山田祥平のRe:config.sys

遠くにいればずっと好きでいられる
~HPが考える周辺機器の新しい立ち位置




 Hewlett-Packard(HP)のイメージング&プリンティンググループが、アジア太平洋地域における新たな戦略を発表した。新製品の数々とともに発表されたHP ePrintソリューションは、PCの周辺機器の概念を、大きく覆す可能性を持っている。

●通信デバイスとしてのプリンタ

 今回発表されたHP ePrintソリューションは、2つの代表的なファンクションによって実現されている。

 1つはプリンタそのものをアプリケーションのプラットフォームにし、インターネット接続されたプリンタ上でアプリケーションを実行することによって、さまざまな印刷結果が得られるというもの。

 そしてもう1つは、プリンタ1台1台にインターネットメールアドレスを割り当て、そのアドレスに対してファイルを添付したインターネットメールを送れば、その結果が出力されるというものだ。

 1つめのファンクションは、離れた相手と通話するためだけのデバイスだった携帯電話がアプリケーションの実行環境として機能するようになったのに似ている。最初は簡単なメッセージのやりとりができるだけだった携帯電話は、iモードアプリが出てきたころから、さまざまな機能を実装するになった。今、iPhoneアプリやAndoroidアプリの充実を見ると、携帯電話はまさに手のひらにのるコンピュータそのものだ。

 そして、もう1つのファンクションであるインターネットメール経由でのプリントアウトだが、こちらは、インターネットメールを送信できるデバイスであれば、そのすべてがプリントの機能を持つことができる。

 ファイルの種類はまだ限定されているが、Office文書、メール本文としてのプレーンなテキスト、そして、写真などがサポートされている。プリンタに割り当てられたアドレスにメールするだけで、目の前、あるいは、はるか彼方にあるプリンタにその内容を出力することができるのだ。

 プリンタをデバイスに接続する必要もなければ、ドライバソフトのインストールも必要ない。ただメールするだけで、プリント結果が得られる。これは素晴らしいことだ。

●アプリケーションプラットフォームとしてのプリンタ

 1つめのファンクションであるアプリケーションプラットフォームとしてのプリンタは、正直なところ、個人的には、それほど大きな期待をしていない。携帯電話におけるこの手のソリューションが大成功したのは、携帯電話はいつも手元にあるデバイスだからだ。かつて、人はコンピュータを使うために、コンピュータの設置された場所に移動していたが、それをしなくてすむようにしたのが携帯デバイスだ。家庭やオフィス内における一定の場所に常置されるプリンタがアプリケーションプラットフォームとしての機能を持ったとしても、果たして、わざわざそこに行ってまで操作をしたくなるかどうか。そういう意味では、このファンクションの実装は、時代に逆行するものであるともいえる。

 もちろん、世界最大のシェアを誇るHPである。コンテンツプロバイダーのリクルーティングにもぬかりはないはずだし、喜んでサポートするコンテンツプロバイダーも少なくないだろう。だが、プリンタのそばまで行きたくなるほど魅力的なアプリケーションが、永続的に整備され続けるかどうか。個人的にはそれほど期待できないんじゃないかと思う。

 ただ、プリンタに実装されているマルチタッチの液晶デバイスが取り外しできて、家の中ならどこでも持ち運んでワイヤレスで使えるというなら話は別だ。でも、そこにはコストの壁が立ちはだかる。何しろHPは99ドルのプリンタにも、今回のソリューションを提供しようというのだから、それはなかなか難しいかもしれない。

 それなら、すでに多くの人々が所有している携帯電話そのものを、プリンタのアプリケーションプラットフォームにしてしまうことはできないか。そのとっかかりとなるものが、今回の2つめのファンクションであるメールによるプリント出力だ。

●メールが媒介するプリンタ出力

 たとえば、iPhoneやiPadのメモアプリを見ると、その内容をメールで送信する機能が実装されていることに気がつく。それ以外にも、データをメールで送信する機能を持ったアプリは多い。つまり、今のままでも、ある程度のアプリは、今回のHPのソリューションの恩恵を受けることができる。プリンタに割り当てられたアドレスにメールするだけで、その印刷結果が得られるからだ。

 もし、このメール送信機能に、ちょっとしたコードを追加し、もう少し、リッチな印刷結果が得られるようにしたらどうか。コンテンツプロバイダー側にとっても、HPのプリンタ専用にアプリケーションを開発するよりも、大幅に障壁は低くなる。場合によっては、今見ている画面のハードコピー相当を印刷できるだけでも喜ぶユーザーはいるかもしれない。クーポン券の印刷などは、それで十分だ。それなら実装もそんなに難しくないはずだ。

 もちろん、Androidプラットフォームだって、iモードプラットフォームだって、なんだってかまわない。なにしろサポートされた形式でメールを送る機能を実装するだけで、世界シェアナンバーワンのHPプリンタに印刷出力ができるようになるのだ。

 パーソナル化が進むPCや携帯電話と違い、プリンタは家庭に1台しかないケースが多い。それほど頻繁に使うものではないプリンタだから、この状況は当分そのままだろう。そのプリンタで個人認証が必要なアプリを動かすよりも、携帯デバイスでコントロールするのがリーズナブルだ。

 ビジネスの現場でも役に立ちそうだ。たとえば出張先のホテルでビジネスセンターを利用してプリントアウトをしようとする場合も、今なら、USBメモリなどにファイルを保存し、それを読み込ませてプリントする必要がある。だが、このソリューションを利用すれば、メールを送るだけですむ。自分のPCにドライバをインストールする必要もなければ、誰が使ったのかもわからないPCに自分のUSBメモリを装着する必要もない。これなら安心だ。

 あるいは、得意先を訪問する直前に、なんらかの印刷結果が欲しくなったとしよう。こちらは、パブリックプリンタを設置したコンビニなどで、そのプリンタに割り当てられたメールアドレスにファイルを送るだけでいい。課金の方法はいくらでも思いつく。現時点では100ページある文書から、8ページ目だけをプリントさせる、といった機能はないが、こうしたプリントオプションがサポートされるのも時間の問題だろう。

●新たなプリントニーズが生まれる

 こうしたユーセージモデルを考えたときに、プリンタそのものには、それほど高度な機能を実装する必要がないことに気がつく。つまり、単に出力するだけのシンプルな単機能機でも十分なわけだ。それなら50ドル以下のプリンタでも実現できそうだ。

 だが、今回発表された新製品は、そのすべてが複合機だった。つまり、出力機として印刷ができる以外に、スキャナからイメージを取り込むことができるのだ。HPとしては、そのことをまだ前面には押し出していないようだが、スキャン結果をクラウドに保存し、それを携帯デバイスで取り出すことができれば、それはそれで便利だ。外出時に持ち出したい紙情報を、携帯デバイスに送り、いつでも手元で参照できるようにする。ここでは、プリンタというデバイスが出力デバイスではなく、入力デバイスとして機能する。まさに複合機だ。

 いずれにしても、これまではプリンタとあまり縁のなかったデバイスが、インターネットメールを媒介にすることで、それらがごっそり複合機としてのプリンタを活用できるようになるわけだ。これは、HPにとっては、大きなビジネスチャンスとなるだろう。

 ちなみに、HPによれば、全世界で、インターネットにつながるデバイスの約半分はアジア太平洋地域にあるのだという。これは欧米の4倍の数であり、さらには2013年までには10億台のスマートフォンがこの地域で使われるだろうとHPはいう。わかりやすくいうと、インターネットユーザーの6人に1人はアジアに住んでいるということだ。

 HPは、このアジアの数字を積極的にくみ取ろうとはしてこなかった。今回のソリューションには、その反省も盛り込まれている。HPは、今回のソリューションの登場以前の環境を旧世界、登場以後の環境を新世界と称しているが、旧世界ではPCがあってのこそのプリンタだが、新世界ではその常識が覆るという。

 問題もある。たとえば、中国の携帯電話ユーザーの多くは、テキストコミュニケーションのために「メールのようなもの」としてSMSを使うケースがほとんどだ。彼らの携帯電話はインターネットとつながってはいない。もちろん機能そのものがないわけではなく、利用するためにはキャリアに対してインターネット接続を申請する必要があるのだ。だが、それによって行き交うパケットコストなどのために、彼らはSMSの世界に閉じることを選んでいる。そして、それで何の不便もないと思っている。今後、iPhoneなどのスマートフォンがさらに普及し、3Gのネットワークが当たり前になれば状況も変わっていくだろうが、少なくとも現状はそうだ。

 また、日本の例を見ると、昨今の若年層は、すべてのコミュニケーションを移動体通信に頼る傾向が強い。固定電話がない、当然、ADSLもないし、光ファイバもない、そんな環境に、インターネットに接続しないと機能しないプリンタが、どう入っていけるのか。これもクリアしなければならない課題だ。

 PCの単なる周辺機器だったプリンタ。離れた場所に置かれたPCのコンパニオンとして頼もしい存在だった。HPは、その立ち位置を再構築しようとしている。周辺機器としてではなく、インターネットにつながる対等の立場のインテリジェントデバイスとしてプリンタを再定義しようとしているのだ。PCとの蜜月を精算するわけではなさそうだが、これまで阻んできたデバイスを広く受け入れることで、新たなプリントアウトのニーズも生まれるだろう。もうプリンタはPCの単なる周辺機器じゃないということだ。