バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話
第4章 ホームページの時代へ(1)
2017年5月15日 06:00
2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!
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1990年 | WWW(ホームページ)誕生 |
1992年 | リナックス登場、商用プロバイダの誕生 コンパックショック |
1993年 | 日本版ウィンドウズ3・1発売 |
1994年 | ネットスケープコミュニケーションズ設立 |
1995年 | ウィンドウズ95発売、ジャバ(Java)発表、 デジカメQV-10(カシオ計算機)発売 |
1997年 | 楽天市場がスタート、 ジョブズがアップルに舞い戻る |
1998年 | グーグルがスタート、 iMac(スケルトンのパソコン)発売 |
1999年 | NTTドコモ iモード開始、2ちゃんねる開始、 ヤフーオークション開始 |
1992年、パソコン通信ニフティサーブやPC-VANとインターネット間で電子メールの相互乗り入れが始まりました。パソコン通信内部で電子メールをやり取りしていたのが、一気に世界とつながったことになります。パソコン通信の参加者は相当数いましたので、当時、ネットワークにアクセスしている、ほとんどの人と電子メールでやりとりができるエポックメーキングになりました。
同じ1992年にSPINやIIJが登場、商用プロバイダの誕生です。それ以前は会社や大学などを通じてインターネット接続するしかなかったのですが、個人でもインターネット接続できるようになりました。当時、電話線を使ってインターネット接続するには初期費用で三万円が必要でした。また月額の基本料が二千円、一分あたり通信料が三十円必要でした。その上、接続ポイントが東京、大阪だけで、自宅からアクセスポイントまでの市外料金が別途かかります。一日一時間使うと自宅の場所にもよりますが月に十万円の通信費は覚悟しなければなりませんでした。
日本のパソコン市場に君臨したのがPC-98シリーズ。最大の特徴は互換性で、新しい機種が出ても古い機種のソフトが動くのは画期的でした。しかしウィンドウズが普及するとハードの差があまり問われなくなり、海外から安いパソコンが流入するとPC-98シリーズの牙城が崩れます。一番インパクトがあったのが1992年のコンパック参入。高かったパソコンの価格破壊が起こり、“コンパックショック”と呼ばれるようになりました。
1995年は大変な年でした。1月17日に阪神・淡路大震災が発生。情報が錯そうするなか、神戸市職員が、被害の様子をデジカメで撮り、インターネットで世界に送り続けたことがテレビなどで報道されたことから、大災害時の通信手段の一つとしてインターネットが意外に役立つことが認識されました。
同じ1995年の暮、11月23日「勤労感謝の日」にウィンドウズ95が発売されます。秋葉原、大阪・日本橋、名古屋の大須商店街など各地の電気屋街には深夜に向けて続々と人が集まり、店舗前には長い行列。午前零時ジャストにウィンドウズ95販売が開始されますが、深夜のカウントダウン・イベントがテレビや新聞で大きく取り上げられ、お祭り騒ぎとなります。
テレビを見ていた人への宣伝効果はバッチリで、ウィンドウズ95をきっかけに、はじめてパソコンを買う人が続出。今はサブカルチャーの街となった秋葉原や大阪・日本橋ですが、パソコンや周辺機器を求める人で賑わう電気屋街として発展していきます。ウィンドウズ95にはインターネット・エクスプローラなどインターネットの機能が標準搭載されていました。ウィンドウズ95を買えばインターネットが簡単に始められるというイメージ戦略もあって、人気に拍車をかけます。(簡単といってもモデムを接続し、モデムを動かす暗号のようなコマンドなどを覚える必要はあり、初心者にとってハードルはかなりありました。)ただウィンドウズ95発売がきっかけで個人や企業へ急速にパソコンが普及していきます。
ホームページはスイスで誕生した 1990年
ホームページが登場した頃、国立がんセンターがテキストベースのブラウザを公開しておりゲストログインができました。パソコン通信のニフティサーブから国立がんセンターのサーバに遠隔ログインし、文字だけですがホワイトハウスなどいろいろなホームページを見ることができ、すごい時代になったと感激したものです。
スイス・ジュネーブの市街地から十キロほど行ったところにセルン(CERN:欧州原子核研究機構)という素粒子物理学の研究所があります。神の粒子・ヒッグス粒子が発見されたという報道で有名になった研究所です。セルンは素粒子物理学の研究所で、地下には一周約二十七キロの巨大な円形加速器があります。光速近くまで陽子を加速して正面衝突させ、衝突による膨大なエネルギーによって瞬間的に姿を見せるヒッグス粒子の痕跡を探り、発見しました。セルンには世界中の研究者が集まっており、日本の研究者もたくさん現地に住んでいます。このセルンが、ホームページの故郷です。
セルンには何千人もの科学者が入れ替わり立ち替わり研究に訪れます。たくさんの研究論文や資料が生み出されますが、整理するだけで大変。研究者によって常時、資料が更新・追加される状況では、分類さえ困難です。
各研究室のコンピュータはネットワークで接続されており、自分の研究室から別の研究者の論文を読むことができました。ただしメーカーごとに異なるコンピュータの操作法を覚えなければならず、これが大変です。
イギリスからセルンに来ていたティム・バーナーズ・リー博士が1990年に研究プロジェクトを立ち上げ、作り上げたのがWWW(World Wide Web ワールド・ワイド・ウェブで世界中にひろがる蜘蛛の巣という意味)です。各研究者のコンピュータに保存されている論文や情報を、相互にリンクさせる仕組みです。コンピュータの機種に関係なく相互に情報交換でき、追加や削除しても大丈夫。WWWの誕生で、1990年に世界最初のホームページが誕生します。アップルを追い出されたスティーブ・ジョブズが作ったネクストキューブというワークステーションで、世界初のウェブサーバやウェブページを画面に表示するためのブラウザを開発しました。
ティム・バーナーズ・リーはWWWをインターネット上に発表し、世界中に広がっていきます。それまでのインターネットといえばメールやネットニュース(電子会議室・掲示板)が中心でしたが、発表以降はWWWが代表になります。
WWWは特許もとらず誰もが無償で使える形で公開され、ティム・バーナーズ・リーはこの功績により、エリザベス女王からナイトの称号を授与されています。
日本最初のホームページもセルンで作られた
日本最初のホームページは1992年9月30日に誕生しました。1991年に担当者会議がアメリカで開かれ、セルンから参加した研究者がハイパーテキストを使って自由にネットワーク上の書類を見ることができる仕掛けについて話をしました。
この発表を聞いていたのが、つくば市にある高エネルギー加速器研究機構の森田洋平博士です。高エネルギー加速器研究機構は、科学の基礎研究をすすめる共同利用研究所で、巨大な加速器があります。
翌年、フランスでの国際会議の後、森田氏はセルンに立ち寄りWWWを発明したティム・バーナーズ・リーと会います。この時に高エネルギー物理学研究所でもWWWサーバを立ち上げ、ネットワークによる情報の共有化を進めてほしいと依頼されました。森田氏はさっそくセルンの端末から、高エネルギー物理学研究所にログインし、ホームページを作成し、サーバ上に置きました。これが日本最初のホームページで、まだ世界中に数えるほどしかホームページがなかった時代でした。「日本最初のホームページ」で検索すると当時のホームページを見ることができます。
幻想的な楽園 そこはザナドゥ 1990年
女優の井上真央さんが出ていた、みずほフィナンシャルグループのテレビCMのバックで流れていた歌がザナドゥ。ソフトバンクモバイル「ホワイトプラン」のCMソングにも使われていました。1980年に公開された映画「ザナドゥ(Xanadu)」で、オリヴィア・ニュートン・ジョンがザナドゥを歌いました。
オリヴィア・ニュートン・ジョンが歌うザナドゥ
映画「ザナドゥ」ですが、建築会社の経営で成功を収めた老人(ジーン・ケリー)が「音楽の殿堂」実現を夢みています。画家志望の若者ソニー(マイケル・ベック)と女神キラ(オリヴィア・ニュートン・ジョン)が老人に力を貸すことになり、この二人が惹かれあっていきます。音楽の殿堂作りのなか、キラが暗誦する英国の詩人コールリッジの幻想詩「クーブラカーン」のなかに出てくるザナドゥから音楽の殿堂は「ザナドゥ」と名づけられます。
いよいよオープンの日、オリヴィア・ニュートン・ジョンが歌うのがザナドゥ。ただキラは女神(ゼウスの娘)ですので神の世界に帰らなくてはいけません。光の中に姿を消すキラを見送るソニー。そんな失意のソニーにウェイトレスが近寄ってくると、それは笑みを浮かべたキラで、映画は終了。ザナドゥの音楽はエレクトリック・ライト・オーケストラが担当しました。アルバムは大ヒットしましたが映画は酷評され、商業的には失敗します。
ザナドゥの起源はモンゴル帝国のクビライ・ハンが、モンゴル高原南部につくった夏の都からきています。英国の詩人コールリッジが幻想詩「クーブラカーン」で都「ザナドゥ」を登場させて以来、ザナドゥはシャングリラと同じように幻想的な楽園の代名詞として広く使われるようになりました。
ウェブの原型は昔からあった。1960年代のザナドゥ計画
文書や画像のリンクをクリックすると次々と情報をたどれる仕組みがワールド・ワイド・ウェブ。1960年代に既に考えている人物がいて、それがテッド・ネルソン。ザナドゥ計画と名づけました。
WWWはリンクをたどっていくだけの片方向ですが、ザナドゥ計画ではバックもできる双方向リンクで考えていました。当時はインターネット誕生以前のネットワークもまともにない時代で資金も潤沢でなく、開発に苦労。そうしている間に現在のWWWが登場してしまいます。テッド・ネルソンも幻想詩「クーブラカーン」からザナドゥ計画と名づけています。
世界一豪華な家。ビル・ゲイツの「ザナドゥ2・0」
ビル・ゲイツのワシントン州シアトル郊外にある私邸にはザナドゥ2・0というニックネームがついています。映画「市民ケーン」に出てくる、新聞王ケーンの未完の大豪邸がザナドゥと呼ばれていたところから名づけられました。
ワシントン湖の側に建つザナドゥ2.0の中にはプールやスポーツジム、図書館などがあり、図書館にはレオナルド・ダ・ヴィンチのノートも置かれています。敷地は広大で、レセプションホールもあり、百五十人が座れます。もちろん家の中には、ウィンドウズサーバシステムが張り巡らされています。
Ctrl+Alt+Delの採用はビル・ゲイツのミス 1990年
マウス操作しなくてもキーボードでパソコンを操作できるのがショートカット。視覚に障害がある人にはなくてはならない機能です。たまに漢字を入力するために、マウスでクリックして入力モードを「あ」に変更している人を見かけますが、「半角/全角」のキーを押せばよいのを、誰にも教えてもらわなかったのでしょうね。
ウィンドウズにログインする時や再起動する時に入力しないといけないのが「Ctrl+Alt+Del」。三本の指を使って入力しないといけないので、かなり面倒です。IBM PCを設計したデイビッド・ブラッドリーが、この三本指方式を採用しました。ビル・ゲイツが反対しなかったため、そのまま実装されてしまいます。あとでビル・ゲイツは三本の指を使うような方式を採用したのは間違いだったと認めています。
デイビッド・ブラッドリーは最初、「Ctrl+Alt+Esc」にする予定でした。これだと左手だけでいけます。ところがキーボードの左側に手をぶつけただけで、三つのキーが同時に押され、本人が意図しない再起動がされてしまう怖れがあることから、片手では押せないようEscキーではなくDelキーが採用されました。結果、IBM PCが発売され以来、ずっとユーザは「Ctrl+Alt+Del」を使い続けています。
デイビッド・ブラッドリーは「私が Ctrl+Alt+Delete を発明したかもしれない。しかし、ビル・ゲイツがそれを有名にした。」と語っています。この「Ctrl+Alt+Del」は隠語として使われるようになり、デモなどで政府の方針を「白紙に戻せ」(Ctrl+Alt+Del)といった使われ方もしています。
最近、見かけなくなったチルダ
最近、URL(ホームページのアドレス)でチルダという記号を見かけることがなくなりました。チルダとは、キーボードの右上にある上付き波線記号「~」のことです。チルドともいい、スペイン語などで、アルファベットの上につけて特殊な発音を指示するのに使われています。
チルダという文字は、個人ホームページのURLで大活躍しました。グーグルのようなキーワード検索がなかった時代、屋号や会社名では検索できません。ブラウザに直接、名刺に記載されたURLを入力するしかありませんでした。URLには「~(チルダ)」記号が書かれており、「こんな変な記号、キーボードのどこにあるのだ?」とパソコン初心者には難解でした。
プロバイダが、ホームページを作るエリアを会員に開放していて、URLはプロバイダのドメインの後ろにチルダとユーザ名をつける形になっていました。URLにチルダがあればプロバイダに間借りしていることがわかります。いつか独り立ちして一戸建て(独自ドメイン)を取りたいなと考えたものです。
最近、このチルダが入ったURLを見かけることがなくなりました。昔は独自ドメインをとるのは手続きが大変で、費用もかかりましたが、今なら空いているドメインをネットで調べて、カード決済すれば、すぐドメインを使うことができます。間借りから一戸建てへの引越がおこなわれ、間借りそのものが減ったことが原因の一つです。
大物アーチストによる起動音 1992年
パソコンのスイッチを入れると短い起動音が流れます。ウィンドウズで起動音が初めて採用されたのは、1992年に発売されたウィンドウズ3・1。スイッチを入れると短いファンファーレが鳴りました。オフィスにあるパソコンは無音が基本なので、今も起動音はありますが、あまり聞かなくなりました。
ブライアン・イーノが作曲したウィンドウズ95
ウィンドウズ95の起動音「ザ マイクロソフト サウンド」を作曲したのがブライアン・イーノ。イギリス生まれの音楽家で環境音楽の先駆者として知られています。デヴィッド・ボウイ、U2、トーキング・ヘッズのアルバムにも演奏などで参加しています。ブライアン・イーノへのマイクロソフトからの依頼は「人を鼓舞し、世界中の人に愛され、明るく斬新で、感情を揺さぶられ、情熱をかきたてられるような曲。ただし、長さは三秒コンマ二十五」だったそうです。
大物アーチストが続々と起動音を作曲
ウィンドウズ98とXPの起動音を作曲したのはビル・ブラウン。アメリカの音楽家でゲーム音楽や映画音楽の作曲を担当しています。
ビスタやウィンドウズ7や8の起動音を作曲したのがロバート・フリップ。ウィンドウズ95の起動音を作曲したブライアン・イーノの友達です。イギリス出身で世界的ロックバンドであるキング・クリムゾンのギタリスト兼リーダーをつとめています。
ビスタの起動音の長さは四秒で、マイクロソフトからの依頼は「聞き心地がよく、繰り返し聴いても飽きない音」だったそうです。ウィンドウズのロゴは四色の旗になっていますが、これをモチーフにして四和音で四秒ジャストの起動音にしました。ウィンドウズとビスタを意味する二つのメロディーが交差する音になっています。
マッキントッシュの起動音
初期マッキントッシュの「ポーン」という起動音はOSではなくハードウェアに組み込まれたもので、メモリチェックを兼ねて鳴るようになっています。アップル㈼のシンセサイザーを開発した音響専門家がマッキントッシュ部門に移ってきた時に、マッキントッシュ開発チームの主要メンバーがいろいろと学んで、あの起動音が生まれました。初代パワーマックの起動音である「ジャーン」の作曲はスタンリー・ジョーダン。アメリカ出身のギタリストで、十二弦ギターで起動音を作りました。
日本のインターネットは実名から始まった 1992年
フェースブックが日本に上陸する時、匿名があたりまえのインターネットで実名サービスは通用しないと言われましたが、あっという間に定着してしまいました。ただ若者の利用よりも中高年が昔の同窓生を探すツールとして活用されるなど、日本ではフェースブックが想定した使い方とは少し異なった使い方になっています。
本名ではなく匿名でブログを書いているから大丈夫と思っている人が多いのですが、完全な匿名はムリです。インターネットを利用する時にそれぞれを識別する住所のようなものが必要となり、これがIPアドレス。電子掲示板やブログに書き込みするとIPアドレスと時間が記録されます。ふだんネットを使う時にはIPアドレスを意識しなくてもすむよう裏方で動いています。
インターネットにアクセスする時、プロバイダ経由ならプロバイダから割り当てられたIPアドレスを使います。IPアドレスは固定ではなくアクセスするたびに新しいIPアドレスが割り当てられます。IPアドレスがかわるからといって匿名性は確保されません。プロバイダに通信記録が残っているので、その時間帯にIPアドレスを誰に割り振ったかがわかります。つまりどのユーザがアクセスしたか判別することが可能です。ネットで誹謗中傷が書き込まれた時、相手を特定するためにプロバイダに発信者情報開示請求をおこなうことで特定できます。
会社や学校から書き込むとIPアドレスは固定となり、IPアドレスを調べるとすぐ会社名や学校名がわかります。危ないサイトにアクセスすると「あなたの個人情報を取得しました」と会社名などが表示され、あわてる人がいますが、この仕組みを使っています。会社や学校のシステム管理者に連絡し、開示請求すればアクセスした人を特定できます。つまりネットには完全な匿名性はなく、労力をかければ相手を特定できます。犯罪目的でハッキングしている場合は特定されると困るので、いくつものサーバを踏み台にして攻撃し特定されにくい状況をつくっています。
実名文化からはじまった日本のインターネット
もともと日本のインターネットは匿名ではなく実名から始まりました。日本のインターネットの元祖は1984年にスタートしたJUNETという名前のネットワークです。東京大学、東京工業大学、慶応大学の三つの大学を結ぶところからスタートし、その後、いろいろな大学、通信会社、IT企業などが接続され、ネットワークを拡げていきました。参加しているのは大学の先生や企業の研究者、技術者ばかりです。
当時は実名を使う文化でした。ネットニュースへの投稿の基本ルールは所属と名前を明らかにすることです。たとえば「○○株式会社 水谷哲也」という名前で参加し、相手も議論する時は「水谷さん」と呼びかけてきます。これがネチケット(ネット上のエチケット)になっていました。実名でおこないますので当然、責任ある発言となります。反論なども同様です。JUNETへの参加者が研究会などで顔見知りが多く、たどっていくと知り合いの知り合いが参加しているような身近なネットワークだったという面もあります。
ネットワークが日々、増殖していくなか、各企業や大学のサーバ名や回線図が書かれたネットワーク図がおさめられた会議室もありました。サーバの名前からサーバ構成まで書かれていて、今だったらセキュリティの関係から絶対に外へ出せない情報ですが、“悪さをする人はネットにはいない”という性善説で、なんとも牧歌的な時代でした。皆が実名でアクセスし、悪いことをしてもすぐわかりますから、不正侵入などの事件自体が起きませんでした。
パソコン通信と接続され匿名文化に
インターネットが注目されだし、やがてパソコン通信との接続がはじまります。接続するまでが大変でしたが、パソコン通信とのデータ交換が実現します。
ニフティサーブなどのパソコン通信では実名ではなくハンドル名と呼ばれる匿名が使われていました。インターネットがパソコン通信と接続される前、JUNETで議論となったのはインターネットというのは実名文化なので、ハンドル名ではなく実名での投稿を義務づけるべきだという意見。結局、結論がでないまま接続することになり、あっという間にインターネットの方が匿名文化になってしまいました。
現在になってフェースブックなどの実名型サービスが登場しましたが、実は原点に戻っているだけなのです。