バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話
第1章 コンピュータ黎明期から汎用コンピュータの時代(4)
2017年4月13日 06:00
2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!
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シリの都市伝説はイライザから始まった1966年
iPhoneに内蔵されているシリ(Siri)に話しかけるといろいろと答えてくれます。ですが禁断の質問がいくつかあり、その一つが“シリの都市伝説”について聞くこと。シリに尋ねるとイライザがシリの最初の先生で友達だったと答えてくれます。このイライザっていったい誰でしょう。
「旅に出たいなあ」
「あなたは旅に出たいのですか」
「そう、できたら紅葉している青森あたりがいいなあ」
「では、青森についてもっと教えてください」
コンピュータのモニター上での会話です。会話している相手が人間ではなくコンピュータだとしたらどうでしょうか。最近の人工知能はここまで進化したのかと思われるかもしれませんが、この会話するコンピュータ・プログラムが登場したのは1966年。今から半世紀以上も前です。
会話するプログラム「 イライザ」
プログラムの名前はイライザ(ELIZA)。基本的にオウム返しするようプログラミングされています。相手が「頭が痛い」と言えば、「どうして、頭が痛いのですか?」と返答します。イライザは簡単な構文解析をおこなって相手の発言からキーワードを抜き出し、疑問文に変換することで会話を成り立たせています。ただ会話を続けていると、つじつまがあわなくなりプログラムと会話していることに気づきます。なかには相手がプログラムだと思わず、そのまま長時間、会話を続け最後まで気がつかない人もいます。
プログラムが人工知能かどうかを判定するためのチューリング・テストがあります。画面とキーボードの文字のみの会話をおこない、自分が会話している相手が人間かプログラムかを判定します。明確に区別できなければ、そのプログラムはチューリング・テストに合格したことになります。
イライザはチューリング・テストを突破できる最初のプログラムともいわれました。イライザはセラピストが患者との会話でオウム返しなどをしながら、患者の悩みや思いを聞く行動を模倣しています。イライザが登場した時、プログラムと気づかずイライザは自分を理解してくれたという人も出てきました。人間、誰かに話すだけで気分が晴れ、すっきりするものです。イライザは最初の癒やし系プログラムと呼ばれています。
私がかつて勤めていた会社のコンピュータに、イライザとよく似たドクターというプログラムがありました。このドクターを使って、どれだけ人間らしい会話を続けられるかが技術者仲間で、はやっていました。質問の仕方によっては思った以上に、きちんとした会話を続けることができ、プログラムの完成度の高さに驚いたものです。
マウス誕生は意外に古い 1968年
パソコンのボタンといえばマッキントッシュは一つ、ウィンドウズは二つです。パソコンショップでは五つのボタンがついているマウスが発売されており、ゲームで使うコマンドをボタンに割り当てることができ便利です。なかには二十もボタンがついているマウスもあります。二十個ものボタンをどうやって操作するのでしょうね。
『アラン・ケイ』(アラン・C・ ケイ)によればマウス誕生は意外に古く、1968年12月9日におこなわれた「伝説のデモ」で登場します。
デモンストレーションをしたのがエンゲルバート博士(アメリカの発明家)で、サンフランシスコでおこないました。その当時は、ディスプレイには解像度が悪い文字しか出ない汎用コンピュータ時代でした。しかし、デモではディスプレイに文字だけでなく画像が映し出され、しかも一つの画面にたくさんの画面が表示できるマルチウィンドウが出ていました。
エンゲルバート博士が箱のようなモノを動かすとディスプレイのなかの矢印が移動し、デモを見ていた聴衆にあたかもSFの世界を見ているかのような衝撃を与えます。このデモは、その後のコンピュータに多大な影響を与えた「伝説のデモ」と呼ばれています。ユーチューブでこのデモを見ることができます。
エンゲルバート博士が動かしていた箱には、二つの車輪がついており、X軸、Y軸方向にどれだけ動いたかを検知し、矢印を動かします。中にボールは入っておらず、ボタンが一つついていて、今とは反対に手首側からコードが伸びていました。このコードが使いにくかったため、すぐに改良されました。このコードがシッポのように見えたこともあり、研究所の誰かが箱を「マウス(ねずみ)みたいだ」といったことから、箱はマウスと名づけられたといわれています。
マッキントッシュのボタンは一つ
デモを見て衝撃を受けた聴衆の一人にアラン・ケイがいました。やがてアラン・ケイはゼロックスのパロアルト研究所で、パーソナルコンピュータの原型となる「アルト(ALTO)」を作り上げます。1979年、アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズがパロアルト研究所を訪問し、アルトを見て衝撃を受けます。この時、アルトのマウスにはボタンが三つついていました。
1983年、ジョブズはマッキントッシュの前身となるリサを開発しますが、リサには最初からマウスが装備され、エンゲルバート博士のマウスと同じくボタンは一つでした。ユーザの使いやすさを考えてシンプルな一つにしたのでしょう。1984年、スーパーボールでジョージ・オーウェルの小説『1984』をモチーフにした広告がおこなわれ、マッキントッシュが誕生しますが、一つボタンのマウスはリサからマッキントッシュへと受け継がれます。
マイクロソフトから発表されたマウスのボタンは二つでした。二つにした理由はアルトやマッキントッシュのマネをしたと言われないようにするためという説がありますが、ボタン一つでは難しい操作を、もう一つボタンがあればやりやすくなるということから生まれたのでしょう。
『パソコン創世記』(富田倫生)によると、日本のパソコンにマウスがつけられるのは日本電気(現NEC)が出したPC-100からです。ビル・ゲイツとビジネスをしていたアスキーの西和彦氏がサンフランシスコから日本へ帰国する機内で、京セラ社長の稲盛和夫氏と知り合います。稲盛社長は、西氏が語るパソコンの話に魅了され、パソコンを共同開発することになります。
マッキントッシュ発売以前の1983年に、京セラのOEMで日本電気から発売されたのが「PC-100」。マウスとMS-DOSを標準装備したパソコンで日本版「アルト」を目指し開発されました。ディスプレイは縦置き・横置きに切り替え可能で先進的なパソコンでした。
マウスは、まだまだ高価だったため、トラックボールをベースにして安価なマウスの開発がすすめられました。西氏の手のひらにあうように模型を作り、アルプス電気が開発してOEM供給されます。ただ日本電気がPC-98シリーズに力をいれるようになったため、後継機種が開発されることなく市場から姿を消し、PC-100は不遇の名機と呼ばれるようになります。PC-100は2016年、国立科学博物館により重要科学技術史資料(未来技術遺産)として登録されました。
今の光学式マウスと異なり、当時のマウスは硬質プラスチックの筐体に入っていました。ボールを微妙に動かして操作しなければならず、ホコリやゴミを巻き込んだので、ときどきボールを出して、ゴミをふき取る必要がありました。手間がかかるためアンチマウス派が登場し、キーボードのファンクションキーにショートカットを割り当てて、マウスを使わずにすませるユーザが登場します。マウスを使わずに操作する姿は、なかなか華麗でした。