンゴは西洋では特別なもので、アダムとイブがリンゴ(知恵の実)を食べたように知恵の象徴でもあります。またリンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見したニュートンのエピソードが有名です。アップルのロゴには「知性は永遠に見知らぬ思考の海を漂うただひとり」というワーズワース(イギリスのロマン派詩人)の詩が書かれていました。

 初期のロゴマークですが堅苦しかったため、もっと親しみやすいデザインにできないかと考えた結果、現在に続くロゴが採用されます。端っこが欠けたカラーのリンゴマークはアップルⅡから採用されました。モノクロ出力が当たり前の時代にアップルⅡはカラー出力ができ、その優位性を誇示する狙いがありました。

 現在のロゴもリンゴが欠けていて、これはbite(ひとくち)とbyte(バイト:情報の単位)の言葉をかけているという説がありますが、デザイナーによると、リンゴに見えるシルエットにするために、シンプルにロゴを一口かじったデザインにしただけだそうです。

フォントの話 1976年

アップル創業者であるスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学でおこなったスピーチがあります。卒業生に贈る言葉として、ジョブズ自らの大学時代について語りました。自主退学した大学で出会ったのがカリグラフィーの授業。これが後にマッキントッシュを開発する時にいかされます。

大学時代にカリグラフィーに出会う

 スピーチはユーチューブにアップされており、「スティーブ・ジョブズ スタンフォード大学卒業式辞」で検索できます。スピーチによればオレゴン州ポートランドにあったリードカレッジ大学に進学したジョブズですが、必修科目に興味がなく、両親(育ての親)が苦労して貯めてくれたお金を自分にとって意味のない教育で浪費するのは申し訳ないと、半年ほどで退学してしまいます。

 大学は辞めましたが、一年半ほど“もぐりの”学生として面白そうな授業に顔を出していました。寮に自分の部屋がなくなったので友達の部屋の床で寝て、コークの瓶を集め、わずかなお金を受け取って食べ物を買っていました。寺院で毎週日曜夜に無料の食事を提供していたので寺院へ行き、食いつないだりもしていました。

 リード大学では当時、ハイレベルなカリグラフィーの授業がおこなわれていました。カリグラフィーとは文字を美しく見せるための手法で、大学内のすべてのポスターが美しいカリグラフィーで手書きされていました。ジョブズはこのカリグラフィーの授業で、フォント(書体)の違いや活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法や素晴らしいフォントの実現など、微妙なアートの世界にすっかり魅了されます。

“もぐりで”聞いたカリグラフィーの授業がマッキントッシュにいかされる

 カリグラフィーの授業は、十年後に役立つことになります。ジョブズはコンピュータにはシンプルな美しさが必要と考え、マッキントッシュを設計します。たとえば当時のパソコンには必ずついていたフロッピー・ドライブの取りだしボタンは不細工だとなくし、そのかわり、マウスでフロッピーのアイコンをゴミ箱に入れればフロッピーが自動的に出るようにします。ディスプレイやプリンタに表示する文字を考えた時、リード大学で受講したカリグラフィーの授業を思いだします。当時のコンピュータのフォントは等幅フォントだけで、読めればよいという割り切ったフォントでした。

 そこでマッキントッシュにはプロポーショナルフォントなど七種類のフォントを搭載します。プロポーショナルフォントとは文字毎に文字幅が異なるフォントのことでカリグラフィーの授業で学んだことが見事にいかされます。マッキントッシュは文字を美しく表示、印刷できる最初のコンピュータとなり、デザイン会社や印刷会社にマッキントッシュが導入されていきます。やがて他のパソコンでも多彩なフォントを用意することが標準となります。学生時代の寄り道がビジネスで花咲くことになります。

フォント名には都市名が使われる

 マッキントッシュに搭載されたフォントはアテネ、シカゴ、ジュネーヴ、ロンドン、モナコ、ニューヨーク、ベニスの七種類。最初は駅名の予定でしたが駅より世界的な都市名をつけようということでシカゴなどの都市名になりました。

 なかでもシカゴは特別なフォントでメニュー表示などシステム用フォントとしても使われました。シカゴはiPodのフォントとしても使われています。このフォントをデザインしたのがグラフィックデザイナーのスーザン・ケアです。

 スーザン・ケアはフォントのデザインだけでなくマッキントッシュ起動時のハッピーマック、調子が悪い時に表示されるサッドマック、ごみ箱などのアイコンもデザインしました。ウィンドウズのカードゲーム「ソリティア」のカードデザインも担当しています。

日本語版フォントはOSAKA

 マッキントッシュの日本語版が発売される時には日本語フォントが用意されます。それがOSAKA(大阪)フォント。マッキントッシュの伝統に従って都市名がつけられました。大阪とシカゴは1973年に姉妹都市となっており、英語版のシステム・フォントがシカゴなので、姉妹都市の大阪が日本語版の名前に選ばれました。OSAKAフォントはゴシック体ですが、明朝体は隣の京都でKYOTOフォントと名づけられます。

 マッキントッシュのフォント以降、地名をつけるのが一つの流れとなり、印刷などでよく使われるヒラギノフォントも京都の地名に由来しています。柊野(ひらぎの)という京都市の北、上賀茂神社近くの地名が使われています。

オラクル本社ビルはデータベースの形 1977年

日本好きだったスティーブ・ジョブズの自宅には茶室がありました。蕎麦が好物でクパチーノにあるアップル本社の社員食堂にはジョブズが考えた刺身蕎麦なる料理があります。冷たいカケ蕎麦にマグロ等の刺身をトッピングした一品です。また、オラクル創業者ラリー・エリソンも大の日本好き。二人は友人で、ラリー・エリソンの四人目の奥さんとの結婚式ではスティーブ・ジョブズがカメラマンを務めています。

 オラクルはデータベースで有名な会社です。オラクル社の製品を扱う技術者はオラクルマスターと呼ばれ、IT技術者と名刺交換すると名刺によくオラクルマスターと記載されています。

 オラクルの創業者がニューヨーク出身のラリー・エリソンという人物。エリソンが技術者として勤めている頃にCIA向けのデータベース開発があり、エリソンはプロジェクトをオラクル(神託)と名づけていました。これが創業した後の会社名になります。

 オラクル本社はサンフランシスコ湾のベイエリアにあります。システム図を書く時によくデータベースを円筒であらわしますが、システム図そっくりの円筒形ビルがずらっと並びます。遠くから見るとまさにデータベースの姿。

 この先進的な本社ビルは1999年に公開されたアメリカのSF映画「アンドリューNDR114」で、架空会社のビルとして登場しています。アイザック・アシモフのロボット(アンドロイド)が原作の映画です。

オラクル創業者ラリー・エリソンは大の日本好き

 ラリー・エリソンは一時期アムダールに勤めていました。アムダールはアイビーエムの技術者だったアムダール博士がスピンアウトして作った会社で、アイビーエム互換機メーカーとして有名な会社です。アムダールが富士通と提携していた関係からラリー・エリソンはよく日本に出張していました。この時、京都にはまってしまったようです。京都の芸妓さんにほれたという説もあります。いずれにしても日本好きになってしまいました。保有しているヨットにも日本語名をつけています。世界でも指折りの苛酷なヨットレースにシドニー・ホバート・ヨットレースがありますが、1998年に優勝したヨットの名前がサヨナラ号。艇長はラリー・エリソンです。

 ヨットだけでなく自宅も日本家屋。これがハンパな規模ではなく、敷地面積は東京ドームの二倍、土地代に二億ドルかかりました。場所はカリフォルニア州ウッドサイドにあり、中は桂離宮を模した寝殿造り。広大な池に面した屋敷はまさに平安貴族の館です。

京都の別荘もハンパじゃない

 京都の南禅寺に何有荘(かいうそう)があります。東山を借景にし、琵琶湖疏水から取り入れた水が滝や池となり、約六千坪の池泉回遊式庭園になっています。庭園内には西園寺公望が「瑞龍」と命名した滝があり、山上の草堂からは京都市街を一望できます。庭園には洋館、書院、茶室などが建ち並んでいます。

 もともとは南禅寺の塔頭があったところですが、明治時代に染色事業家が入手し「和楽庵」を作り山県有朋や西園寺公望らが訪れる文化サロンになっていきます。昭和になって宝酒造の会長が譲り受けて、「何か有るようで何も無い」という禅の言葉から「何有荘」と改名。この何有荘が2010年にクリスティーズの仲介により売りに出されました。購入したのがラリー・エリソン。かなり日本にはまっています。

ツイッターで退職届

 ジャバ(Java)やサーバで一世を風靡したサン・マイクロシステムズが、2010年にラリー・エリソンのオラクルに買収され子会社となりました。サン・マイクロシステムズCEOだったジョナサン・シュワルツは退職することになりましたがツイッターを使い俳句形式で退職を発表。どうも日本好きラリー・エリソンに対する皮肉のようです。

Financial crisis 金融危機
Stalled too many customers お客さんの多くが去り
CEO no more CEO退任

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/