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メディアのアイデンティティ

 2016年が始まった。今年も米・ラスベガスで開催されているCES取材からスタートだ。2000年から毎年来ているので、今回は17回目の取材になる。まだ会期は始まったばかりだが、例年通り、その雑感からお届けしたい。

CEAからCTAへ

 CESのメインは展示会ではあるが、ぼく自身のスタイルとしては、会場を歩き回るというよりも、せっせと基調講演を聴講することにしている。その人選や話の内容は、この先1年のトレンドを知る上で、かなり参考になるからだ。なんといっても、今年は、Consumer Electronics Association(CEA)からConsumer Technology Association(CTA)へと主催者の名前が変わった。エレクトロニクスからテクノロジーになったのだ。感覚的には遅すぎる印象もあるが、これも時代を反映してということなのだろう。

 CESそのものは、家電の業界にITの業界が乱入したことの歴史でもある。大ホールの中心で勢力を鼓舞していたベンダーは、IT業界によって隅っこにおいやられてしまった過去もある。ところが今やPC業界などは、もうメイン会場にその姿を見つけることができない。とは言え、第2会場とも言えるホテルの一角にDellやLenovoがアーケード店舗を借り切ってプライベートブースに仕立て上げ、ちょっとしたPCストリートを形成し始めている。いっそのこと、HPやASUS、Acerといったベンダーもここに出展するくらいな動きがあってもいいんじゃないかとさえ思う。

IntelとNETFLIXに対局を見る

 基調講演は、恒例で開催前夜のIntelからスタートした。そして開催初日の朝一番はNETFLIXだ。この両社を見ただけで、なんとなくいろんなことが見えてくる。

 Intelが象徴的だったのは、CEOのBrian Krzanich氏が、終始、Quarkプロセッサ搭載のボタンサイズモジュールCurieとRealSenseの話題に徹したことだ。Skylake? 2-in-1? それってどこのベンダーですか的な展開には恐れ入った。

 コンピューティングを感じるという経験を再発見するための新しい「目」がRealSenseだ。そこはもう同社の力業で、ゲストをとっかえひっかえしながらたたみかけるようにあらゆる実例が矢継ぎ早にデモンストレーションされた。

 形あるものを再定義しようとしているIntelに対して、初日朝一番の基調講演がNETFLIXだったというのも時代を象徴している。

 NETFLIXはもともとDVDレンタル事業者として1997年に起業した。レンタルビデオというと日本では街中のレンタルショップを想像するが、国土の広大な米国内ではその効率も悪く、オンラインでオーダーしてDVDの郵送を待つというシステムは広く受け入れられた。

 しかものちになって定額制借り放題というシステムが導入されたことで、今なお業界一位の座を守り続けている。言ってみれば聴き放題、見放題の走りである。そして、ストリーミングの時代を迎え、世界の映像配信業者NETFLIXとして君臨しているわけだ。

メディアは変わった、はず

 つまりNETFLIXはメディアのあり方を変えた。映画などのコンテンツを見たいと思ったときに、ビデオショップでDVDやBDなどのメディアを購入するのか、レンタルするのか、あるいはTVで放送されるのを待つのか。コンテンツはいろいろなメディアにのっかってやってくるものだということを教えてくれた。

 「この100年で放送はずいぶん変わった」とCEOのReed Hastings氏は言う。放送はそのうち電波からケーブルにメディアを変え、それに伴い、消費者は、今、選択できることを望むようになり、それがビデオレコーダーやプレーヤーなどの普及をうながした。そして、インターネットはオンデマンドTVを容易に享受できる環境を提供した。

 ケーブルTVが20年かけてやってきたことを、ストリーミングは驚くほどの短期間でやってのけイノベーションを起こしたとも言う。

 ここで気がつくのは、NETFLIXはテクノロジー的には何もしていないということだ。すべてあるものを使った。映画コンテンツ、光ディスクメディア、郵便ネットワーク、インターネット。全部そうだ。

 ぼくが2000年に入ったころに予測したことで実現していないことのひとつとして、街からビデオレンタルショップが消えるということがあった。まさに、NETFLIXはそれを地で行く企業だった。メディアというものの概念を覆した偉大な人々でもある。

 ところが基調講演はつまらなかった。既存のコンテンツを提供するのみならず、オリジナルコンテンツの拡充に熱心な同社は、この基調講演の場で、人気タレントをゲストに呼び、オリジナルコンテンツ自慢を延々と続けた。メディアはコンテンツがなければただの土管なのだろうけれど、既存のコンテンツを配信する事業としてのメディアを再構築したはずの同社がコンテンツプロバイダーとしての道を歩み始めている。

 土管としてのメディアは、既存コンテンツだけを扱っていては、そこにのっかるコンテンツは最終的にすべて同じになるように収束する。それは音楽配信でも同じことが言える。ここにしかないものを主張しにくい構造なのだ。だからこそ他では配信されないオリジナルコンテンツで差別化するのはビジネスモデルとしてはまちがってはいない。だが、それがテクノロジーなのだろうかと複雑な印象を持った。

 そして、通信とは縁遠いサービスの拡充に奔走するあの国のキャリアのことなどをいろいろ連想しながら、豪華ゲストで盛り上がる聴衆を横目にそっと席をたった。基調講演を途中抜けしたのは初めてだ。

NETFLIXの回帰路線

 昔はPCを使えるというだけで、それはそれでちょっと自慢ができたものだ。「絵のようなもの」を描ければ拍手喝采でもあった。キーボードを見ないで文字を入力できれば、そこから生み出される文書がどんなに稚拙なものであっても、ドットインパクトプリンタから打ち出されたまるで商業印刷物のような書類ができるだけで尊敬に近いものが得られた。

 そのうち誰もがPCを使えるようになり、PCを使えるだけでは何の自慢にもならなくなった。やっぱり、中味、すなわちコンテンツを作れる人がえらいのだ。絵画しかり、小説しかり、映画しかりである。そこではコンピュータは道具に過ぎない。ごく当たり前のことが再発見されただけのことだ。

 IntelとNETFLIX、その立ち位置は対局にある。だがNETFLIXが100年前に確立されたメディアへと回帰したがっている様子は時代への逆行を感じないでもない。メディアのアイデンティティは本当にコンテンツなのだろうか。

(山田 祥平)