山田祥平のRe:config.sys

Windows 95から19年~そして何が変わったか

 今、この原稿のために「500.txt」という名前のファイルを作成した。つまり、これが500回目というわけだ。この連載を始めたのは2004年5月21日で、ほぼ10年が経過したことになる。毎週連載する中で、つまらない週もあれば、それなりに興味深く読んでいただいた週もあると思う。ご愛読いただいてきた読者の方々には、あらためて、お礼を申し上げたい。

相棒はいつも必ずクラムシェルノート

 この連載の初回は、「Windows 95から9年~そして何が変わったか」として、Windows 95のことを取り上げている。つまり、この原稿を書いている今は、Windows 95から19年が経過しているわけだ。年号をOSの商品名につけるアイディアは素晴らしい。調べなくてもすぐに発売年が分かる。

 さて、この原稿を書きながら、明日出発するMWC(Mobile World Congress)取材のための準備を進めている。いつもの通り、数台のPCと数枚のタブレット、数台のスマートフォンを持参する。特に乗り継ぎがあると、空港でのセキュリティ検査が面倒なので、PC 1台とスマートフォン2台を機内持ち込みにして、ほかの機材はスーツケースに入れて預けてしまうようにしている。

 以前ならHDDが壊れたらどうしようといった心配もあったが、今はSSDなので、あまり、そのことを考える必要はない。スピンドルといえば冷却ファンくらいだ。実際、何度もこうして海外を往復しているが、幸い、今のところ1度もトラブルは起こっていない。それらに加えて、13.3型のHDMIディスプレイが2枚加わるので、それらだけでも、スーツケースはけっこうな重量になる。

 もし、1台だけしか持って行けないとしたら、どのデバイスを選ぶだろう。ふとそういうことを考えた。ちなみに、機内に持ち込むPCは、必ずクラムシェルのノートPCだ。念のため電源アダプタは持ち込み荷物の中に入れておく。飛行機の中でずっと仕事をするわけでもないし、それでなくても最近のノートPCは、けっこうバッテリが長持ちするので、本当は必要ないのだが、もし、スーツケースが紛失してしまうといったことがあっても大丈夫なようにという配慮だ。こうするようになってから、空港でのセキュリティチェックはとてもラクなものになった。係員に呆れた表情で見られることもなくなった。

PCと炊飯器

 なぜ、唯一のデバイスとしてクラムシェルノートPCを持ち込むのかというと、それは全ての面において潰しがきくからだ。いわばオールマイティだ。キーボードがなければ大量の文字入力は無理だし、それは職業的に死活問題でもある。たくさんPCがあれば仕事の効率は上がるし、リスクも回避できる。だから、1台のクラムシェルノートPCは、これ以上、効率を下げられないという損益分岐点に位置すると言ってもいい。タブレットでも、外付けキーボードと組み合わせればいいのだが、それでは機動力が落ちる。パッと開いてパッと使えないし、そもそも膝の上での利用が難しい。結局は、クラムシェルノートPCが最強なのだ。

 先週は、ソニーがPC事業を売却することになったというニュースが流れ、PCの時代が終わろうとしている的な論調の議論もよく見かけた。夏になって新会社が始動してみなければ、何がどうなるのかはよく分からないにせよ、選択肢の1つがなくなるといった目で見る人々がいてもおかしくない。希望的観測としては、むしろ今までソニーの縛りで作れなかった新しいVAIOの登場という流れもある。

 まあ、これは、電気炊飯器の登場によって、釜で米を炊けなくなったようなものだ。後に、さらにすぐれた電気炊飯器が登場し、釜で炊くより美味しいご飯が食べられるようになる可能性もあるわけだ。

 でも、そんな素晴らしい炊飯器を、誰が開発してくれるのか。そこが最大の問題だろう。

PCは暮らしのための必需品になれなかったのか

 でも炊飯器は今なお新製品が出続けている。

 コモディティという点では、エアコンなんて数年前の製品と現行製品を比べたら、エネルギー効率はきわめて高くなり、同じように使った時の電気代も安ければ、よく冷えるし、よく暖まる。もう、何をとっても雲泥の差で、故障などで1台換えたら、全部屋のエアコンをとっ換えたくなるくらいだ。

 いずれにしても、これらのコモディティは、暮らしのための必需品であり、それがなければ人間の暮らしが成り立たないものだからだと言ってもいいだろう。そこが白物家電の強いところだ。

 ところがPCはどうか。本当は、暮らしのための必需品であるにもかかわらず、そうでない面ばかりがクローズアップされている。

 Microsoftは「a computer on every desk and in every home」を目指してここまでやってきた。実際、その通りになったと言ってもいいだろう。それどころか、個人が複数台のコンピュータを持つのも当たり前の時代になった。コンピュータは据置きするものでもなくなった。もちろんそれは、スマートフォンやタブレットをもコンピュータと呼ぶことを前提とした話だ。

 数年後、ぼくらの目の前にあるPCは、今のPCのカタチをしていないというのは、えらく昔から言われていたことだが、ぼくが、出張の飛行機内に持ち込む唯一のPCが30年近く前に使っていたのと同じような見かけのクラムシェルノートPCであるというのは皮肉な話だ。個人的には、スマートフォンは便利だし、タブレットも快適で、それぞれを愛用しているが、クラシックなPCなしの暮らしや仕事はありえない。

5年後、10年後に向けて

 今、ソチオリンピックが開催されているが、当たり前の話だとしても、とにかくWebがよくできている。冬季、夏季が交互にあるので2年ごとという、比較的長い間隔で比べるので進化が分かりやすい。TVよりも早くリアルタイムで記録などが更新される様子は、TVの生中継観戦をより楽しいものにしてくれる。長野オリンピックの時などは、これじゃ当分TVには勝てないなと思ったものだ。

 この調子でいくと、東京オリンピックが開催される2020年頃には、もしかしたらTVがいらなくなっているかもしれない。TVというと語弊がある。TV放送受信機は、もういらないと思われるようになっているかもしれないという意味だ。

 もっとも、オリンピックは、全世界のTV局による放映権料で成り立っているような面もあるので、TV放送を排斥するようなことはありえないだろう。共存共栄の道を模索し続けることになるはずだ。

 転換点。そういうのは簡単だが、将来、PCのアルケオロジー(歴史)が語られるときに、今という時期は、そのタイムラインの中で重要な時代になるだろう。きっと、そんな話を、6年後の東京オリンピックを楽しみながら、今と似たようなPC環境を使って、原稿として書いているんだろう。大きく変わったようで何も変わっていない。そして、これからも変わらない。

 おかげさまで連載はまだ続けられそうだ。末永くご愛読いただきたい。今後ともよろしくどうぞ。

(山田 祥平)