バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話
第2章 インターネット・パソコンの黎明期(2)
2017年4月20日 06:00
2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!
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クリア・エーテル! 清澄な宇宙空間を祈念しましょう! 1973年
SF小説の主人公であるレンズマン達の合言葉が「クリア・エーテル!」。皆さんの家庭や職場でパソコンやスマホをインターネット接続していますが、その時に使われているのがLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)というネットワーク。このLANはエーテルでできているのです!
銀河を守るレンズマン
銀河系を荒らす正体不明の宇宙海賊ボスコーン。立ち向かうのが、銀河文明を守るパトロール隊とその精鋭であるレンズマン達。アメリカのSF作家であるE・E・スミスが書いた壮大なスペース・オペラです。日本では創元推理文庫からレンズマンシリーズとして出版され、表紙の絵は真鍋博氏(ショートショートの神様・星新一の扉絵でおなじみのイラストレーター)が書いていました。
レンズマンの主人公はキムボール・キニスンで地球人です。銀河文明に敵対する宇宙海賊ボスコーン(ボスコニア文明)との波乱万丈の物語が描かれていますが、単純な戦いの話ではなく、主人公が精神的に成長していく内容になっていました。
レンズマンは不思議なレンズを持ち、このレンズの持主は法と正義の執行者として宇宙中から絶大な信頼を得ます。特に独立レンズマンは特別な存在で、制服の色からグレー・レンズマンと呼ばれます。グレー・レンズマンは無制限に行使できる権利と無制限に使用できる予算をもちます。つまり何でもできるということです。日本ではアニメ映画「SF新世紀レンズマン」が作られ、主題曲「スターシップ 光を求めて」をアルフィーが歌っていました。映画の後はテレビアニメにもなっています。
レンズマン達の合言葉、「クリア・エーテル!」
主人公キムボール・キニスンが乗っていたのがブリタニア号。ブリタニア号が進む宇宙空間はエーテルで満たされています。エーテルとは電磁波や重力波、思考波などの媒質となっている物質のことで、十九世紀までの物理学では、光を伝播するために宇宙空間はエーテルで充満していると考えられていました。
このエーテルが小説で重要な役目を果たします。銀河パトロール隊員がお互いに交わす別れの言葉が「クリア・エーテル(清澄な宇宙空間を祈念する)」。スターウォーズで共和国軍兵士がかけあう「フォースとともにあらんことを」は、このレンズマンの言葉がヒントになったのかもしれません。
さて、このエーテルですが、アインシュタインの相対性理論によって存在が否定されてしまいました。
エーテルは今も生きている
アインシュタインによって存在が否定されたエーテルですが、実は今も生きています。家庭や職場ではパソコンやスマホがLAN(ローカルエリアネットワーク)に接続されています。このLANの物理的な規格をイーサネット(世界中のオフィスや家庭で一般的に使用されている規格の名前)と呼んでいます。
アラン・ケイが作ったアルトでもおなじみのゼロックスのパロアルト研究所がイーサネット(Ethernet)を開発しました。イーサネットでは、どのコンピュータも通信回線を使用する対等の権利をもつ形で設計されています。
このイーサネットが世界標準となり、全世界で使われていますが、イーサネットという言葉はイーサ:エーテルの英語読み(Ether)とネットワーク(Network)を合体して作られました。我々がインターネットを使えるのは、エーテルがあるからです。
クリア・エーテル! 清澄な宇宙空間を祈念しましょう。
ライバル会社だった富士通、日立製作所が共同で作った会社があった 1974年
ライバル会社の富士通、日立製作所が共同で作ったファコム・ハイタック株式会社の設立には通産官僚がからんでいました。『官僚たちの夏』という通産官僚を描いた城山三郎の小説があります。たびたびテレビドラマ化されましたが、通産官僚が必死になって自動車産業などを育成した物語で右肩あがりのよき時代でした。コンピュータ産業もまた描かれており、通産官僚が育成した産業の一つでした。
コンピュータといえば汎用コンピュータの時代。世界のコンピュータ業界を席巻していたのが巨人アイビーエムです。当時、通産官僚だった平松守彦氏がアイビーエムに対抗し、日本企業が生き残るために施策を考えます。そして作ったのが三大コンピュータ・グループです。
ライバル会社をくっつけて三グループに
コンピュータ業界の六社を「アイビーエム互換機路線の富士通・日立製作所」、「ハネウェル、GEと提携している日本電気・東芝」、「独自アーキテクチャの三菱電機・沖電気」の三グループに分けました。ライバル会社を国がくっつけるという破天荒な奇策でした。パートナーを組んだ二社に対して国が補助金を出し共同開発を促します。こうしてできたのが富士通+日立製作所のMシリーズ、日本電気+東芝のACOSシリーズ、三菱電機+沖電気のCOSMOシリーズという汎用コンピュータです。
この通産省の戦略はうまくいき、アメリカ以外で汎用コンピュータ・メーカーが生き残ったのは日本だけでした。ただ思惑の違いもあり富士通、日立製作所はアイビーエム互換機を作ることには合意しましたが、一方が開発した製品をもう一方が販売することは考えていませんでした。
通産省は補助金を出したので口も出します。いわゆる行政指導で、富士通、日立製作所が販売面でも協力するように共同で作ったのがファコム・ハイタック株式会社。他にも日電東芝情報システム株式会社が作られました。
アイビーエム産業スパイ事件でビジネスパーソンに衝撃
日本は通産省の強烈なバックアップがあったおかげで、アイビーエムのシェアが相対的に小さく、アイビーエムにとっては頭が痛い問題でした。
富士通と日立製作所はアイビーエム互換路線を採用しましたので、アイビーエムが新製品を出せば追随しなければなりません。ハードウェアは性能強化できても、アイビーエムが新しいソフト機能を追加したら互換性を保たなければなりません。アイビーエムの動向に常に注力しなければなりませんが、その時に発生したのがアイビーエム産業スパイ事件(1982年)。日立製作所や三菱電機の社員などが、米アイビーエムの機密情報に対する産業スパイ行為をしたとして逮捕された事件です。
互換機を作りにくくするためにアイビーエムがOSに手を加えたため、なんとかその情報を得ようとFBIのおとり捜査に引っかかってしまいました。手錠をかけられた技術者の写真が新聞のトップに掲載され、連日、報道されました。当時の会社員にとっては、ひとごとではなく、会社のために働いた技術者がこうなるのかと大きな衝撃を与えました。
しかし、1981年にアイビーエム自身が出したIBM PC(パソコン)をきっかけにダウンサイジングがすすみ、汎用機ビジネスそのものが崩壊していきます。
通産省が音頭をとったファコム・ハイタック株式会社ですが寄合所帯の会社だったようで、採用も富士通、日立製作所それぞれでおこなっていました。ファコム・ハイタック株式会社は1992年になくなり、社員はそれぞれの会社へ戻りました。
ライバル会社をくっつけた通産省の平松守彦氏は後に官僚を辞め、大分県知事になった時に「一村一品運動」を提唱。地域起こしのツールとして一村一品運動は全国、海外に広がっています。
平松守彦氏は2016年8月に亡くなりますが、同じ時期に通産省時代から続いた情報処理振興課(情振課)が再編により消滅することが決まります。
一つの時代が終わりました。
経営の苦しさがきっかけで世界初のマイコンが誕生する 1975年
パソコンといえばディスプレイ、キーボード、本体がセットになっていますが、1970年代初めは、キット売りがあたりまえでした。自分でハンダづけし、完成させなければ動きません。プログラムは紙テープに入っていて、紙テープがちぎれないようにゆっくりと本体の記憶装置に入れていきます。コンピュータを動かすまでにやることがたくさんありました。
ニューメキシコ州アルバカーキのガレージからスタートした会社にMITSがあります。科学教材キットやマイクロプロセッサを売っていましたが、経営がかなり苦しい状態にありました。そこで社長が部下に“君だったら、どんな商品が欲しいか”と聞いたところ、“マイクロプロセッサだけでなく、メモリやキーボードもセットになっていて、ついでに格納できる箱がついていればいいですね”と答えが返ってきました。
じゃあ、それを作ろうと企画して出したのが、世界初の個人向けコンピュータ、アルテア8800です。インテルが作ったマイクロプロセッサにメモリや筐体などをつけ、三百九十七ドルで売り出しました。当時、コンピュータは安いものでも数百万円する時代です。個人でも手に入る値段の組立キットとして発売されたため多くのマニアが飛びつき、売れに売れました。
マイクロソフト誕生
雑誌『ポピュラー・エレクトロニクス』に新しいマイクロコンピュータであるアルテア8800の紹介記事が掲載されます。『パソコン創世記』によれば、雑誌の記事を読んだビル・ゲイツは、アルテア8800を作っているMITSに電話し、アルテア8800でベーシック(ホビー用プログラム言語)が動くデモをしたいと提案しました。手元にベーシックプログラムもアルテア8800もない状態での申し出で、つまりハッタリです。
当時、MITSにはこの手の売り込みが多く、“動くものがあるのならもってこい”という返事がかえってきました。返事があったのはよいのですが、アルテア8800はビル・ゲイツが通うハーバード大学にもありませんでした。そこでハーバード大学にあったコンピュータをアルテア8800のように動くようにシミュレーション・プログラムを作り、知り合いのポール・アレン(アメリカ人。ビル・ゲイツとともにマイクロソフトを創業)とともにベーシックを作りあげます。
ベーシックのデモに成功し飛躍の第一歩に
1975年、ポール・アレンはMITSでデモンストレーションをおこなうためベーシックを収めた紙テープを持ってアルバカーキに飛びます。ベーシックを実際のアルテア8800で動かすのは初めてでしたが、一発で動きました。MITSにいろんな売り込みはありましたが、動いたプログラムを持ってきたところは初めてだったのでMITS側もビックリ。
質の良さを見た社長から“仕上げてくれ”と言われ、ポール・アレンはアルテア8800で完全に動くベーシックを作り上げます。社長は高額で買い取ってくれ、この資金がマイクロソフトの創業資金になります。マイクロソフトはMITSとの取引のためMITSの本社があったアルバカーキで創業します。MITSでは正式にアルテア・ベーシックとして売り出すことを決定。このアルテア・ベーシックが、世界で最初に開発されたマイクロコンピュータ用言語となります。
アルテア8800でベーシックが動かせるようになったため、ベーシックを使ってさまざまなソフトを開発することができるようになります。ソフトが充実することで、ますますアルテア8800を買う人が増え、MITSは経営危機を脱却します。ここから現在のパソコンにつながるマイコン文化が始まりました。
マイクロソフトのウェブサイトに歴史を伝えるページがあり、最初の製品として『ポピュラーエレクトロニクス』誌の表紙に掲載されたアルテア8800が載っています。もちろんアルテア8800に入っているベーシックが最初のマイクロソフトの製品です。MITSの事業が順調に軌道にのり、ビル・ゲイツは大学を中退し、経営に本腰をいれます。
ここからマイクロソフトの躍進が始まります。
世界初のパソコン「アルテア」は、スター・トレックに登場する惑星名 1975年
スター・トレックといえばカーク船長、バルカン人のスポック、ドクター・マッコイなど個性的な登場人物が人気を集めました。
日本では「宇宙大作戦」という名前で放映され、「宇宙、それは人類に残された最後の開拓地である」というナレーションで始まります。
日本での吹き替え版では主任ナビゲーターの名前が「ミスター・カトー」。宇宙船に日本人が乗っていると子供心に思ったものですが、原作では「ヒカル・スル」という名前で、日本人とフィリピン人のハーフという設定でした。
『パソコン創世記』によれば、アルテアという名前はMITSの社長が友達の家に新製品の名前を相談に行って決まりました。たまたま友達の娘がSFドラマ「スター・トレック」を見ており、そこに出てきた惑星の名前から名づけられました。「バルカン星人の秘密」という番組で、初めてバルカン星が登場した放映回でした。
沈着冷静なスポックがわけのわからないことを言いだし、診察したドクター・マッコイからバルカン星へ連れていかないとスポックが死んでしまうと報告が入ります。カーク船長は新しい大統領が就任する惑星アルター六号へ向かっていたのを、バルカン星へ進路変更します。
カーク船長が向かっていたアルター六号は日本語吹替版の惑星名で、原作では惑星アルテア(Altair)六でした。ここから“アルテア”と名づけられます。
マイクロソフト創業は、ビル・ゲイツ二十歳の時 1975年
アメリカのアルバカーキという都市に七つほどのユニットが長屋のように連なっている「Cal-Linn」という建物があります。1975年4月4日、ビル・ゲイツがポール・アレンとマイクロソフトを設立した場所、つまりマイクロソフト創業地。ビル・ゲイツは、まだ二十歳でした。
アルバカーキにマイクロソフトを創業
MITSへベーシックの売り込みに成功したビル・ゲイツは大学を辞め、ポール・アレンも勤めていた会社を辞めてニューメキシコ州アルバカーキに移ります。MITSがアルバカーキにあったことからマイクロソフトもアルバカーキに設立します。
マイクロコンピュータ+ソフトウェアということでマイクロソフトと名づけられました。マイクロソフトは最初マイクロとソフトの間に「-」が入っていました。
設立した時に入居したのがCal-Linnと呼ばれる長屋のような建物。
以前、アメリカの不動産広告を見ると長屋のユニットの一つが七万二千ドルで売り出され、広告にはマイクロソフトが創業したところと説明が入っていました。
ここからマイクロソフトは世界企業に育ちましたので、確かに縁起がよい不動産物件です。マイクロソフトはMITS以外にもベーシックを開発、提供し飛躍していきます。
日本の若者からベーシックを売りたいと電話がある
1978年、二十三歳のビル・ゲイツに電話がかかってきました。「マイクロソフトのベーシックを日本で売りたい」。電話してきたのはアスキー創業者である西和彦という人物。ビル・ゲイツより一つ年下なので、当時二十二歳でした。
日本ではソード電算機システム、リコーなどが独自の個人用コンピュータを発表し始め、マイコン黎明期を迎えていました。電話の後、アメリカのコンピュータ見本市で会うことになった二人は同世代ということもあり、すっかり意気投合。ビル・ゲイツは日本市場がどれほどの可能性を持っているのかわかりませんでしたが、日本は西和彦氏にまかせることにしました。見本市の二日後、西氏がアルバカーキを訪れ、アスキーが日本の窓口になることで合意。1978年、マイクロソフトの極東代理店としてアスキーマイクロソフトが設立されます。ビル・ゲイツと西氏はタッグを組み、やがて西氏はマイクロソフトの副社長となり、1986年までマイクロソフトの副社長を務めることになります。アイビーエムへのOS供給などパソコン黎明期にマイクロソフトの地盤を作っていきます。