バグは本当に虫だった - パーソナルコンピュータ91の話

第1章 コンピュータ黎明期から汎用コンピュータの時代(3)

2017年2月21日に発売された、おもしろく、楽しいウンチクとエピソードでPCやネットの100年のイノベーションがサックリわかる、水谷哲也氏の書籍『バグは本当に虫だった なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』(発行:株式会社ペンコム、発売:株式会社インプレス)。この連載では本書籍に掲載されているエピソードをお読みいただけます!

書籍(紙・電子)購入特典として、購入者全員プレゼントも実施中です! 詳しくはこちら!

バグは本当に虫だった! 1959年

情報処理教育を受けると事務処理向き言語コボル(COBOL)の名前がまず出てきます。一般には知られていませんので、リクナビNEXTの「エンジニア専門用語・該当実験室」で、「コボルって何?」と聞かれた渋谷の女子高生の回答は「蛇の名前」、「雑誌の名前」でした。ちなみに女子大生の回答は「メキシコの食べ物」。このコボル作成に関わった女性が、バグの生みの親です。

 コンピュータ黎明期に活躍したグレース・ホッパーという女性がいます。1906年生まれの彼女がコンピュータを使って色々なプログラムを開発していた時代のお話です。当時のコンピュータは電磁リレー式回路が使われている時代で、稼動中はカチャカチャと機械が動いていました。機械が暖かいこともあり、内部によく小さな虫(蛾)が入り込み、これが原因となってコンピュータが故障していました。

 そこで、まさに彼女は「虫をとる」(デバッグ)ことにより、不具合を直していました。これが転じて、プログラムやシステムの不具合をバグと呼ぶようになります。またバグを直すことをデバッグと呼ぶようになりました。

グレース・ホッパーは“コボルの母”となる

 グレース・ホッパーは、大学院で数学の博士号を取得し、いろいろなコンピュータの開発に関わりました。コンピュータを動かすにはプログラマが書くプログラム言語をコンピュータがわかる機械語(0と1の二進数)へ翻訳する必要があります。そのためのソフトがコンパイラで、コンパイラがなければコンピュータは動きません。そして、世界初のコンパイラ・フローマチック(FLOW─MATIC)を開発します。

 プログラマによってわかりやすいよう英語に近い言語でプログラミングできるようするというのが、ホッパーの理念でした。このフローマチックを発展させたのがコボルです。この功績によりグレース・ホッパーは“コボルの母”と呼ばれています。
 コボルは事務処理向き言語として1959年に誕生します。誕生から六十年ほどたっていますが、まだまだ現役。ジャバ(Java)など最近、開発された若い言語とはりあって大健闘している中高年言語です。

 グレース・ホッパーは博士号を取得後に女子大の助教授として数学を教えていました。その後、海軍に入ります。当時、コンピュータの開発と軍は一体の時代ですので軍人でありながらコンピュータの開発に関わっていました。グレース・ホッパーは海軍作戦部長付部門責任者(プログラム言語部門担当)などを歴任し、最後は准将にまでなります。退役した時は七十九歳で、これは現役士官では最年長でした。グレース・ホッパーは1992年に八十五歳で亡くなります。1997年に就役したアメリカ海軍ミサイル駆逐艦は彼女の名前をとって「ホッパー」と名づけられました。

コボル以外にもある「いにしえの言語」

 プログラムの開発言語は毎年、山のように作られ消えていきます。正確な数はわかりませんが、「The Language List」というサイトには二千五百を超えるプログラム言語が載っています。言語というとなにやら難しそうですが、ちょっとした興味と根気があればツールを使って作ることができます。

 山のような言語の中からコボルと同様に古い言語で生き残っているのがフォートランという言語。フォートランは科学技術計算向き言語で、スーパーコンピュータなどで使われています。
 今は脚光を浴びているジャバ(Java)ですが半世紀先にコボルと同じように生き残っているでしょうか。

世界初の座席予約システムは日本で誕生 1960年

駅に行かなくてもパソコンやスマホから乗車券や特急券が買えますが、「みどりの窓口」にはあいかわらず行列ができています。“行きは新幹線経由で佐賀に入り、そこから唐津をまわって、帰りは玄界灘を見ながら博多経由で帰りたい”という要望は、途中の路線が廃止されていることを利用者が知っていないと、さすがにネット予約では対応できません。

 列車の座席予約する時に訪れるのが「みどりの窓口」。座席予約システムが登場する前は人手で台帳管理していました。特急列車の始発駅が所属する指定席管理センターに特急列車ごとに台帳がありました。東京駅や上野駅のようなターミナル駅となると、大量の特急列車が出発しますので指定席管理センターにある台帳の数も膨大でした。

 指定席管理センターでは台帳が回転テーブルに置かれ、駅からかかってきた予約電話をもとに、係員が高速で回っている回転テーブルから該当列車の台帳を取り出し、予約を記入、駅に回答します。台帳がどこにあるか把握しないと仕事になりませんし、行楽シーズンは予約電話がたくさんかかってくるので職人技で対応します。台帳に予約を書き込んだら、回転テーブルの列車の位置に正確に戻します。

 予約がとれると電話をかけた駅では、駅員が手書きで硬券に車両、座席番号を書いて乗客に渡していました。すべて人手でおこないますので聞きまちがい、転記ミス、言いまちがいなどさまざまな問題が発生。座席のダブルブッキングもよくあり、そんな場合はあきらめて立って乗るしかありませんでした。

 特急列車の本数が増加すると人手では対応できず、指定席を求める人がいるのに空席で列車が出ることも目立つようになっていきます。また指定券の発行に一時間待つということもありました。

世界初の座席予約システム「マルス」東京駅で本格稼働

 国鉄の研究所で座席予約システムの開発が始まったのは1953年。当時、端末から即座に座席予約できるオンラインシステムはありませんでした。アメリカに航空機予約システム・セーバー(SABRE)が誕生していましたが、個々の座席までは予約できませんでした。

 航空機予約システムを参考にハードもソフトも自前で開発し、苦心の末、座席予約システム「マルス」を作り上げます。ローマ神話の軍神マルスからネーミングし、個々の座席予約ができる世界初のシステムが誕生しました。

 試作機がうまく動いたので国鉄から日立製作所に量産機が発注され、東京駅のマルスが本格稼働したのが1960年。さっそく東京と大阪を結ぶ特急列車「こだま」の座席予約に使われます。「こだま」は特急列車の名称でしたが新幹線開業時に名前が引き継がれます。マルスの端末が名古屋、大阪にも設置され、やがて全国へ広がり、「みどりの窓口」が開設されていきます。

 マルスは進化を続け、今も使われています。上野にある国立科学博物館には1964年から1971年まで使われた初期のマルス101が展示され、人海戦術で座席予約していた頃の映像を見ることができますが、まさに職人芸の世界です。

音声合成で世界最初に流れたのはデイジー・ベルの歌 1961年

初音ミクをご存じですか。年齢十六歳、体重四十二キロの女性のキャラクターとして設定されていて、髪型はツインテールでくるぶしまで届く長さになっています。バーチャル・アイドルとしても有名で、富田勲のイーハトーヴ交響曲では初音ミクがソリストをつとめました。

 映画「2001年宇宙の旅」、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れるなか、並んだ惑星の向こうから太陽が昇る荘厳なシーンから映画は始まります。モノリスと呼ばれる石から知恵を授けられた猿人が争いに勝ち、握っていた骨の武器を空中高く放り投げると、落ちてくるあいだに道具が進化し、宇宙船にかわるという印象的なシーン。また地球から月へ向かう宇宙船のバックに流れる「美しく青きドナウ」。映画とクラシックをうまくマッチさせたスタンリー・キューブリック監督の名作です。アポロ十一号が人類最初の有人月着陸を果たす前年(1968年)に封切られました。

 映画の主人公はもちろん人間ですが、準主人公が人工知能HAL9000型コンピュータです。IBMの文字を前に一文字ずつずらして命名した説が有名ですが、キューブリック監督は否定しています。

 このHAL9000がとんでもない事件を起こします。月で見つかったモノリスの秘密を探るために木星へ向かう宇宙船ディスカバリー号を管理しているHAL9000が突如暴走しはじめます。モノリス探査の任務と、その任務をディスカバリー号乗員に隠すよう矛盾された指示を与えられたことが原因でした。この原因は後編の映画「2010年宇宙の旅」で判明します。

HAL9000が歌うデイジー・ベルの歌

 HAL9000の異常に気づいた乗組員が人工知能の停止をはかりますがHAL9000が反撃を始め乗組員を次々と殺害。唯一、生き残ったボーマン船長がHAL9000を停止させるため人工知能の思考部に入ります。次々と機能停止されるなか、HAL9000がもうろうとした意識(そんなものが人工知能にあればですが)で歌うのが“デイジー・ベルの歌”です。歌っている間に、だんだんスピードが落ち、HAL9000のロレツがまわらなくなり、やがて停止してしまいます。

 “デイジー・ベルの歌”は“二人乗りの自転車”ともいい、不器用な田舎者の恋を扱った歌詞です。なぜこんな歌が映画の重要なシーンで使われたのでしょうか。答えは音声合成で世界最初に流れたのがデイジー・ベルの歌だったからです。

 1961年にベル研究所の技術者が史上初めてアイビーエムの大型コンピュータを使い音声合成で“デイジー・ベルの歌”を歌わせました。このエピソードを知っていたのでキューブリック監督は、映画のシーンに使ったのでしょう。もっとも技術者が、なぜこの歌を大型コンピュータに歌わせたのかは謎です。

 誰かがきっと始めるだろうなと思っていましたが、初音ミクが歌う“デイジー・ベルの歌”がユーチューブにアップされています。しかも画像がHAL9000のモニター姿になっています。

水谷 哲也

水谷哲也(みずたに てつや) 水谷IT支援事務所 代表 プログラムのバグ出しで使われる“バグ”とは本当に虫のことを指していました。All About「企業のIT活用」ガイドをつとめ、「バグは本当に虫だった」の著者・水谷哲也です。1960年、津市生まれ。京都産業大学卒業後、ITベンダーでSE、プロジェクトマネージャーに従事。その後、専門学校、大学で情報処理教育に従事し2002年に水谷IT支援事務所を設立。現在は大阪府よろず支援拠点、三重県産業支援センターなどで経営、IT、創業を中心に経営相談を行っている。中小企業診断士、情報処理技術者、ITコーディネータ、販売士1級&登録講師。著作:「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレスR&D)など 水谷IT支援事務所http://www.mizutani-its.com/