バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話
第2章 インターネット・パソコンの黎明期(1)
2017年4月17日 06:00
2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!
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1969年 | インターネットがはじまる |
1971年 | インテル4004 マイクロプロセッサ誕生 |
1975年 | マイクロソフト創業 |
1976年 | アップル創業 |
日本電気がTK-80(組立キット)発売 | |
マイコン雑誌『I/O』創刊 | |
1977年 | 『月刊アスキー』創刊 |
コンピュータを単独で使う時代からネットワークで使う時代へと移っていきます。
江戸時代、全国の米価格は大阪・堂島の相場が基準でした。地方では一刻もはやく堂島のコメ相場を知ろうと考え、作られたのが旗振り通信システム。見晴らしのよい山から山へ旗を振ってコメ相場を伝えました。伝える範囲は広く、西は九州北部から東は江戸までの距離をバケツリレーで情報伝達します。たとえば大阪から広島まで二十七分という短時間で伝えられました。旗振り通信システムは電話が企業で使われるようになる大正時代まで存続、今でも日本各地に旗振り山、相場山などの名前が残っています。
1969年にインターネットがスタートしますが、当時のインターネットは電話回線で結ばれていました。常時接続できる専用線はありましたが、専用線を導入したら目玉が飛び出るような通信費になります。多くの企業や大学では電話回線を使って一定時間ごとに隣りあったマシンと接続し、情報交換していました。交換したなかに自分宛の情報があれば取り出し、それ以外の情報を次のマシンに送り出します。つまり旗振り通信システムと同様にバケツリレーによって情報が次から次へと伝えられました。これによって直接つながっていない相手とも情報のやり取りができます。
メールもバケツリレーで送っていたので、バケツリレーの途中でたとえば大学のサーバがあり夏休みに止まってしまうと、メールの伝達が止まってしまいます。夏休みが終わってサーバが動くと、随分前のメールが届くなんてことがありました。インターネットに接続されている大学や企業が少なく、回線の迂回路がなかった時代の話です。
1970年は日本にとって転換点となった年です。岡本太郎が作った“太陽の塔”が現存していますが、この太陽の塔が活躍していたのが日本万国博覧会。ロボットや人間洗濯機、携帯電話などの展示があり、手塚治虫が描いたような未来がくるのだと日本中がワクワクしました。“動く歩道”なるものまで登場しました。生の外国人をはじめて見る庶民が多く、会場で外国人を見かけると有名人でもないのにサインを求めていました。サインを求められた外国人もニコニコ、サインに応えていました。初めて外国を身近に感じた年でグローバル化への第一歩となります。
そんな日本に襲い掛かったのがニクソン・ショック。1ドル三百六十円の固定相場がガラガラと崩れ、変動相場制に移行。為替、円高、円安という言葉が一般化するのはこの1971年からになります。この年はパソコンの頭脳となるマイクロプロセッサ(インテル4004)が生まれた年でもあります。その後に発生したのがオイル・ショック。なぜかトイレットペーパーがスーパーの店頭から消え、売りだしがあると一人二点までと制限があったので親は子供を連れて頭数を揃えて並び買ったものです。
マイコンやインターネットが登場した頃の話になります。
インターネットは冷戦時代にスタート 1969年
「13デイズ」というハリウッド映画が2000年に公開。ケネディ大統領の時代にあったキューバ危機をテーマとした映画で、ケビン・コスナー主演でした。第三次世界大戦が勃発したかもしれないという緊迫の十三日間を描いた内容で、一歩間違っていたら私もあなたもこの世にいませんでした。
映画で描かれたキューバ危機というのは東西冷戦時代の1962年10月に勃発した事件です。日本では1960年に安保反対闘争があり、東大の女子学生だった樺美智子さんが全学連と警察隊の衝突のなかで死亡。岸内閣が総辞職し、浅沼日本社会党委員長が暗殺される騒然とした時代でした。
アメリカのフロリダから肉眼でも見えるほど近距離にあるキューバに社会主義政権が1961年、誕生します。このキューバにミサイル基地が作られることになります。
アメリカと対抗していたソ連がキューバにミサイル基地をつくれば、アメリカの庭先へピストルを突きつけることができます。ミサイルには核搭載が可能でした。この危機に対応したのが四十五歳の若き大統領ジョン・F・ケネディ。そして大統領を支えたのがアメリカ史上最年少の司法長官ロバート・F・ケネディ(三十六歳)、ケネス・オドネル大統領特別補佐官(三十八歳)で、映画ではケビン・コスナーがケネス・オドネル役でした。この若き三人が映画「13デイズ」のポスターにもなっています。
ミサイル基地建設を確認したアメリカが建設を阻止するため海上封鎖をおこない、ホワイトハウスとクレムリンで息詰まる神経戦が繰り広げられます。最終的にはソ連のフルシチョフ首相が譲歩し、戦争は避けられました。一歩間違えれば、私も皆さんも今ここにいなかったかもしれなかった事件です。実際にケビン・コスナーが妻に電話しているシーンが出てきます。『私が消してもいいと言うまで、テレビをずっとつけておきなさい。もし警報がテレビから流れたら、ただちに核シェルターに避難しなさい。』というセリフです。
仲が悪かったアメリカとキューバですが、2015年7月20日、1961年に断交して以来五十四年ぶりに国交の正常化が実現しました。
インターネットで最初に送られた文字は「L」
アメリカにとってソ連からの大陸間弾道ミサイルにどう対応するかが大きな課題でした。宇宙空間でミサイルを撃墜するスターウォーズ計画が議論され始めたのもこの頃です。緊迫した時代だった1961年、ユタ州で電話中継基地の爆破事件が発生します。爆破によって電話がストップし、アメリカの国防回線が一時的に止まってしまいました。アメリカ国防総省は事が起きれば、従来の電話網はまったく役に立たなくなると考え、新たな通信システムの研究を始めます。
アメリカ国防総省が大学に予算を出し、分散ネットワークの研究をおこないます。研究の成果として目的地までの経路を自ら考えながら決める装置が考え出されました。装置の名前をIMP(Interface Message Processor)といいます。拠点がやられてもIMPが迂回路を考え、目的地まで情報を伝達します。皆さんがインターネット接続する時に無線LANルーターを使っていますが、このルーターのご先祖がIMPです。
最初のIMPはUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)に設置されました。UCLAはロサンゼルス市の西、ウェストウッドというところにあります。高級住宅街ビバリーヒルズやハリウッドが近くにあります。
続いてスタンフォード研究所にIMPが設置され、UCLAとネットワークで結ばれました。スタンフォード研究所はパロアルト市に隣接するスタンフォードにあり、シリコンバレーの中心です。
1969年にUCLAからスタンフォード研究所に「LOGIN」(ログイン)というデータが送られます。最初の「L」と「O」の文字が送られたことは電話で確認されています。ですが、この時点でシステムダウンしてしまいました。バグがあり修正されUCLAからスタンフォード研究所へログインすることができ、インターネットがスタートします。二拠点が安定的につながるようになった11月21日がインターネット記念日になっています。
二拠点以外にカリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学にもIMPが設置され四つの拠点を結ぶネットワークができます。国防総省(DARPA)が予算を出し、作られたネットワークですのでアーパネット(ARPANET)と名づけられ、これがインターネットの元祖となりました。
インターネットでデータを送れるのは「焼き芋」のおかげ 1969年
携帯電話やスマホでよく聞くパケ放題。パケはパケット(小包)の略です。昔、リアルな小包を送る時、国鉄の駅まで小包を持っていって列車に運んでもらい、受け取る方も国鉄の駅まで行かないといけない時代がありました。そこに登場したのが宅配便! 物流のエポックメーキングになりましたが、パケットは通信技術の画期的な仕組みになります。
離れた二地点で通信するには回線が必要になります。電話で通話する場合、回線を専有しますので話をしている間、他の人は回線を使えません。そこで専有せず皆が共有して通信するために考えられたのがパケット通信という仕組み。データをパケットという小包にわけて送り出します。
小包(パケット)には送り先、差出人、何番目の小包(パケット)という情報がついていて、最適な回線に送り出します。たまたま送り出す時点で最適な回線を選びますので、一つ前の小包(パケット)を送り出した回線と同一とは限りません。つまり電話のように回線を専有せずに皆で共有でき、安価に運用することができます。
受取側では小包(パケット)が届いたら何番目の小包(パケット)なのか確認し、並べ替えをおこない、元のデータに復元します。回線の状況によっては途中で小包(パケット)が壊れたり、なくなったりします。受取側で何番目の小包(パケット)が届いていないのかわかりますので、送信元に連絡して送り直してもらいます。
回線が途中で切れた場合、迂回路はないか自動的に探し出して送り出します。皆さんが携帯電話やスマホでメールを送り、パソコンでホームページを見る時などに、こんなことがパケット通信としておこなわれています。
小包(パケット)を送り出す時に焼き芋を使う
小包(パケット)を送り出す時にどこのネットワークを使うか決めなければなりません。そのための仕組みをルーティングと呼んでいます。ルーティングとは回線(経路)を決めて送り出すことで、ルーターという名前の装置が担当しています。皆さんの家や職場に無線LANルーターがあると思いますが、これは無線+LAN+ルーターの三つの装置が一つになったもの。このルーターが小包(パケット)の処理をしています。
家や職場だけでなくネットワークとネットワークのつなぎ目にもルーターがあり、ルーターは「この宛名に送るには誰(ルーター)に渡せばよいか」と書かれたメモを持っていて、新しくインターネットに接続された企業や大学があると、ルーターどおしで情報交換し、メモを最新のものに書き換えています。
ルーターはこのメモを使って、相手へ届ける最短経路を計算し、情報を送り出します。情報は最適経路のルーターを一台一台通過して相手に届きます。メモは常にアップデートされていますので、今では大学が休みで最短経路のルーターが途中で止まっていたら、次に短い経路を計算して情報を送り出しています。この時の計算のやりかたを“ホットポテト探索的ルーティング”と呼んでいます。ホットポテトとは文字通り、“焼き芋”のことです。焼き芋は持つと熱いので、すぐに他の人(ネットワーク)に渡そうというところから名づけられました。
インターネットは誰が管理しているの? 1969年
電話ならNTT、電気なら電力会社と、誰が管理しているかすぐイメージできますが、インターネットって誰が管理しているのでしょうか。インターネットはアメリカ生まれですが、アメリカ国家が管理しているわけではなく国連も管理していません。では一体誰が?
インターネット接続している個々のネットワークには、もちろんネットワーク管理者がいます。会社なら情報システム部や総務部が担当していますし、プロバイダにも管理者がいます。しかしインターネット全体を管理している組織はありません。ネットワークを構成する会社やプロバイダが、需要に応じて回線増強や他のネットワークとの接続をおこなう自律分散型になっていて、個々のネットワークが最適な行動をとることでインターネットが成り立っています。
インターネット全体を管理している組織はありませんが、資源の割り振りや共通の決め事はどこかで決めなければなりません。そこで団体が役割分担していますが、行政や営利団体ではなく非営利団体がおこなっています。
たとえばIPアドレスというインターネットの住所を管理している組織がICANN(Internet Corporation for Assigned Names and Numbersの略で本部はカリフォルニア)です。
インターネットの標準化を担当するIETFには誰でも参加できる
A社が作ったコンピュータとB社が作ったコンピュータが通信するには、共通の決まりごとが必要です。インターネットの共通の決まりごと(標準化)を担当しているのが、IETF(Internet Engineering Task Force)という団体です。IETFへの参加は個人であれば誰でも参加でき、会合や個別の技術に関して議論をおこなうワーキンググループやメーリングリストに加入することができますが、議論は英語になります。IETFの会合でのドレスコードは、ジーンズ、Tシャツにサンダルが標準。お祭り騒ぎしながら技術的には真面目に討議しています。
新しい技術を提案したい人は提案をドラフトと呼ばれる英語の文章にまとめてIETFに送ります。ドラフトが検討され、インターネットにとって有効だと判断されると、RFC番号が割り振られIETFの公式書類としてサーバで公開されます。RFCとはリクエスト・フォー・コメントの略で「コメントちょうだい」という意味です。さらに議論され共通の決まりごとになります。メーカーなどは、このIETFサーバの共通の決まりごとを参照して製品化します。
コーヒーポットを制御するRFCで早々とIoTを実現も
コーヒーポットへコーヒーを取りに行った時、ちょうど入れ頃の状態になっていたらステキだと思いませんか。コンピュータ技術者は夜遅くまで仕事をすることが多く、必須アイテムがコーヒー。そこで考えられたのがコーヒーポットを制御、監視、診断するためのRFCです。朝起きた時に入れたてのコーヒーを飲みたいために考えられました。
このRFCはウイットに富んだ内容になっていて、ミルクタイプ、シロップタイプ、甘味料タイプ、香料タイプ、アルコールタイプのオプション指定が可能ですがカフェイン抜きのコーヒー用オプションは、“そんなのコーヒーじゃない”という理由から含まれていません。またヤカンでコーヒーを入れようとすると“418 俺はティーポットだ”とエラーコードが返ってくるようになっています。セキュリティも考えられており、“朝の目覚めのコーヒーの邪魔をするやつ”はすべて低セキュリティ状態におかれてしまいます。
本当にインターネット接続された自動販売機もありました。MIT(マサチューセッツ工科大学)では1995年頃、コカ・コーラの自動販売機をインターネットに接続していました。自動販売機に入っているコーラ、ダイエットコーラ、ドクターペッパーの在庫や冷え具合をブラウザで見ることができました。過去六十日間の消費量もグラフで見ることができ、ID、パスワードを入れると注文することもできました。 当時、一番の売れ筋だったのはクラシックコーラでした。
今、話題になっているIoT(Internet of Things モノのインターネットという意味でセンサーなどあらゆる機器がネット接続される)を早々と実現していました。
SF小説『華氏451度』にちなんだコードがある
アメリカのSF小説家レイ・ブラッドベリーの作品といえば『10月はたそがれの国』、『ウは宇宙船のウ』などで萩尾望都さんが漫画化していますから、ご覧になった方も多いでしょう。ブラッドベリーには『華氏451度』という作品があります。紙が燃え始める温度が華氏451度(摂氏では233度ぐらい)からつけられたタイトルで、本の所持が禁止された検閲社会を描いた小説です。本を読まないことで人々は思考力と記憶力をだんだん失っていきます。小説は映画化され、映画「未知との遭遇」でフランス人科学者ラコーム役を演じていたトリュフォー監督が映画「華氏451」を作っています。
インターネットにはこの華氏451にちなんだコードがあります。ホームページを見ようとサーバにアクセスすると三桁の状態コード(ステータスコード)が返ってきますが、よく見かけるのが404(Not Found:見つかりません)でホームページがない場合に表示されます。
華氏451にちなんだコードが451で、“法的理由により取得不能”というコード、つまり小説『華氏451度』のようにホームページの検閲があったことを示すコードになります。
実際、ツイッター、フェースブック、グーグルには、しばしばアメリカ政府から検閲が要求されていますので、本当にこのコードが使われるかもしれません。もっとも、そのような国では、検閲されている事実も検閲するため、状態コード451を返すこと自体が検閲されることになります。こんな状態コードは、使われない社会が一番です。
インテルは日本で生まれた可能性があった 1971年
「インテル 入っている(intel inside)」というシールがパソコンに貼られています。インテルという会社が作ったマイクロプロセッサ(コンピュータの頭脳)がパソコンに入っているという印です。しかしひょっとしたらインテルではなく、「日立 入っている」や「東芝 入っている」だったかもしれないのです。
パソコンだけでなく、いろいろなところでマイクロプロセッサが使われており、私たちの生活にはなくてはならないものになっています。自動車なら燃焼制御システム、ブレーキシステム、カーナビ、ETCなど車には何台ものマイクロプロセッサが使われています。マイクロプロセッサがなければ車は進めません。ビデオの番組予約、炊飯器、冷蔵庫、電子レンジなど、家庭内にもたくさんのマイクロプロセッサが入っています。
このマイクロプロセッサの生みの親は日本人なのです。
電卓戦争時代に新しいアイデアが誕生
今ではスーパーの売り場に電卓が並ぶ時代ですが、1960年代後半から70年代にかけて、電卓は十万円以上もする高額商品でした。市場シェアを高めようと電卓戦争が繰り広げられ、カシオ計算機やシャープ等から次々と新しい機種が発売されます。携帯電話やスマホと同じようにいかに早く新機種を出すかが勝負です。電卓の機能はカスタムメイドの集積回路(LSI)というハードで実現されていました。電卓に別の機能を追加し、変更する場合は集積回路から設計しなおす必要がありました。
電卓戦争をしていた会社の一つにビジコンがあり、社員に嶋正利という人物がいます。嶋氏は電卓作りの発想をかえ、カスタムメイドではなく汎用的に使える集積回路とソフトを組み合わせて、電卓の機能を実現しようと考えました。これならソフトをかえれば新機能が実現でき、新機種投入時間を短くできます。嶋氏はアイデアを実現しようと日本の集積回路メーカーをまわりますが、どこからも前向きな返事をもらえず、あきらめてアメリカにわたります。
アメリカでは1968年に創業したばかりのインテルを訪問します。小さなベンチャー企業でした。嶋氏はアイデアを説明しますが、インテルでも最初は理解されませんでした。ところが、若い技術者がそれは面白い考え方だと評価してくれたことから共同で設計に着手します。1971年、世界初のマイクロプロセッサ4004が誕生します。この時、嶋氏は二十代でした。サンプル出荷の価格は一個百ドル。当時は一ドル三百六十円の固定相場制でしたので三万六千円という高価なもの。量産化でなんとか一個三十ドルにしました。このあたりのいきさつは嶋氏によって『マイクロコンピュータの誕生─わが青春の40004』にまとめられています。
8080が誕生!
さて、4004で電卓戦争を戦ったビジコンですが、経営の問題から1974年に倒産してしまいます。マイクロプロセッサの大きな可能性に気がついたインテルはビジコンから製造権、販売権を手に入れ、次なるマイクロプロセッサの開発に着手します。嶋氏は1971年にビジコンを退社してリコーに入社していましたが、インテルが放っておくわけはありません。請われてインテルへ、そして1974年にマイクロプロセッサ 8080が生まれます。嶋氏はやがて一緒に仕事をしていたインテルの技術者がスピンアウトして作ったザイログに移ります。ザイログからマイクロプロセッサZ80さらにZ8000を世に送り出し、全世界でパソコンブーム(当時はマイコン)がまきおこります。もし最初に話をもっていった時に日本のメーカーが断らなければ、日本からインテルが生まれていたかもしれません。