■大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」■
鳴戸道郎氏 |
富士通の副会長を務めた鳴戸道郎氏が、7月14日午前8時15分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。享年74歳。
'35年3月、静岡県伊東市出身。'58年に東京大学法学部を卒業後、'62年に富士通信機製造株式会社(現・富士通)に入社。企画部門、管理部門に長年携わり、IBMとの15年に渡る大型コンピュータのソフトウェア著作権問題では、陣頭指揮を執って活躍した。'85年には富士通株式会社取締役に就任。'94年には自ら買収を手がけたICL plcの会長に就任するとともに、富士通の専務取締役に就任。'98年には富士通副会長、2000年には富士通総研会長を務めた。
その後、顧問に退いたが、セレスティカ取締役およびセレスティカ・ジャパン取締役会長、Global Business Dialogue on electronic commerce(GBDe)アジア/オセニア地区共同議長、GIICアジア共同議長、NPO法人産業技術活用センター理事長、経団連新産業新事業委員会企画部会長などとして活躍。近年は、トヨタアイティ開発センター代表取締役会長としての活動が中心となっていた。2001年6月には、名誉大英勲章第三位(CBE)を受章している。
富士通が野武士集団といわれた時期に、鳴戸氏の存在は、まさに欠かせないものだった。
決断すれば、すぐに動き出す。そして、自分が思ったことは曲げない性格。上司を困らせた案件にはキリがなかったであろうことは容易に想像できる。自らも「嫌われ者」と語っていたほどだ。実際、自身で手がけたICLの買収は、役員全員の反対を押し切りそれを成功させたもの。いまの欧州における富士通の地盤づくりにつながっている。
そして、富士通における「国際派」の草分け的存在だったともいえる。最大の功績は、やはり、'82年から始まった米IBMとのソフトウェア著作権紛争だ。交渉担当者の1人として活躍した。このときには、現在、富士通社長の野副州旦氏もチームの一員だった。
雲を掴め 富士通・IBM秘密交渉 |
ことのいきさつは、2007年に、伊集院丈氏のペンネームで鳴戸氏がまとめた「雲を掴め 富士通・IBM秘密交渉」(日本経済新聞出版社)に詳しい。小説の形をとったこの書籍は、発刊当時、関係者の間で大きな話題となった。
筆者は一度、副会長時代に、単独でインタビュー取材をしたことがある。'99年のことだ。
取材現場は楽しかった。そして、質問に対する回答が、どこから飛んでくるかわからないといった「怖さ」もあった。
その時の取材ノートを確かめてみた。
「インターネットは重要だ、と演説をぶる経営者に限ってインターネットを触っていないんだよ」というコメントがあった。誰のことを指していたのかは、いまだにわからないが、振り返ってみると、掛け声だけでいまや遅れをとった企業の名前が数社浮かぶ。
「インターネットのセキュリティというだけで、みんな構えてしまう。印鑑の方がよっぽど偽造の可能性があると思うんだけど」というのも、鳴戸氏ならではの変化球のような回答だ。
そして、当時、GBDeアジア/オセニア地区共同議長として、日本での国際会議開催を主導。この時、郵政大臣(現総務大臣)だった野田聖子氏にスピーチを頼んだ経緯にも触れ、「女性大臣が、英語でスピーチしてくれると格好いいんだけど、解散になって、英語が喋れないじいさんが来ることになったら格好悪いなぁ」と、ユーモアたっぷりに語ってくれたことも思い出す。こうしたユーモアセンスも、鳴戸氏ならではのものだった。
世間で2000年問題が騒がれた'99年から2000年への変わり目。コンピュータシステムのトラブルによって、どんな社会的問題が世の中で発生するのか、騒然となっていた時でもあった。2000年1月1日午前1時10分から東京紀尾井町の赤坂プリンスホテル(現グランドプリンスホテル赤坂)で開かれた社団法人日本電子工業振興協会(現・社団法人電子情報技術産業協会)の会見では、当時、同協会会長を務めていた富士通の秋草直之社長が、問題が発生していないことを宣言したが、会見場の一番後ろに陣取り、この様子を安心した様子で眺めていたのは鳴戸氏だった。
もちろん、鳴戸氏はこの問題については、直接的に責任がある立場にあったわけではなかった。だが後輩である秋草氏の会見の様子を、保護者のように見守る風景がそこにはあった。こんなところにも、鳴戸氏の人柄が感じられた。
現在でも、鳴戸氏を師と仰ぐ富士通社員、グループ社員は少なくない。また、富士通を巣立ったOBからも、鳴戸氏の生き方や教えを実践する人も多い。
現在、EMCジャパンの社長を務める諸星俊男社長は、「鳴戸さんから、『思う存分やれ』と言われたことが励みになった」と、EMCジャパン社長就任時のこぼれ話を明かす。
海外事業の成長が重要な課題となっている富士通にとって、海外経験が長い諸星氏のEMC転身は、重要な人材の流出として、社内の動揺も大きかった。また、富士通の現役役員が外資系企業のトップに異動する前例は皆無だったこともあり、社内外からは驚きの声があがった。
外野の想像以上の反応は、諸星社長にも、不安を感じさせることになったろう。そんなときの、鳴戸氏からひとことが励みになったのは容易に想像できる。
富士通グループ最大のディーラーである富士通ビジネスシステム(FJB)の鈴木国明社長も、やはり、富士通からFJB社長に就任する際に、鳴戸氏から助言を得た。
「FJBに行くときには、眼鏡と靴を変えろ」。
その意味について、後日、鈴木社長はこう振り返った。
「眼鏡を変えろというのは、先入観に左右されず、新しい眼鏡でFJBを見なさいということ。そして、靴を変えろというのは、部屋に籠もっているのではなく、社内も社外も徹底して歩き回って、FJBを肌で感じろということ。そのためには新しい靴の底が減るぐらい歩けという意味が込められていた」。
鈴木社長は、それを実践したいと社長就任時のインタビューで語った。
マーシャル C. フェルプス jr.氏 |
今年6月15日、来日した米マイクロソフトのコーポレートバイスプレジデントであるマーシャル C. フェルプス jr.氏にインタビューする機会を得た。
現在は、マイクロソフトで知財戦略を推進するキーマンだが、それ以前は、米IBMで富士通との互換機問題を最前線で担当。米IBM側から、鳴戸氏と対峙する立場にあった人物だ。
フェルプス氏と鳴戸氏は、それぞれがIBM、富士通を退いてから親交を深めていた。鳴戸氏が渡米すれば、フェルプス氏を訪ね、フェルプス氏が来日すれば、鳴戸氏を必ず訪ねるという間柄だ。
それを知っていたので、フェルプス氏の取材が終わった後に、今回の来日でも鳴戸氏の元を訪ねるのか聞いてみた。
そのとき、フェルプス氏は、体調が芳しくない鳴戸氏を今回は訪ねることができないことを、残念そうに語っていた。ちょうどフェルプス氏の著作が完成したばかりであり、それを鳴戸氏に手渡したかったようだ。
「彼は非常に頭がいい。話題も幅広い。いつも驚かされることがある」と、フェリプス氏は鳴戸氏について語っていた。
そして、最後にこんなことを語った。
「ビジネスでは最大のライバル。だが、彼は、引退後は、私にとって最大の友人である」。
ライバルをも虜にしてしまう鳴戸氏の人柄が、人生最大のライバルであった人物の直接の言葉から偲ばれた。
葬儀はすでに近親者で済ませているが、8月6日午前10時30分から、東京・内幸町の帝国ホテル 孔雀の間で、「お別れの会」が開かれる。喪主は、妻のふささん。
(2009年 7月 23日)