山田祥平のRe:config.sys

ファイルよおまえもか




 よくも悪くも、ファイルという存在は、PCのユーザーであれば、データを入れる器として、常に意識してきたものであり、情報を作る、参照する、加工するといった作業における重要なメタファとして扱われてきた。だが、そのファイルの概念が次第に曖昧に、そして希薄になりつつある。今回は、その未来について考えていくことにしよう。

●スマホがファイルを殺す

 ファイルという形態が希薄になりつつあるのは、やはり、スマートフォン用のOSの影響が大きい。今、ファイルを意識するとしたら、音楽と写真くらいのもので、それ以外はファイルのことを知らなくても何とかなるといった状況だ。音楽にしても単位は「曲」だし、写真は目の前にあるイメージそのものであり、ことさらファイルを意識しているわけでもなく、ファイル名を考える必要もなくなってきている。なにしろ、シャッターを押せばファイルが勝手に生成されるのだから。

 Windowsの提供元であるMicrosoftも、従来のデスクトップはともかく、Windows 8から提供されるMetroStyleアプリでは、データのやりとりに「共有」という概念を強く押し出し、アプリ間での情報のやりとりは、その方法をメインにしたがっているようだ。

 アプリ間でデータをやりとりするためには、かつてはファイルを使うしかなかった。このアプリはあのアプリのデータファイルを読み込めるといったことが重要視されていたのだが、Windowsの登場により、マルチタスクが一般化、クリップボードがより身近なもにになったことで、コピーとペーストでデータをやりとりするようになったことも、ファイルレスのトレンドに大きな影響を与えているのではないかと思う。

 クリップボード経由のデータのやりとりでは、コピー元と貼り付け先のアプリ間で、受け渡しをするデータの種類を調整することができる。たとえば、Microsoft Officeアプリの貼り付け時の挙動を見ればわかるが、貼り付けには複数のオプションが用意されている。文字の貼り付けでも、書式つきか、単なるテキストか、それとも表組みとして渡すのかといったオプションを選べるのはご存じの通りだ。

 こうしたことをファイル単位で行なうのは大変だったが、かつてはそうするしかなかった。それが面倒な場合は、ファイルを介さずに、ストリームを生成し、パイプやリダイレクトといった形でデータを渡すことが行なわれてきた。それがやりやすいプレーンなテキストファイルが重宝されてきたのはご存じの通りだ。この場合、渡せるのはオールorナッシングであり、できることはファイルを介した場合とあまりかわらなかったが、フィルタリングという考え方で、多少は柔軟性を持たせることができた。

 比較的新しいOSでなじみ深くなった共有という考え方は、クラッシックなOSにおけるパイプに似ている。たとえば、

cat < list | sort | uniq

といったコマンドラインは、古いOSの教科書に出てくるようなオーソドックスなものだが、これは、list というファイルをcat、つまり、頭から順番に書き出すコマンドに食わせ、その出力をsortコマンドで並び替え、重複しているものがある可能性があるので、uniqコマンドで重複行を省略するという作業ができている。< は入力を指示するリダイレクトのための記号であり、| は出力を次の入力にする連結パイプのための記号だ。メモとして書き上げた文字列をTwitterアプリを使ってつぶやくのと似ていることがよくわかる。つまり、共有はパイプの発展系だと考えてもいいように思う。

 問題は、共有で、パイプのオールorナッシングがそのまま残っている点だ。渡してから、渡した先のアプリで不要な部分を削除するといった編集が必要になる。その点ではクリップボード経由のコピー&ペーストの方が柔軟性が高い。

●クラウドストレージとファイル

 なぜ、これほどファイルのことを考えるかのかというと、先日来登場しているGoogleドライブやMicrosoftのSkyDriveによるクラウドストレージサービスが、どうしてもファイルを前提としたものになっているからだ。これらのサービスを、ファイルを扱うアプリから利用できるようになると、とても便利なことは明らかなのだが、新しいOS、たとえば、AndroidやiOS、MetroStyleアプリから利用する場合の利便性が今ひとつ明確に見えてこない。

 Microsoft的には一連の関連情報を集めた「ブック」という考え方を、ファイルに応用することで、ファイルを綴じたようなイメージがお気に入りのようだ。古くはExcelがシートを束ねたブックという形式を持っているし、昨今では、OneNoteがそうだ。OneNoteにいたっては、ファイルを保存するという概念がないが、実際にはファイルに縛られてはいるし、SkyDriveに同期するにしても、それはファイルそのものなのだが、ユーザーがファイルの存在を意識しなくてもいいようになっている。

 これらのアプリのように、比較的生産性を意識したものでは、ファイルが前提になりがちだが、多くの作業がどこかにある何かを参照するだけという場合は、ほとんどファイルを意識する必要はなくなりつつある。その典型的なものがブラウザで開くリンクだ。

 かつて、リンクの多くはファイルだったのだが、昨今では、その拡張子を見てわかるように、HTMLファイルでないものが多い。でも、そのリンクをクリックするユーザーは、それがファイルであろうがプログラムであろうがおかまいなしだ。リンクをクリック、あるいはタップするだけ。その結果、期待した情報が目の前に呼び出されればそれでいい。

 IE9では、ステータスバーがデフォルトで表示されなくなってしまったが、このままいくと、最終的にはアドレスバーもなくなっていくのだろう。実際、MetroStyleのIE9は、ステータスバーもアドレスバーもなく、コンテンツがフルスクリーン表示される、いわゆる没頭型といわれるインターフェイスを持っている。

●ユーザー感覚に追いつけていないOS

 OSは、その内部構造として、旧態依然としたファイルやフォルダによるデータの管理をし続けているにしても、ユーザーの感覚はどんどん変わってきている。もはや1通1通のメールが、ファイルだなんて誰も思っていないだろうし、実際には、メールデータベースとして複数のメールが1つのファイルで管理されていることも知っているかもしれない。こちらは受信ボックス、送信ボックスといった「ボックス」という単位で、多くの場合は複数のボックスを1つのファイルで管理しているにちがいない。そして、そのボックスの中にフォルダがあったりするものだからややこしい。

 そもそも、デスクトップなんて概念は、もはや、相当古いメタファだといわざるを得ない。ユーザーはノートPCを持ち歩くことを、作業机を持ち歩くだなんて考えているはずもない。そもそもデスクトップを飾るなら、壁紙ではなく、テーブルクロスではないか。

 Windowsがウィンドウを開くのは、どうして壁ではなく、デスクトップなのか。そして、MetroStyleではウィンドウという概念さえ希薄になる。もう、アプリが相互に連携する時代は終わりになってしまうのか。共有は連携を言い換えただけのものなのか。本当にそれでいいのか。これからはじまるであろうメタファの大改革は、ヒトとキカイの関係を再構築することになるのだろう。面白いのはこれからだ。