福田昭のセミコン業界最前線

エルピーダが辿った苦難の10年



 国内唯一のDRAM専業メーカーであるエルピーダメモリ株式会社の年間収支が、3年振りに黒字に転換した。

 2009年度(2010年3月期)の年間売上高は4,670億円で、前年度(2009年3月期)に比べると41%も増えた。過去最高の年間売上高4,900億円を記録した2006年度(2007年3月期)には及ばなかったものの、年間売上高としては過去2番目の高さである。

 2009年度(2010年3月期)の年間営業損益は268億円の黒字で、過去最悪の営業赤字1,474億円を記録した前年度(2009年3月期)から、一転して過去2番目に高い営業黒字をたたき出した。なお過去最高の営業黒字を記録したのは2006年度(2007年3月期)で、684億円である。

エルピーダメモリの年間売上高と営業損益の推移(2000年度~2009年度)。同社の決算資料から抜粋してまとめた

 2009年度の営業損益を四半期別に見ていくと、第1四半期が大幅な赤字(423億円)、第2四半期が収支トントン(8億円の黒字)、第3四半期が大幅な黒字(304億円)、第4四半期も大幅な黒字(378億円)と尻上がりに良くなってきたことが分かる。特に第4四半期の営業利益378億円は、四半期ベースの営業利益としては過去最高を記録している。

 損益が大きく改善した最大の要因は、PC向けDRAM価格の上昇だろう。1Gbit DDR3-1333 SDRAMのコントラクト(大口顧客向け)価格でみていくと、第1四半期(2009年4~6月)は約1ドルで明らかに採算割れだった。第2四半期(2009年7~9月)になると価格は上昇して1.5ドル前後となり、収支均衡といわれる価格帯に達する。第3四半期(2009年10~12月)にも価格は上昇し、1.5ドル前後だったのが2ドルを超えるようになり、利益の出る価格帯に達した。第4四半期(2010年1~3月期)も価格は2ドル~2.5ドルで推移しており、利益の出る価格帯であることが分かる。といっても2ドルで利益が出ること自体、本コラムで過去に述べたように、もの凄いことなのだが。

エルピーダメモリの四半期別業績(売上高と営業損益)推移。同社の決算資料から抜粋してまとめた
2009年1月~2010年5月におけるDRAM価格の推移。エルピーダメモリが5月12日に発表した決算資料から

 PC向けDRAM価格が2ドル以上を維持していれば、2010年度(2011年3月期)のエルピーダメモリ(以下、エルピーダ)は確実に営業黒字を計上する。エルピーダが2010年5月12日に発表したDRAM市場見通しでは、2010年(暦年)のDRAMビット需要の伸びを50%、DRAMビット供給の伸びを40%としている。すなわち、2010年はDRAMは供給不足のままで推移する。2010年度にエルピーダが営業黒字を計上する可能性はかなり高い。

●発足当時の実態は「DRAMの設計請け負い」会社

 そのエルピーダだが、2000年4月1日に業務を開始してから10年を迎えた。今でこそマーケティング、製品企画、設計・開発、製造、パッケージング、販売といったDRAMメーカーの機能をすべて備えているが、10年前のエルピーダはまったく違っていた。「DRAMメーカー」と称してはいたが、DRAMメーカーの形を成してはいなかった。

 エルピーダが設立されたのは、'99年12月20日のことだ。発足当初の社名は「NEC日立メモリ株式会社」である。NECと日立製作所の対等出資によって設立された。このNEC日立メモリが実際に業務を開始するのは、翌年の2000年4月1日。NECのDRAM設計・開発拠点だった相模原事業場で、次世代DRAMの設計・開発業務を開始した。

 このとき、NEC日立メモリは販売拠点や生産拠点などを持っていなかった。すべてNECまたは日立に残されていた。「国内唯一のDRAM専業メーカー」と称するも、自前の機能は設計・開発だけ。設計・開発請け負い企業と呼ぶべき存在だった。

 NECと日立のDRAM販売機能をNEC日立メモリに統合することが公表されたのは2000年3月31日である。実際に統合が完了したのは2001年春で、NEC日立メモリが発足してから1年以上もかかっている。DRAM事業統合の速度は、お世辞にも素早いとはいえない。

 2001年春の時点では統合ブランドはまだ存在せず、既存のNECブランドと日立ブランドのDRAMが販売されていた。統合ブランドが登場するのは、さらに半年後の2001年秋である。2001年9月28日に統合ブランド「エルピーダ」が発表されるとともに、社名が「エルピーダメモリ」に変更された。

●DRAMのファブレスという奇妙なビジネスモデル

 設計・開発機能と販売機能は持たせてもらえたものの、エルピーダにDRAM生産ラインを統合する兆しは見えなかった。エルピーダが開発したDRAMの生産は、NECの半導体製造子会社である「NEC広島」が受託していた。NECの子会社(合弁会社)が設計した製品を、NECの子会社(100%子会社)が製造するという、やや複雑な図式である。

 要するにファブレスなのだが、DRAMの開発工程は設計と製造が密接に結びついているだけに、ファブレスというビジネスモデルは馴染みにくい。代表的な問題はプロセス技術の移管である。新しいDRAMの開発では、新しい世代のプロセス技術を使うことが少なくない。すなわちDRAMの開発は、プロセス技術の開発も兼ねていた。

 '90年代の国内DRAMメーカーは、開発拠点の小規模な生産ラインで新しいプロセス技術の開発を完了させると、量産拠点の大規模な生産ラインにプロセス技術を移管していた。プロセス技術の移管を円滑に進めることは極めて重要である。新しいDRAM製品の製造コストと生産数量を、大きく左右するからだ。プロセス技術の移管が円滑に進めば、DRAMの生産歩留りは急速に上昇し、製造コストは急速に低下し、生産数量は急速に増加する。プロセス技術の移管にトラブルが発生すれば、すべては逆になってしまう。

 同じ企業の開発拠点と生産拠点の間でも、このプロセス技術の円滑な移管は簡単ではない。しかもエルピーダのように別会社となると、円滑に進む方が不思議だと言えた。NEC広島は、エルピーダの都合だけで動いているわけではない。当然ながら、親会社であるNEC本体の意向を重視する。エルピーダの要望に応えるのはその次、となる。

 別の問題もある。エルピーダから見ると、NEC広島の生産ラインを自由に使えないということは、DRAMの生産数量をコントロールできないことを意味する。迅速な対応が求められるDRAMビジネスでは、これも利潤追求の足を引っ張る。

●DRAM生産拠点を取り戻せ

 当然ながらエルピーダは、自前の生産ラインが欲しい。そこでNEC広島の敷地内に、300mmウェハを処理するDRAM専用ラインの建設を決定する。この生産ラインへの製造設備の導入は当初、2001年12月を予定していた。しかし2001年にDRAM市況が急激に悪化したことから、DRAM専用ラインの稼働は2003年1月まで延期される。しかもエルピーダの300mmラインの運営はNEC広島に委託されていた。エルピーダには生産部門の人員が存在しなかったからだ。

 なお2002年10月3日には、三菱電機のDRAM事業が2003年4月1日付けでエルピーダに吸収されることが公表されていた。これに先立つ2002年3月18日には、三菱電機のシステムLSI事業と日立製作所のシステムLSI事業を統合し、新会社(後の「ルネサス テクノロジ」)を2003年春に発足させることで三菱と日立が合意したことが発表されている。東芝や富士通などは汎用DRAMから撤退を決めていたので、2003年4月以降はエルピーダが日本で唯一のDRAMメーカーとなった。

 状況が劇的に変化したのは、坂本幸雄氏が2002年11月1日に、エルピーダの社長に就任してからだ。坂本氏はエルピーダのファブレスが放置できない重大な弱点であるとの認識から、自前で運営できる生産拠点の獲得に動く。

 そして2003年9月1日。エルピーダはようやく「DRAMメーカー」と呼べる陣容を整え始めた。NEC広島が実質的に、エルピーダの生産子会社となったのだ。エルピーダの100%出資子会社である「広島エルピーダメモリ株式会社」を9月1日付けで設立し、NEC広島が保有するすべての設備を広島エルピーダメモリに貸し出すとともに、NEC広島の全従業員が広島エルピーダメモリに出向した。これでNEC広島に存在するすべての生産ラインを、エルピーダがコントロールできるようになった。その後、2007年7月25日には広島エルピーダメモリを親会社のエルピーダが吸収合併することを発表し、2008年4月1日に合併を完了した。これで生産部門もエルピーダと完全に一体化した。

 また、エルピーダではプロセス技術の開発を、量産拠点の製造ラインを使って実施する方式に変更した。これにより、プロセス技術を開発拠点から量産拠点に移管する手間が減り、新しいプロセス技術によるDRAMの生産を円滑に立ち上げられるようになった。

●親会社の影響力を排除して自主独立の企業へ

 エルピーダの10年を振り返る上でもう1つ重要なのが、親会社の影響力を排除して独立企業へと変わっていったことだ。先に述べたように、'99年12月20日設立された「NEC日立メモリ」はNECと日立の合弁企業だった。出資比率は50対50である。

 それが坂本氏が2002年11月1日に社長に就任して以降、出資元を探して奔走するとともに、株式上場による公募増資を実行したため、NECと日立の出資比率は大幅に低下する。エルピーダが東京証券取引所第一部に上場したのは、2004年11月15日である。坂本社長が就任してからほぼ2年後のことだ。上場後の2005年1月24日に発表された出資比率は、NECが25%、日立が25%である。エルピーダが発足した2000年当初に比べると、出資比率は半分に下がっている。一方で上場に伴う公募増資の割合は35%に達する。

2005年1月24日時点におけるエルピーダの株主構成

 エルピーダの上場後、NECと日立の持ち株比率はさらに減少していく。NECおよび日立が持ち株を少しずつ売却していったことが大きい。2005年9月30日時点では、日立は筆頭株主だが持ち株比率は19.70%と下がり、NECの持ち株比率は13.89%に下がっている。両社を合計した持ち株比率は33.59%である。半年後の2006年3月31日には、日立の持ち株比率は18.97%、NECの持ち株比率は11.13%とさらに下がった。両社を合計した持ち株比率は30.10%である。

 2009年9月30日現在の大株主10社リストでは、NECは持ち株比率3.94%となり、日立に至ってはリストに名前を連ねていない。NECや日立との株主資本の関係は希薄になり、エルピーダメモリは資本的には完全に独立企業になっている。

 エルピーダが発足して販売機能を持つようになった2002年前後の同社は、年間売上高が1,000億円弱の弱小DRAMベンダーだった。それが2006年以降は(DRAM価格が暴落した2008年度を除くと)年間4,000億円~5,000億円と、発足当初の4倍を超える規模を売り上げるようになっている。自前の生産拠点の存在なしには、この規模の売り上げを達成することは不可能だっただろう。

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(2010年 6月 9日)

[Text by 福田 昭]