山田祥平のRe:config.sys

メディアの特性をあぶり出すオリンピック




 人はコンテンツを楽しむときに、それが盛られた器をも気にする。料理と同じだ。コンテンツは食材であり、それが料理人の手によって美味しくそして美しく、調和した器に盛りつけられる。

●放送は受け手のデバイスを規定しない

 バンクーバーオリンピックはカナダで行なわれているため、日本とは17時間の時差で競技が進行している。大ざっぱに言って向こうの夕方は日本の真っ昼間だし、日本で夕餉を楽しみながらTVを食い入るように見つめられる時間は、向こうはもう真夜中で何も競技は行なわれていない。

 フィギュアスケート女子ショートプログラムで、浅田真央選手が2位を獲得したその日、ぼくは六本木のミッドタウンで記者会見に出席していた。会見は正午までだったので、そのままビルの地下で食事を済ませた。フジテレビで生中継されているのは知っていたので、そのレストランで携帯電話のワンセグで見ようとしたが、半地下、さらには、あんなに東京タワーが近いのに映ってくれない。仕方がないので食事を終えたあと、地上に出て電波をつかまえ、試合の様子を確認したところ、第4グループの演技が始まる前だった。

 周りを見ると、心なしか、携帯電話を見つめている人が多い。きっとみんなワンセグを視聴しているにちがいない。

 次の予定もあったので、地下鉄に乗って移動し、到着した駅でワンセグを開くと、すでに真央選手とヨナ選手の演技は終わり、鈴木明子選手が滑っている最中だった。

 とまあ、こんな具合に、できるだけリアルタイムに近い状態で世の中で起こっていることを知るには、やはり、TVというのは最強のメディアだと思う。

 もちろん、インターネットでは、たとえば、オリンピックの公式サイトがリアルタイムでWebページを更新し、1人の演技が終わるごとに、その獲得点数などが詳細にリドローされるようになっている。あるいは、某巨大掲示板などでは有志による実況も行なわれているから、それを追いかけてもある程度は進行がわかる。

 スケートの試合がコンテンツであるとしたら、各種メディアは、それをいろいろな方法で調理して皿に盛る。速報性やリアリティという点ではTVが有利だが、実況アナウンスだけで目の前で起こっていることを伝えるラジオもすごい。速報性はないが、試合後のコメントや背景取材なども含めた詳細記事では活字メディアの価値も高い。インターネットのアマチュアによる実況は、いわゆる「現地さん」を除けば、TVが元ネタということも多いはずだ。

 こうして、さまざまなメディアの中から、そのときに最適なものを選び、ぼくらはコンテンツを楽しむ。

●紙媒体は受け手のメディアを規定する

 映像コンテンツは見る側がどのようなデバイスを使うかを押しつけない。「この番組は50型サイズの画面正面から3m離れた位置で、視線を画面中央の高さに固定してご覧ください」などとはいわないわけだ。だから視聴者は、携帯電話の液晶画面から、50型を超える大画面TVまで、さまざまなデバイスで同じ内容の番組を楽しむ。

 活字コンテンツはどうかというと、文字の並びだから自由度が高そうではあるが、実際にはそうじゃない。紙のサイズがコンテンツごとに決まっているので、TVよりも自由度が低いのだ。新聞も雑誌も、そのメディアが規定したサイズの紙に印刷され、基本的に読者はそのままそれを受け取る。おそらくは、視線の動きや、読者の年齢層などが想定されてレイアウトされているはずだ。

 その一方で、紙メディアには縮小という方法論が一般的にもなっている。文庫本やコミックなどがそうだ。これらは、単行本、あるいは、雑誌掲載時よりも、ずっと版面が小さい。それにしたって、結果として受け手が得る体験は、送り手に規定されている。受け手がその縮小率を指定することはできないからだ。

 放送や紙というレガシーなメディアに載せられて届くコンテンツを、PCで楽しもうとしたときに、ぼくらはいったい何を望むのか。それは、器が似ていることは、その1つだ。つまり、レガシーなメディアと相似であってほしいという気持ちがどこかにある。そこに別のフレームワークが割り込んでくることはあまり望まれてはいないんじゃないかと思うのだ。

●レガシーメディアが生んできた偶然という宝物

 たとえば放送は、文字通り、垂れ流しであってほしく、インタラクティブ性は求めない。紙は紙で、レイアウトが勝負で、それを目で楽しむ。そのありのままの送り手側の意図を受け取り、ぼくらは笑ったり泣いたり騙されたり、すかされたりすることを楽しむのだ。

 そして、そこで生まれる重要な要素が「偶然」だ。つけっぱなしだったTVで流れるCMで、未知の分野の商品に興味を持ったり、コンビニの店頭でふと手に取った雑誌のページをパラパラとめくっていて、たまたま目についた記事に読みふけったりという偶然は、ぼくらのインテリジェンスに大きな影響を与えてきた。

 PCには高度な処理能力が備わっているので、つい、それを駆使したくなる。でも、それをやりすぎると偶然が排除されていってしまう。今年は新聞や書籍、雑誌等の紙媒体の電子化が流行りそうだが、コンテンツプロバイダーは、そのあたりをどのように考えているのかが気になるところだ。先頃発表された日本経済新聞の電子版などは、紙面レイアウトと電子レイアウトとの連携がけっこううまく考えられているように見える。また、デイリースポーツの電子版も割り切りの点ですごいと思うが、広告がないのが寂しい。やはり新聞は広告も込みで新聞だ。

 ちなみに新聞紙見開きの対角線はほぼ38インチ、縦方向の高さは約54cmだ。家庭用のTVでは46型ワイドの画面の高さが約57cmなので、それを超えるディスプレイなら実物の新聞紙よりも大きく表示できる。印刷したばかりのインクの臭いをかぎながら手を真っ黒にしてページをめくるよりも、TVの画面で見る方がラクで読みやすいという読者がいても不思議ではない。雑誌なら22型程度のTVでもラクに実物大表示できる。変に凝ったインタラクティブなウェブよりも、スタティックなレイアウトで読ませる雑誌コンテンツの方がいいという判断をする読者もいるにちがいない。ぼくは、手元のマルチディスプレイ環境で、24型ワイドディスプレイ1台を縦にして使っているが、新聞紙1ページよりひと回り小さいものの、これで新聞が読めたらうれしいと本気で思う。

 さて、メダル獲得数が期待したほどに伸びなくて残念なバンクーバーオリンピックだが、果たして浅田真央選手はメダルに手が届くのか。真っ昼間の競技スケジュールを、どこでどのように楽しむのか思案中である。TVでもWebでも、ちょっと遅れて新聞でも雑誌でも、メダル獲得の朗報を期待したい。