大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

日本マイクロソフト・樋口会長ラストインタビュー

~過去10年の日本マイクロソフトと、これからのパナソニックを語る

樋口泰行会長

 日本マイクロソフトの樋口泰行会長が、本日(2017年3月31日)付けで同社を退社し、4月1日付けで、パナソニックの専務役員に就任。パナソニックの社内カンパニーであるコネクテッドソリューションズ社の社長に就任する。さらに、6月29日付けで代表権を持つ取締役に就任する予定だ。

 ダイエーの代表取締役社長を辞任後、2007年3月に、日本マイクロソフトに入社し、2008年4月には、日本マイクロソフトの代表執行役社長兼米マイクロソフトのコーポレートバイスプレジデントに就任。それ以来、7年3カ月に渡って、日本マイクロソフトの経営を担い、2015年7月に社長の座を平野拓也氏に譲ったあとも、代表執行役会長として平野社長体制をサポートしてきた。

 樋口氏が退任を前に、日本マイクロソフトの会長として、最後のインタビューに応じてくれた。「経営のプロ」と呼ばれる樋口氏に、これまでの日本マイクロソフトの経営について、そして、これからのパナソニックにおける経営について語ってもらった。

--日本マイクロソフトでの10年間を振り返って、印象深いプロダクトはなんですか。

樋口 私が社長に就任した当時は業績が芳しくなく、組織改革や人材補強などを進めてきたのですが、そのときのOSがWindows Vista。これを売るのは大変でしたから、とにかく、Windows 7が早く来てくれないかと願っていました。正直なところ、「Windows 7が来れば楽になる」と思っていました。実際Windows 7は安定したOSで、これによって、日本マイクロソフトのビジネスも成長に転じました。そうした意味でも、Windows 7は印象深い製品です。

 それと、Surfaceは、日本における発表会見のほとんどに出席しましたし、とても思い出深い製品です。かつての会社でも、ハードウェアを扱っていた経験がありましたし、マイクロソフトからもPCが登場することに私自身、とてもエキサイトしていました。しかも、格好いいデバイスでしたから。これは、かなり思いを入れた製品ですね。実は、Surface Studioが日本で発売されたら購入したいと思っているんですよ。パナソニックは、デスクトップはやっていないので、これならば大丈夫ですし(笑)。

Windows 7発表会での樋口氏
Surface RTを手にする樋口氏

--Windows Phoneは悔しいという思いですか。

樋口 そうですね。ただ、あれだけ遅れると確たる差別化がないと、巻き返しは難しいですね。とくに、ソフトウェアの品揃えといったエコシステムの構築において、大きな差がついてしまいましたから、これを巻き返すのは並大抵のことではありません。米マイクロソフトのCEOであるサティア・ナデラは、他社のモバイルデバイスの上に、マイクロソフト製品を載せていくことをビジネスの中軸に据える判断をしましたが、これは素晴らしい決断だと思っています。

 クラウドは長距離レースで、かなり差がついてしまうともう追いつけないという部分もありますが、デバイスは、新たな技術の登場で、エコシステムを丸ごとひっくり返すことができるといった場面が訪れるケースがあります。そうしたチャンスが生かせるかどうかが、これからのポイントではないでしょうか。

--日本マイクロソフトの10年間で、社内に対して、なにを残せたと考えていますか。

樋口 私は、「正しいことを、正しくやる」という、ごく当たり前のことができていないことに対しては、非常に正義感が働くタイプで(笑)、一言で言えば、それに取り組んできた10年間だったと言えます。この姿勢は、そのままダイエーにいても、あるいはパナソニックに行ってからも同じかもしれませんね。

 では、正しいこととは何か。それは、会社はなんのためにあるのかを追求するということです。会社の存在は、お客様のためであり、社員のためであり、株主のためであり、そして社会のためです。ただ、そこまでは「正しいこと」であり、多くの人が言っていることでもあります。しかし、大切なのはその先にある「正しくやる」ということ。「○○のために」という言葉のあとに、「最短距離で仕事をしているのか」ということを軸に考えなくてはなりません。

 たとえば、会議で議論していることが、本当にお客様のためになっているのか。それは最短距離で、お客様に対して価値を提供するものになっているのか。株主価値の最大化のために、売上げ増に最短距離で直結する議論なのか。そして、これは最短距離とはいっても長期戦にはなりますが、社員が幸せに仕事が出来る環境が整えることができるのかということも大切です。短期的に売上げ、利益を確保しても、これは継続性とは別の話です。社員が幸せにならない限り、継続的な成長が維持できません。私は、こうしたところに力を注いできました。

 かつての日本マイクロソフトにおいては、自分の組織を守ることが優先され、結果として、会社全体の利益にはつながっていない状況が生まれていたり、顧客のためにはなっていないことが生まれていたり、あるいは、知らず知らずにこうしたことが優先順位になっていました。これらの課題を、1つ1つを修正してきた10年間だったと言えます。

--日本マイクロソフト入りした当初から、顔が見えるマイクロソフトにすること、あるいは、成功体験しかしたことがない社員の体質を転換すること、そして、日本に根ざした企業であることを掲げました。これらの改革の成果は、どんなところから手応えを感じましたか。

樋口 それは、お客様の反応ですね。この10年で、日本マイクロソフトに対するイメージは大きく変わったと言われるようになりました。一般的に、日本マイクロソフトに限らず、外資系企業に対してアレルギーがあるといった声は少なからず聞かれます。そのアレルギーの源泉は何かと言うと、「どうもしっくりこない」、「親和性がない」、「溶け込んでいない」といった部分です。もっと具体的に言えば、「お客様のために」といったことを考えず、自分たちの都合ばかりを優先してしまうような活動が外資系企業にはありがちで、製品の話だけをして帰ってくるといったことも起きがちでした。

 もともとマイクロソフトはホリゾンタルな会社で、ラストワンマイルの歩み寄りが得意ではない会社ですから、この距離を埋めるには、パートナーとの連携が必要でした。日本マイクロソフトに入って最初に感じたのは、マイクロソフトの商品はいい。あとは、パートナーや顧客との親和性を高めれば、事業は拡大できるという点でした。そのためには、日本でのパートナーや顧客との距離感を縮めるための活動を推進する一方で、米本社ともパイプを太くして、日本が求める品質に対して積極的に発信し、品質問題もとことん解決できるような体制を作りました。

 あわせて、米本社に、顧客起点の考え方を浸透させるといったことにも取り組みました。そうした取り組みの成果が、日本におけるマイクロソフトに対するイメージを変えることにつながったと言えます。

--一方で、「基本動作を徹底する」といった表現も使っていましたね。

樋口 「こうやろう」、あるいは「こうやりたい」と言っても、頭では理解しているものの、行動につながらないということが多々あります。とくに、これまでにやったことがないことを、日々の動作のなかに落とし込むにはどうしたらいいのか、どう変えたらいいのかがわからないことは、よく起きることです。それを解決するためには、手取り足取りで教えてくれる人がいたり、お手本になるような人がいないといけません。

 私が日本マイクロソフトに入社してから、エンタープライズビジネスに大きく舵を切りました。このときに、エンタープライズビジネスに長けた人に入社してもらうことで、ビジネスのやり方を見せ、社員は、その人たちの背中を見ながら、2年、3年をかけて、自分のやり方に落とし込んでいくことができました。基本動作を徹底するには時間がかかりますが、継続的な成長のためには重要な取り組みの1つです。

--日本マイクロソフトの経営トップとして一番こだわってきた点はなんだったのでしょうか。

樋口 何か1つというものではありません。マイクロソフトには、経営の成果を推し量る仕組みとして、スコアカードというものがあります。実は、私自身、最初は、これを少し軽視していたのですが、米本社から、「スコアカードは戦略の縮図であり、地域責任者としての責務である」と言われ、それならば徹底的にやってやると。まさにスイッチオンという形で(笑)、真剣に取り組み始めました。

 しかし、スコアカードの手法は、四半期ごとの業績にフォーカスするものであり、中長期的に見て、会社が根本的に良くなったり、力がつき、強い体質になるものではありません。ですから、スコアカードを重視する一方で、ワンチームとしてのスピリットの醸成や、顧客指向の考え方の醸成を基本方針に置きました。日本マイクロソフトでは、私の経営スタイルとして、社員と一緒に喜んだり、悲しんだりし、ともに戦うスタイルを打ち出しました。そのやり方は、社員にも通じたのではないかという感触を得ています。

 新たに何かをやろうとしたり、戦略を大きく転換するときには、組織に実行力があるかどうかが重要です。かつてのダイエーでは、個々の組織がバラバラに動くことはできても、組織横断型の取り組みはまったくできないほど組織が痛んでいました。野菜の鮮度改革に取り組んだときにも、現場はどうやっていいかわからないし、組織同士も話ができない環境にありました。それを、ギュッと糊付けして走らせたわけですが、この1つを実現するのが精一杯でした。組織能力があがると、戦略を立案した際に、それを実行し、企業を伸ばすことができますし、さまざまなアイデアも形にすることができます。組織が活性化し、若い人が元気になれば、必ず優秀な人が生まれ、困難なプロジェクトを推進させることができる。日本マイクロソフトでは、そうしたことを達成することができました。

--社長就任時は50歳であり、歴代の日本マイクロソフトの社長としては最高齢での就任でした。何年ぐらい、日本マイクロソフトの社長をやるつもりでいたのですか。

樋口 1年、1年を乗り切った結果として、7年3カ月という期間、社長を続けてきました。正直なことを言うと、前職(ダイエー社長)、前々職(日本ヒューレット・パッカード社長)と、いずれも2年で社長を退任したので、これでまた1年、2年で辞めると、「失敗したな」と世間から言われてしまいますから、少なくとも4年はやりたいと(笑)。最初は、そうした世間の評価というのを意識したことはありましたね。

 ただ、社員やお客様の期待を受けて、責任を全うしなくてはいけないということは、期間は関係なく、強く感じていました。そこは石にかじりついてでもやらなくてはならないという覚悟はありましたね。ただ、会長を含めて、10年やったのでもう許してほしいと言ってもいいタイミングには入ってきたのではないでしょうか(笑)。

--日本マイクロソフトの社長を退くとき、そして、今回、会長を退くときには、どんなことを考えましたか。

樋口 社長から会長になるときには、新社長のラップアップをサポートすることを第一に考えました。私自身、1人で社長をやっていて大変だった経験がありましたので、しばらくは併走した方がいいと考えて、会長職への就任は、私から提案しました。政府関係の仕事や地方自治体との連携、大規模なプロジェクトの展開、さらには大切なお客様のサポートなどを、私がカバーする形にしました。

 ただ、それから2年近くを経過し、そろそろ社員が、平野(平野拓也社長)の方だけを向いて進んで行かなくてはならない時期かな、と思いました。私のワンヘッド体制が長かったため、その分、社員もどっちを向いて仕事をしたらいいのか分からないという混乱を招く可能性がある。居るとやはり社員は気を遣いますからね(笑)。その点を考慮しました。2年弱というタイミングも、併走期間として十分だと感じました。

平野拓也社長

 日本の企業のなかには、シンボルとしての会長職というものがありますが、私はそうしたことにこだわるつもりはありません。むしろ、仕事を少しずつ平野に移行するなかで、会長職というポジションにこのまま居ていいのかな、という「罪悪感」のようなものを強く意識しはじめました(笑)。気が小さいのでしょうかねぇ(笑)。

 実は、日本マイクロソフトの10年間を振り返って、ある社員から、「まさに、ザ・ロング・アンド・ワイディングロードの10年でしたね」と言われたのですが、会長職になってからの道は、くねくねしていなくて、ずっと真っ直ぐの道。ちょっと面白くないなぁ、などと思っていましたよ(笑)。

--米本社では、CEOがスティーブ・バルマー氏から、サティア・ナデラ氏に移行し、若返りとともに、大規模な変革が進んでいます。そうしたなかで、外圧とでも言うような、その立場に居づらくなってきたという側面はありませんでしたか。

樋口 外圧というものはありませんでした。むしろ、顧問になると発表したときには、罪悪感から解放されて、ホッとした意識の方が強かったですね(笑)。

--50代の10年間は、まさに日本マイクロソフトで過ごしたわけですが、ご自身の人生にはどんな影響を与えた10年でしたか。

樋口 確かに、マイクロソフトとともにというよりは、マイクロソフトに捧げた10年という感じでしたね。日本人ですから、外資系企業のなかにいても、日本人のために、あるいは日本の企業のためにどう貢献できるかということをずっと考えてきました。

 とくに、働き方改革については、日本は最優先事項として進めなくてはならないものだと、心の底から感じていました。マイクロソフトの製品を売るということではなく、自分たちが生産性を上げていかないと、世界に勝てない、という意志をもって提案活動や啓蒙活動を進めてきました。日本マイクロソフトに入社した時点では、デジタルワークスタイルという言葉を使って提案をしてきましたが、当時の技術は黎明期であり、なかなかワークスタイル全体を変えるところまではできませんでした。しかし、2011年2月に、東京・品川に本社を移転し、Skype for Businessなどを導入しながら、自ら実践してみて、これからの新たな働き方はこうだということを実感できました。

 さらに、本社移転直後に発生した東日本大震災では、BCPの観点からも、テレワークを軸とした新たな働き方の有効性が立証されたと言えます。それとともに、ダイバーシティやテレワーク、あるいはブラック企業対策といった流れが結びつき、まさに点と点とがつながって、働き方改革の動きに到達したと言えます。

--日本マイクロソフトの社長および会長としての成果を自己採点すると何点ですか。

樋口 100点満点中70点ぐらいでしょうか。たとえば、クラウドという領域だけを捉えてみると、Office 365はうまくいったと思っています。働き方改革における提案をはじめ、アプリケーションレイヤーでのメッセージづくり、お客様へのアプローチなど、マイクロソフトが得意とするところで実績を積み重ねることができました。他社が入ってくる余地がないほど、徹底した強みが発揮できたと言えます。

 一方で、Azureの領域は、AWSが先行していますし、日本マイクロソフト自らもビジネスのやり方を変えていくところで遅れがあったと言えます。従来は、PCを何台持っているかによって、セールスのカバレッジを決めていたわけですが、Azureのビジネスは、コンピューティングパワーをどれぐらい使うのかという観点からの取り組みになります。こうしたビジネスモデルへの変革対応や、Azureの知名度を高めるための戦略を作り切れなかったという反省がありますね。

 会長時代には、ある1つのイベントを立て直したり、自治体に深く刺さっていったりといったことができるようになった点が成果として挙げられます。これは、社長時代には、なかなかそこまでできなかったという反省の裏返しでもあります。担当する範囲があまりにも広すぎて、ディープダイブしていけない部分があったことは、社長時代の反省点でもあります。

--ダイエーや日本ヒューレット・パッカードでの社長経験のなかでは、後継者を育てられなかったことを悔やんでいた時期もありましたが。

樋口 社長の平野は、日本人の心を持ったグローバル人材であり、どの国に行っても、どの部門に行っても通用する人材です。若いながらも、日本の大手企業などのエグゼクティブとのリレーションシップの構築にも意欲的です。その点では、私の後継者育成は、今回は合格点に達したかもしれませんね(笑)。ただ、これから、平野が独り立ちする時期に入りますし、平野自身の真価が問われる時期だと思います。

--平野社長のゴルフについてはどうですか。

樋口 平野もゴルフはやる気満々だと聞いていますし、ゴルフは好きだとも言っていますので、その言葉を信じています(笑)。

--顧問になってからは、何をしようと考えていましたか。

樋口 気持ちとしては、少しゆっくりしたいも考えていました。フルタイムではない形で仕事をするといった選択肢を視野に入れていました。しかし、パナソニックからお誘いを受けて、松下幸之助創業者が作り上げ、2018年に創業100周年を迎えるパナソニックを活性化させ、さらに50年、100年続く会社にするために、なにかお役ちしたいと考えました。

--改めてお伺いしますが、なぜ、いまパナソニックに戻ることにしたのですか。25年ぶりの復帰であり、しかもボードメンバーとしての復帰は異例です。

樋口 私は、大学を卒業後、1980年に松下電器産業(現パナソニック)に入社し、12年間を過ごしました。当時のパナソニックは、会社を辞めること事態が「裏切り者」と言われた時期で、しかも、私の場合は、会社のお金で留学をさせてもらい、MBAを取得し、その半年後に会社を辞めていますから、「裏切り者」の二乗のようなものです。それをどんな形でお返しできるか、ということは常に考えてきました。

 もちろん、飛び出した当初は、まだ若いこともあり、「俺は俺で、自分のキャリアを切り開くんだ」という気持ちが強く、まさに必死でしたし、東京に出て来て、「いつか見てろ」という気持ちも強かった。恩返しという発想はありませんでした。しかし、アップルを経て、コンパックに入ったあたり、つまり40歳を過ぎたあたりから、自分は日本人だし、日本の企業に貢献したいと思ったり、パナソニックにもいつか恩返しがしたいなと考え始めました。ですから、パナソニックから、講演や相談などの頼みごとをされると、必ずお受けしていたんですよ。これも1つの恩返しかなと思っていましたから。

--日本マイクロソフトがSurfaceを発売する前は、ずっとレッツノートを使っていましたね。これも恩返しの1つですか?

樋口 いや、これは、OEMベンダーにお邪魔するときに、どのPCを持って行ったらいいのかが難しいのですが、「パナソニック出身なので」という言い訳がしやすいデバイスがレッツノートであって、恩返しという意味はそこにはありませんでした(笑)。

 現時点では、パナソニックの役員という、ピッチャーマウンドには、まだ登っているわけではありませんから、これから自分がパナソニックでどんなことができるのかはわかりません。しかし、パナソニック入りを決意した理由の1つとして、パナソニックに恩返しをしたいという気持ちが大きかったのは事実です。

--これまでの経験をもとに、どんな貢献ができると考えていますか。

樋口 日本マイクロソフトでは、厳しいプレッシャーを経験してきました。この経験は重要なものだったと言えます。私は、日本の企業にずっといたわけではありませんが、一流の外資系グローバル企業のなかで、そのやり方を間近で見てきたという経験は、日本の企業にも生かすことができると思います。

 10年間というまとまった期間で、グローバル経営のやり方や、変化の激しいなかでの舵取りなどを目の当たりにしてきましたから、この経験を活かし、こうした方向に変化するといった指針を示すことで、日本へのお役立ちができると考えています。

 ただ、この10年間は、それをゼロベースで自分で考えてやってきたわけではなく、米国本社が打ち出した方向性を、自分なりに日本法人向けに焼き直したわけです。ゼロベースで考えるという訓練ができていない部分があるのは確かです。また、外資系の日本法人は、P/Lしかみない傾向が強いですが、日本の企業であれば、当然、B/Sやキャッシュフロー、金融機関との関係、あるいは組合などとの付き合い方を含めて、経営全般をカバーする必要があります。そうした点でのスキルがこれからは必要です。

 その一方で、スピード感やダイナミックさを持った経営、自分の考えや思いを自己主張していくことで、金太郎飴のような人材ではなく、思考停止に陥らない企業文化の醸成というところでは、私の経験が発揮できます。これらの要素は、今後の日本の企業が変化するために必要なものだとも言えます。

 パナソニックには、まだ伸びしろがあります。しかも、その伸びしろは大きいです。そうした成長に向けて、一過性の変化ではなく、持続する変化を起こすことに貢献できたらいいと思っています。

--パナソニックで担当することになるコネクテッドソリューションズ社は、米国に本社機能を持つパナソニックアビオニクスや、レッツノート事業を担当するモバイルソリューションズ事業部などがあり、樋口氏の経験が生かしやすい社内カンパニーだともいえるのではないでしょうか。

樋口 コネクテッドソリューションズ社は、BtoB領域を担うカンパニーですし、コンポーネント売りから、ソリューション売りへと転換を図ろうとしている段階にあることを考えても、確かに、そこに、私の経験が生きると思います。

--パナソニックでスタートする60代は、どんな10年になりそうですか。

樋口 将来の幸せのために我慢をするというフェーズは、そろそろ卒業しようと考えています(笑)。ただ、これからも刺激が強い世界にしばらく身を置くわけですから、その刺激がなくなると物足りなくなるということにならないように、どこかのタイミングで慣れて、ソフトランディングできるようにしないといけないのかもしれないですね。そうしないと、また、「将来の幸せのために我慢をするというフェーズは、そろそろ卒業しようと考えています」と同じフレーズを言いながら、ずっと刺激的なところに身を置くことの繰り返しになってしまいますからね(笑)

--最後に、今後のIT産業に対して期待したいことはなんでしょうか。

樋口 日本市場においては、当面、コンシューマ需要の成長は期待できないでしょうが、コマーシャル領域やエンタープライズ領域では、デジタル化が起こせるというチャンスがあります。デジタル化によって、IT産業にはさまざまな機会が生まれ、顧客のビジネス成長や変革を支援することもできます。

 日本のお客様は、SIへの依存傾向が高いという特徴がありますが、この特性を生かすのであれば、これからもIT企業がお客様と一緒になって、日本の競争力強化のために、デジタル化を推進していくことができるといえます。そのときには、世界に通用することを視野に入れながら、ITの活用を提案する必要があります。

 ときに、IT産業は、お客様を囲い込もうとする力が強く出ることがあります。その結果、お客様ごとに違うシステムができあがってしまい、逆に競争力を失うことにもつながりかねない状況が生まれる懸念があります。本当の意味で、お客様のことを考えることができるIT企業によって構成される産業になってほしいと思います。