バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話
第3章 ベーシックパソコンからMS-DOSパソコンへ(1)
2017年5月1日 06:00
2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!
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1979年 | NECがPC-8001を発売、 |
世界初の表計算ソフト ビジカルクが発売される | |
1981年 | MS-DOS、IBM PCの登場 |
1982年 | アイビーエム産業スパイ事件、PC-9801発売 |
1983年 | アップル リサを発売 |
ロータス1-2-3発売 | |
1984年 | マッキントッシュ登場、マック版エクセル発売、 |
JUNETスタート | |
1985年 | ウィンドウズ1・0がアメリカで発売、一太郎登場、 |
ジョブズがアップルを追い出される、 | |
通信の自由化で電電公社がNTTに | |
1987年 | パソコン通信ニフティサーブ開始 |
1988年 | ISDNサービス「INSネット64」スタート |
1980年代、マイクロソフトベーシックを搭載した国産初のPC-8001が発売され、日本のパソコン時代が幕をあけます。パソコンを起動するとベーシックプログラムをすぐ入力することができました。ベーシックには円を書く命令があり、CIRCLE(100、100)、50、6と入力すれば、座標(100、100)から半径50で黄色の線が画面に出ました。雑誌にいろいろなベーシックプログラムが載っていたので、キーボードから入力して楽しむ時代です。
ベーシックマシンの時代が続きましたが、日本でもようやく1983年頃からMS-DOSを載せたパソコンが主流になっていきます。MS-DOSのDOSはディスクオペレーティングシステムの意味でディスクがないと動きません。とにかくディスクの値段が高く、フロッピーディスクドライブ付きのパソコンが三十万円ぐらいして、おいそれと手がでませんでした。
PC-9801登場の頃からホビーユースだったパソコンがビジネスユースに広がりはじめます。市場のパイが広がるため、いろいろなパソコンメーカーやソフトメーカーが参入することで“ネットワークの経済性”が発展します。ネットワークの経済性とはネットワークの価値が増大することにより、ネットワークを使う利用者が増え、利用者が増えることにより、またネットワークの価値が増大するスパイラル(螺旋)になるということです。
一方、アップルからはマッキントッシュが発売されます。PC-8001などのベーシックマシンはソフトによって操作方法が異なるため覚えるのが大変でしたが、マッキントッシュはどのソフトも同じような動きで初心者に扱いやすいパソコンでした。MS-DOSの暗号のようなコマンドを覚えなくてもマウス操作できる画期的なパソコンでした。
アップルは他社とのパートナーシップを重視していたためマイクロソフトからはマッキントッシュ用エクセルが発売され、ページメーカー(DTPソフト)などが発売されます。ネットワークに接続できるレーザ・プリンタが同時に発売され、DTP部門での導入がすすみます。印刷やデザイン業界ではマッキントッシュを使うのが当たり前という時代になります。
ネットワークでは日本のインターネットの元祖であるJUNETが1984年にスタート。そしてニフティサーブなどのパソコン通信がはじまり、多くの人が日本中の見ず知らずの人と年代を超えて情報交換するという、摩訶不思議な世界がスタートします。それまで見ず知らずの人との交流は、雑誌のペンパル(ペンフレンド)募集というコーナーで文通相手を見つけるしかありませんでした。筆マメでないとダメですし、字をきれいに書けない人にはハードルが高い世界です。それがキーボードを通じて、日本中のいろいろな人たちと電子会議室などを通じて交流、議論でき、一気に世界が広がることになります。
パソコン通信ではオンラインだけでなくリアルでも会おうとオフ会が開催されます。ふだん文字だけでしかやり取りしていませんので、相手の年齢も顔もわかりません。場所と時間だけを決めて集合します。初めて顔をあわせますが、ふだんからやり取りしていますので、すぐに打ち解けます。なかには発言内容からずっと女性だと思っていたら、実は男性でショックを受けることもあります。今ではオフ会といえば皆さん、どういうものかわかりますが、当時、パソコン通信をしていた人はまだまだ少数派。お店で老若男女が集まって、変なハンドル名で呼び合うので、“この人たちは一体、何者”とお店のスタッフからは異様な目で見られていました。
1980年代後半はバブル景気の時代、ディスコのお立ち台ではワンレン・ボディコンのお姉さんがウチワを広げて踊り、流しのタクシーを捕まえるには1万円をヒラヒラさせないと止まってくれない時代でした。この時代にパソコンだけでなくネットワークがいろいろな会社に導入されていきます。
世界最初の表計算ソフトを作ったのは学生だった 1979年
「ベルばら」の舞台となったヴェルサイユ宮殿を建てたルイ十四世の時代に帳簿作成が義務化されます。不況で企業倒産が続発し、みかねたルイ十四世は大蔵大臣に倒産防止のための政策立案を命じます。できあがったのが商事王令です。倒産企業の特徴を調べると帳簿の作成がいいかげんな経営者ほど経営がうまくいっていませんでした。そこで、すべての商人に決算書作成を義務づけます。「破産時に決算書を裁判所に提示できなかった者はギロチン刑に処す」というペナルティーを用意、つまり帳簿をつけずに倒産したら死刑ということです。この商事王令は日本の商法のもとになります。
ビジネススクールで生まれた表計算ソフト
世界最初の表計算ソフト「ビジカルク」が発売されたのが1979年。ビジカルクは当時ハーバード大学のビジネススクールで学んでいたダン・ブルックリンによって開発されました。つまり世界最初の表計算ソフトを作ったのは学生でした。
学生といってもビジネススクールですので、多くは企業からの派遣や自ら企業を経営しているような人物が中心です。ダン・ブルックリンは企業で働いた後、ビジネススクールに入学。当時、二十六歳の若者でした。
ビジネススクールでは、さまざまな企業のデータを使ったケース演習がおこなわれます。ケース演習では企業の将来の売上や費用をさまざまなシナリオで分析しなければなりません。計算には電卓が使われました。売上が十%減った、外部条件が変わったなど、いくつものシナリオを検討しなければならず宿題をこなすのに膨大な時間がかかります。また教室でも、教授が黒板に書いた売上や費用の前提条件の数値を変えるたび黒板の数字を消して書き直していました。
『新・電子立国 世界を変えた実用ソフト』(日本放送出版協会)によれば、ある日、ダン・ブルックリンは“条件を変えた時に自動的に計算して表示するような黒板は作れないか”というアイデアを思いつきます。そこで友人と、電子黒板(スプレッドシート)を実現することにし、ブルックリンが画面デザインや機能など仕様を考え、友人がそのアイデアを実現するためにプログラムを作ります。
ビジカルクの誕生でパソコンがビジネスユーザーへ広がる
このアイデアを元に作られたソフトがビジカルクです。Calc(計算)をVisi(見る)ことができました。ビジカルクはアップルⅡで動き、ソフトの価格は九十九ドルです。発売当時、ビジカルクはあまり売れませんでしたが、ビジネスパーソンがこのソフトの可能性に気づき、それまでホビーユーザ中心だったパソコンの世界にビジネスユーザが増えることになります。
アメリカのビジネスパーソンには日本の年末調整のような制度はありません。自ら電卓をたたいて計算し、申告をします。そこへ登場したのがビジカルクです。面倒な電卓計算から解放されるとビジネスパーソンが飛びつき、皆、ビジカルクを使いたいためにアップルⅡを買い求め、アップルが発展することになります。
マニアが監修したPC-8001発売 1979年
NECでマイコンを販売していましたが、お客さんにはマイコンとは、そもそも何ぞやから説明しなければならず、そこで教育用キットの販売を思いつき、発売されたのがTK-80。営業ツールとして販売したつもりが、飛びついたのはマニアでした。
日本のマイコンブームはTK-80から
1976年に日本電気からTK-80というトレーニングキットが発売されます。基盤(ボード)がむき出しのワンボードマイコンです。組み込み用技術者を養成するのに作られましたがコンピュータマニアに受け爆発的に売れました。発売当時の価格は八万八千五百円。大卒の初任給が九万四千三百円でしたので、ほぼ給与一カ月分です。
TK-80のキーボードは0~9までの数字とA~Fのアルファベットの十六個のボタンしかありません。つまり入力は十六進数(0~9、A~Fで表現され十六で桁上がりする)でおこないました。当時のマイコン雑誌には「もぐらたたき」などのプログラムが十六進数で掲載されていました。これを入力します。
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こんな数字と文字の羅列が雑誌に何ページも続いていました。根気よく入力し、入れ終わって動いた時は感激したものです。TK-80は家庭用テレビにつなぐことができましたのでテレビがモニター代わりです。TK-80の大成功を見て、各社から同様のワンボードマイコンが発売されることになります。
やがて秋葉原にビットイン(Bit-INN)という日本電気のショールームができ、マニアの情報交換場所となります。現在、ビットインの跡地には、「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレートが飾られています。
パソコンの登場
TK-80誕生の二年後、日本で初めて「パーソナルコンピュータ」と名乗り日立製作所からベーシックマスターが発売されます。ベーシックマスターは一般家庭用テレビをモニターとすることで価格をおさえました。テレビではなく専用のCRTをつけて発売されたのが日本電気のPC-8001です。PCはパーソナルコンピュータという意味で、これからはマイコンではなくパソコンの時代だと感じさせました。
『パソコン驚異の10年史』によれば、当初企画では発売されたPC-8001と全然違った形をしていました。マイコン全盛の時代で、日本電気の開発陣はどうしてもマイコンを発展させた形で考えていました。そこでPC-8001の試作機を作り、マニアを集めて見てもらうことにしました。
日本電気のお歴々の前に長髪でジーンズ姿のマニアが集まり、「ここはこうした方がよい」、「これは止めて、こうしたら」と色々な意見が出ました。たとえばキーボードのテンキーがおかれている場所には試作機では十六進数のキーボードが置かれていました。(0~9 A~Fのキーが並びます。)マニアからは仕事で使うなら計算はテンキーの方がよいと意見が出て、テンキーに変更されます。また試作機はかなりどぎつい配色で本体やキーボードはクリーム色、文字が赤色でした。これをオフィスになじむように渋めの茶系の配色にしました。
マニアの意見を採用して改良発売され、これが大ヒットします。価格は十六万八千円で外国製パソコンに比べてかなり安く、1983年に生産終了するまで二十五万台を売りつくしました。PC-8001が発売されたのが1979年9月で、9月28日が「パソコンの日」となっています。
嘘八百という名前のパソコンがあった 1980年
スマホの影響で影が薄くなったパソコンですが、パソコンが登場した頃は、各メーカーが参戦。戦国時代さながらの群雄割拠状態でした。各メーカーは自社がナンバーワンになるんだと新規開発にいそしみます。そんななか日本のパソコン市場をリードしたのが日本電気のPC-98シリーズで、一時代を築きます。
1980年、パソコン群雄割拠時代に登場したのが沖電気から発売されたIF-800です。当時のパソコン売場といえば現在のパソコンショップにある自作コーナーと同様で自分で基盤、記憶装置、CRT等を別々に買い、組み立てるのが当たり前の時代でした。もちろんノートパソコンなるものは影も形もありません。
沖電気から発売されたIF-800の顧客ターゲットはホビーユーザでなくビジネスユーザです。ビジネス向けなのでユーザに組み立てさせ、装置を揃えさせるようなことをさせるわけにはいきません。そこでIF-800はすべてが揃ったオールインワンタイプとして発売されました。
フロッピー、CRTディスプレイ、キーボード、プリンタなどが一体となっており、ビジネスで使えるようになっていました。
IF-800プロジェクトの陣頭指揮をとったのが西和彦
「知的生産の技術研究会」での西和彦氏の講演「僕が二十一世紀に目差すもの」(2000/3/17)によると、当時、西氏は日本の各メーカーのパソコン作りに協力しており、沖電気のIF-800プロジェクトにも協力していました。“IF-800は当時のパソコンで一番記憶に残っている機械”と語っています。
西氏はアスキー創業者でありマイクロソフト副社長としてパソコン業界を引っ張ってきた人物です。ソフト作成から流通に至るまで事業を展開していたのがアスキーです。
沖電気とアスキーとの開発会議で、製品コンセプトをどうしようかと考えた時になかなかアイデアがまとまらなかったことから、西氏があれこれ考えずに、今あるオプションをみんなパソコンにつけましょうと提案します。プリンタもフロッピーもキーボードもつけたデラックスなパソコンにしようという内容です。
斬新な案に沖電気は話にのってきましたが、アスキー社内では、「そんなものできるわけがない。嘘八百もいいかげんにしろ!」と大反対。西氏が強引に押し切り「USO-800」プロジェクトと名づけ開発がスタートします。
USO-800から、IF-800へ
開発メンバーのがんばりもあり、プロジェクトが進むと、だんだんできそうな気になってきます。そこで、「USO-800」から、「もしかしたら」ということで「IF-800」に名前をかえます。
発売後、沖電気の上層部から、「西さん、あのIF-800のIFにはどういう意味があるのですか?」と聞かれた時に、「これからはインターフェースが大事ですから、なににでもつながるインターフェースの略でIFです。」と答えて切り抜けたそうです。
最先端のIF-800は注目を集めました。ただ日本電気からPC-98シリーズが登場すると、IF-800は価格が高いのと、オールインワン型で周辺機器メーカーが安い周辺機器を出せなかったことから、だんだんとフェードアウトしていきました。
マイクロソフトの躍進はチェスから始まった 1981年
マイクロソフトのOSである“MS-DOS”は初心者向けではありませんでした。ファイルをコピーしようと思ったら、どのフロッピーに入っているファイルをどこに移すのか全てコマンドで指示する必要がありました。ファイル名を一字でも間違うと「ファイルが見つかりません」と怒られてしまいます。それでもコマンドでコンピュータを動かせるのは画期的でした。
1980年、「チェス」から依頼がある
1980年、チェスというプロジェクトから、創業五年目のマイクロソフトに話が舞い込んできます。ビル・ゲイツが二十五歳の時です。依頼してきたのはアイビーエムが作ったチェスというプロジェクト。
汎用コンピュータでは巨人だったアイビーエムですが、パソコン分野には完全に出遅れ。当時はアップルⅡとCP/Mマシンがホーム・コンピュータ市場を独占していました。アイビーエムにホーム・コンピュータ市場へ攻め込むためのプロジェクトが作られ、チェスと命名されます。スピード重視だったため、一から作る自社開発をやめ、いろいろな企業に依頼し、パーツを集めてマシンを作ることを決定します。OSも外部調達することになりました。
『新・電子立国 ソフトウェア帝国の誕生』によれば当時パソコンOSで有名だったのがCP/Mです。そこでアイビーエムはCP/M開発者を訪ねますが、あいにく不在で、後で連絡をとっても開発者はCP/Mで既に成功していることもあり、アイビーエムのオファーにあまり乗り気ではありませんでした。
当時、ビル・ゲイツの母親がアイビーエムのCEOと知り合いだったこともあり、ビル・ゲイツにOSを開発してくれないかと頼みました。ただしアイビーエムの納期はとても短く、ビル・ゲイツは悩みます。この時に経営陣として加わっていた西氏が「これはビッグチャンスだ。絶対にやるべきだ」と進言し、ビル・ゲイツは遂に決断をします。
MS-DOSは自社製品ではなかった
一からOSを作っていたのではとてもアイビーエムの納期には間にあいません。そこでシアトル・コンピュータ・プロダクツが開発した、Q-DOS(クイックでダーティなOS)を権利ごと買い取って、これをMS-DOSへと作りかえました。つまりMS-DOSは自社製品でなく、もともとはシアトル・コンピュータ・プロダクツのQ-DOSだったのです。
MS-DOSがマイクロソフトの基礎を作った
マイクロソフトはMS-DOS(マイクロソフト ディスク・オペレーティング・システム)を開発してアイビーエムに提供。アイビーエムからIBM PCに搭載して1981年から出荷をはじめます。IBM PCにはマウスはなく、「C:」と出ている文字の後に、さまざまな暗号めいたコマンドをキーボードから入力しないと、なにもできませんでした。
MS-DOSのコマンドは今も使うことができ、ウィンドウズの「アクセサリ」から「コマンド プロンプト」を選ぶと、懐かしいMS-DOS時代の画面がでてきます。
IBM PCはよく売れ、チェスのように白黒がついたのですが、誤算が一つありました。チェス・プロジェクトでは、他社が周辺機器や互換ソフトを作れるように、それまでのアイビーエムお得意のクローズ文化ではなくオープン化することにしました。おかげでIBM PC互換機が市場にあふれることになってしまいます。
結果、互換機メーカーにMS-DOSを提供していたマイクロソフトとマイクロプロセッサを提供していたインテルだけが儲かりました。アイビーエムにとっては軒先を貸して母屋を取られた状態になります。
ビル・ゲイツはハンバーガーがお好き 1981年
ビル・ゲイツといえばマイクロソフト創業者で世界一のお金持ちとしても有名です。米経済誌『フォーブス2016年版』の発表によれば、ビル・ゲイツの推定資産は七百五十億ドル(八兆五千億円)。三年連続トップです。そのゲイツ、大好物なのがハンバーガーなのです。
年収は意外と少ないビル・ゲイツ
ビル・ゲイツがお金持ちといっても資産として持っているのはマイクロソフトの株であり、簡単に売るわけにはいきません。若い時からビル・ゲイツはお金に困らない生活をしていますが、食生活はいたって質素です。セーターをクリーニングに出した時に同じ柄のセーターを何着も受け取るところが目撃されたことがあり、それまでは同じ服をずっと着ていると皆に思われていました。
世界一のお金持ちの好物はハンバーガー
アイビーエムと提携し、若くしてパソコン業界に君臨するビル・ゲイツ。1980年代、既にマイクロソフトの従業員が三百人ほどに増えている頃、本社の隣にバーガーマスターというハンバーガー屋さんがありました。ドライブスルー形式ですが、一風変わったシステムでした。駐車場に車をとめて、柱にあるメニューをチェック。注文が決まり車のライトをつけると店員が注文を聞きに来るシステムです。持ち帰ってもよし、車で食べてもよし、テイクアウト専門です。お昼になると毎日、このバーガーマスターへマイクロソフトの秘書がハンバーガーを買いに来ていました。これがビル・ゲイツの昼食です。
来日しても分刻みのスケジュールをこなすビル・ゲイツ。移動中も食事はハンバーガーが定番です。ただ同じはさむ食べ物ですが冷たいサンドイッチは苦手なようです。1992年、PCウィンドウズ・ワールド・エキスポ東京が幕張であった時、ビル・ゲイツのために事務局は特上のお弁当を用意しておいたのですが、会場に来る途中でマクドナルドを見つけていたビル・ゲイツはお弁当には見向きもせずハンバーガーが食べたいと要求。あわててマイクロソフトのスタッフが買いに行きました。
1993年、日本での発売が始まったウィンドウズ3・1。新高輪プリンスで発表会がおこなわれましたが、ホテルがお昼に用意したのがビル・ゲイツの苦手な冷たいサンドイッチ。あわててスタッフがマクドナルドまでチーズバーガーを買いに行き、ことなきをえました。
その後、幕張でおこなわれたイベントでは基調講演のリハーサルを終えたビル・ゲイツが控え室にいません。“ビル・ゲイツがいない”とスタッフが大騒ぎしていると、駅近くのマクドナルドへ自分でハンバーガーを買いに行ったビル・ゲイツがひょっこり帰ってきました。前回、幕張に来た時に店をチェックしていたのですね。それにしてもマクドナルドの列にビル・ゲイツが並んでいたら皆、驚いたでしょう。アメリカの空港待合室でもよくハンバーガーを買っているところが目撃されています。
スピーチでもハンバーガー
アメリカの高校でビル・ゲイツがおこなったスピーチ「学校では教えてくれない人生に役立つ十一のルール」がネットで話題になりました。実際はビル・ゲイツが考えた言葉ではなく本からの引用なのですが、なかなか含蓄に富んでいます。
「先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。」
「人生は公平ではない。それに慣れよ。」
ビル・ゲイツらしく「オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。」というのもあります。
このスピーチの中にまでハンバーガーが登場します。
「ハンバーガーを引っくり返すということは沽券(こけん)にかかわることではない。君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。それはチャンスと呼ばれた。」
数々のチャンスをモノにしてきたビル・ゲイツならではの言葉です。