■山田祥平のRe:config.sys■
TVの向こう側には人間がいると感じるのに、Webの向こう側にいるのはコンピュータのような気がする。オンデマンドのWebの方がずっと融通がきくのに、融通のきかない放送に人間の存在を感じるのだ。
●人々はTVに何を求めているのかグラッときて、ああ、地震だと思ったときに、次にとる行動は、大抵TVのスイッチを入れて震源地や震度を確かめることだ。そのときに生放送をしていれば、スタジオのタレントやアナウンサーが何かしらのアクションを取るだろうし、生放送でなくてもテロップが入り、大きな地震なら急遽、編成が変更されて、臨時ニュース番組がオンエアされる。でも、地震だというときに、すぐにPCを開いて、状況を確かめるというユーザーはそんなに多くはないだろう。でも、気象庁のサイトなどを確認してみると、TVに負けないくらいに迅速に情報が更新されているのだ。
この原稿を書いている8日は、台風一過で、午後の東京には、実にさわやかな青空が広がった。強かった風も、夕方には収まった。でも、今、台風はどこにいるんだろうと思ったときに、TVをつけても、その情報を得られるとは限らない。おそらく、北の方では、東京が穏やかな空になった時点で暴風雨域に入っている地域もあるはずだ。夕刊には今朝の台風による混乱が放送されるだろうし、夜のニュースも、そうにちがいない。そして、そういうものである。
でも、インターネットを使えば、今、台風がどこにいるのかがわかる。たとえば、ウェザーニュースのサイトでは、トップページに現在の台風の位置が表示されていた。ただし、この原稿のこの部分を書いている時点では2時間30分前の位置が表示されているにすぎない。でも、気温や降水量、雨雲の様子などは、ほぼリアルタイムで確認できる。もちろん、気象庁のサイトでも、かなり詳しい情報を得ることができる。知りたいときに直近の様子を知ることができるという点では、TVよりも、Webはずっと適している。
●匿名性とコンピュータの気配TVの向こうに人を感じるのに、Webの向こうに人を感じないのは、どうしてなのだろうか。もちろん、インターネットも単に電気通信のための手段にすぎないのだから、放送を送ることはできる。実際、IPによるTV放送の再送信も行なわれているが、そこでは、Webがインターフェイスになっていない。ストリーミングによる生放送は放送じゃないのかという声が聞こえてきそうだが、そもそもTVとは異なる受け止め方をしているように思う。
'85年に電気通信事業法が改正され、パソコン通信サービスが始まったとき、PCの向こう側に人を感じるって、こういうことなんだと思った。それまでは、PCを操作していても、応えてくれるのは目の前にある機械だったのが、PCが通信機になって、向こう側にいる生身の人間と、リアルタイムで、あるいは、メールやBBSなどの非同期の手段でコミュニケーションできるようになったからだ。
パソコン通信の時代には、自分の素性をサービス側に明かさなければ会員にはなれなかったし、草の根BBSのようなシステムにおいても、匿名性は希薄だった。それが今、Webの時代となり、多くのブログが書かれ、トラックバックやコメントの仕組みで、見知らぬ者同士が、匿名性を保ったままでコミュニケーションできるようになっている。最終的にはプロバイダーが通信の記録を持っているので、完全な匿名性は得られず、ドラマの世界などでは、簡単に発信元がつきとめられたりもするのだが、基本的には、それはわからないということを前提に、コミュニケーションされている。もしかしたら、コミュニケーションの相手は、高度にプログラミングされた人工知能である可能性だってある。そこに、今ひとつ、Webの向こう側に人間を感じにくい要因があるのかもしれない。
●垂れ流しの美学TVは融通がきかない。受け手ができるのは、チャンネルを切り替えることだけだからだ。基本的には送り手側の都合で編成された1日の内容を無条件に受け取るだけで、その内容に分岐はない。そういう意味では、24時間365日続く、果てしないストリーミングであり、基本的にはその時間にそこにいなければならない同期のメディアである。
ビデオデッキなどのさまざまな技術は、その同期の縛りを緩くしてきたが、Webのリンクをクリックするように、人々が積極的にTVに対して働きかけるかといえばそうではないだろうし、例え、働きかけられたことが送り手側でわかったとしても、それでドラマの結末を変えられるわけでもないだろう。すべてが予定調和の元に進行し、だからこそ、受け手は安心してTVを見ていられる。「今、地震が起こりましたが、地震情報を見ますか、それとも、このドラマを続けて見ますか」なんて尋ねてくるインタラクティブなTVなんて、ちょっと考えたくないし、1対多のブロードキャストである以上、それはできない。できるとすれば多数決くらいのものだろうけど、それをやるかどうか。
つまり、スイッチを入れれば、そのときにやっている放送が、文字通り、垂れ流されてくる受け身のメディアがTVであり、その位置づけは、そうそう変わるものではない。いくら送り手側が変わろうとしても、この半世紀、連綿とそれに慣らされてきた受け手側の意識は変わりそうにない。
そのTVを変えられるのは通信機としてのPCだけだろう。受信機ではなくて双方向の通信機なのだ。ちょうど、TVと似たようなスクリーンを持ち、動画を映し出す。でも、変わることのできたTVは「TVのようなもの」かもしれないが旧来のTVではない。そんなめんどうくさいTVに、人々が親近感を感じるかどうかは疑わしい。すべておまかせで、やめろと言うまで、つまり、スイッチを切るまで、いやおうなくお仕着せの編成内容を流し続けられ、それに身を委ねて、何ら積極的に働きかけなくてもいい心地よさ。まるで自分の気持ちを見透かされているかのような、視聴者オリエンテッドな編成。そこに送り手側の人間を感じる。明日のTVはそうあってほしい。それ以外の部分はPCが引き受ける。