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10万円以下のインクジェットで70ppmをどうやって実現したのか
~日本HP「Officejet Pro X」に搭載された数々の技術
(2013/11/20 06:00)
日本ヒューレット・パッカード株式会社(日本HP)は、ギネス世界最速の70ppmを実現したビジネス向けインクジェット「Officejet Pro X」シリーズを12月2日に発売する。価格は単機能機の「X551dw」が73,500円、複合機の「X576dw」が97,125円。
詳細な仕様および販売戦略などについては関連記事(1、2)を参照してもらうとして、本記事ではその70ppmをいかにして実現したのかについて、発表会および発表会後のテクニカルセッションで得られた情報を元にレポートする。
技術の解説にあたったのは、米国HP本社から本発表会“だけ”のために来日したという、インクジェット&プリンティングソリューションズ インクジェットビジネス&プラットフォーム R&Dディレクターのブラッド・フリーマン(Brad Freeman)氏。同氏はHPのプリンタ専門エンジニアとして33年間務めた大ベテランである。
プリントヘッドの技術
まずはインクジェット印刷において基本となるプリントヘッドの技術だ。HPのインクジェットの歴史は実に古く、1984年に発売された同社初のインクジェットプリンタ「ThinkJet」まで遡る。当時は12ノズル搭載されていて、インク滴噴射速度は1秒あたり8,000回であった。噴射速度だけ聞くと速そうだが、印刷速度は1枚/分未満が精々だったという。
それがOfficejet Pro Xに搭載されている10連装のプリントヘッドになると、合計42,240ノズルと、ThinkJetの3,520倍もの数を搭載。インク滴噴射速度は1秒あたり24,000回(12kHz駆動)。インク滴の速度は実に時速50kmにも達し、インク滴の直径は髪の毛の3分の1程度だという。これによって、1秒間の間で実に最大10億滴のインクを噴射できることになる。
データ量で言うと1秒あたり10億bit(1Gbps)ものデータがノズルに送られるわけだが、5枚のDVDを同時に読み込むぐらいの処理量が発生しているとイメージすれば、かなりの処理量である。この10連装のプリントヘッドでライン状に印刷することによって、シングルパスで印刷でき、高速性を実現した。
ブラッド氏は「PCの業界においてムーアの法則があることは既に皆さんご承知の通りだろう。18カ月ごとに2倍の性能になるという法則である。HPのインクジェット印刷モジュールにも実は同じ法則が適用でき、1984年当初1ppm未満だった速度が、約20年後の今では70ppmになろうとしている」と語った。
ちなみにHPのインクジェット技術はキヤノンと同じサーマルバブルタイプ。同技術は、PCと同じく半導体技術を採用し、シリコンダイの上にレジスタを形成。制御によってレジスタ1つ1つを駆動して発熱させ、その熱でチャンバーのインクを加熱。インクが気化して泡となり、液体となって吹き飛ぶ力を利用し、ポリマーのノズルを通って印刷を行なう。
インクの改良も必要だった
高速に印字するためにはプリントヘッドの改良のみならず、インクの改良も必要となる。70ppmでの印刷に耐えうるインクが必要だ。「一般的なインクで70ppmで印刷すると、印字品質が確保できず、乾燥時間も十分でないため、印刷物が出てくる頃には乾いておらず、両面印刷で裏写りしてしまったり、湿気に弱く滲んだりする。そこでOfficejet Pro Xではインクを新たに開発した」という。
新開発のHP 970/971顔料インクは、70ppmの速度でも乾燥できるようにした。また、世界中のさまざまな用紙でテストし、寒冷地/高湿地など、あらゆる気候条件下でも適用できるものでなければならない。さらには人体に無害なもの、C/Y/M/Kの4色ともにお互い融合できるものでなければならない。
「Officejet Pro Xの開発テストでは約5,000万枚の紙を消費した。それだけインクは性能/信頼性が高いものを開発できたと自負している」という。印刷して出てきた紙をすぐに水につけてこすっても印字が滲むことがなく、蛍光マーカーなどの書き込みも可能。高速印刷を裏で支えているのが、新たに開発されたインクだ。
70ppmに耐えうる紙搬送経路
プリントヘッドのイノベーションと新開発のインクのみならず、これだけ高速なインクジェットの実現には、紙を搬送する経路にも工夫を施さなければならない。紙は1秒間に17インチ(約43cm)もの長い距離を移動するからである。
Officejet Pro Xでは本体をコンパクトにするために、トレイからのプリントヘッドまでの経路を短くした。そのためには急勾配のカーブを曲がらなければならなかったが、そのコーナーでスムーズな紙の搬送を実現するためのカーブの角度も、複数回に渡る試行錯誤でようやく辿り着いたという。
インクジェットではアップフェイスで排紙されるのが大半だが、ビジネス向けのページプリンタでは印刷物のセキュリティに配慮してダウンフェイスで出てくるのが当たり前である。そのためにOfficejet Pro XではCカーブを設けて、アップフェイスに印刷したものをダウンフェイスで排出するように長い経路を設けているが、その紙の搬送経路には独自の「スターホイール」を採用した。
一般的に紙の搬送ではローラーを使うが、インクが完全に乾燥していない状態でローラーを使用してしまうと、ローラーにインクが付着し、次の印刷物に写ってしまうことがある。これを回避するために、ギア状で接地面積を減らしたスターホイールを採用しているわけだ。しかしスターホイールを強く圧着してしまうと紙に穴が開いてしまうし、弱く圧着しても紙を適切に押さえることができない。微妙な圧着加減を調整するのにも多くの時間を要したという。
また、70ppmで十分なインク乾燥時間を設けるために新製品ではわざと紙搬送経路を長めにとってあり、はがきや封筒など、短めの用紙にも対応するようにしてある。加えて、両面印刷のリバース機構なども搬送経路を複雑化している。そのために、実に300個以上ものスターホイールが使われているという。
42,240ノズルを1つずつを寿命まで管理し、印字品質を確保
合計42,240ノズルも搭載されているOfficejet Pro Xだが、これだけ膨大なノズルを抱えつつも、ノズルのつまりなどを1つずつきちんと管理する機構が用意されており、インクジェットでシングルパスという難しい課題に直面する中で、印字品質を確保しているという。
ヘッドが往復するような一般的なインクジェットプリンタで、ノズルづまりが発生しそれを検出した場合、紙送りのアルゴリズムとヘッドの動きによってカバーすることは可能だ。例えば詰まった場所に対して紙を少し送り、別のノズルで印刷するといった手法である。しかしOfficejet Pro Xはシングルパスで印刷するため、そのような手段は取れない。
Officejet Pro Xでは、新開発の「BBDモジュール」を搭載。アイドル時および品質チェックが必要になったと判断したタイミングで、このモジュールのLED光源から光を発射し、インクの噴射を検出。正しくインクが噴出されていれば色が反射してセンサーに写り込むが、噴出されていなければバックプレーンの色がそのまま反射してセンサーに届く。これによってインクが正しく噴出されているかどうかを判断するという。
ノズルづまりを検出した場合、まずはクリーニング機構が動く。クリーニング時ヘッド部が浮上し、布状になっているクリーナーがローラーに巻かれており、これがヘッドの下に挿入され回転することでクリーニングする。
それでもノズルづまりが解消しない場合、代替のノズルが動く仕組みだ。ただしブラックの場合はカラーインク(シアン/マゼンダ/イエロー)で混色にすれば実現するが、シアンやマゼンダ、イエローが詰まった場合はそうはいかない。しかし人間の目は「騙せる」としており、そのアルゴリズムによって目立たない最適な色で補完するようになっている。
それでも詰まってしまった列が10列以上になった場合、修理が必要として自動的にエラーが出るようにしているが、ブラッド氏によれば「典型的な利用ではまずそのような状況に陥ることはない」とした。
このインクづまり検出システムは、ユーザー利用開始時から継続的にノズルづまりを管理し、“製品寿命が尽きるまで”内部のメモリにそのデータを蓄積するという。ノズルづまりが異なるパターンで発生したり、新たに発生したりする場合も、その都度最適な印字品質が得られるよう制御しているという。
「シンプルに言えば、安くしたかった」
ここまで多くの技術を新たに開発/研究して、インクジェットで70ppmという速度を実現したかった理由はなんだろうか。レーザープリンタで実現できなかったのだろうか。
ブラッド氏は「シンプルに言えば、安くしたかった」と答える。70ppmをレーザーで実現できなくもないが、それは低価格帯では実現できない。レーザーはトナーカートリッジの設計も複雑だし、ドラムや定着器などのコストもあり、インクジェットほどにイニシャルコストを削減できない。またトナーを溶かすためには電力も必要で、ユーザーにとってランニングコストに優れるとは言えない。
「HPはユーザーにとって最良なものを提供する。iPadやスマートフォンから簡単に印刷したいというニーズに答えるためにWeb経由での印刷や無線LAN経由の印刷を開発したのと同様、ビジネスユーザーは高速で、低コストの印刷を望んでいる。我々はインクジェットの技術でそれに応えただけだ」と説明する。
70ppmながら10万円を切る価格帯を実現したのも、HPが多くのインクジェットのコア技術を持っているからだという。「ヘッドをアレイにして印刷速度を高める技術は産業用プリンタで採用実績があるし、ローラーの回転数を制御するエンコーダは数セントで実現しなければならないコンシューマ向けプリンタから転用した。さまざまなコア技術をHPが既に保有しているからこそ、Officejet Pro Xを低価格で提供できた」と語った。