元麻布春男の週刊PCホットライン

日本で電子ブックを成功させるには



 3D TVと並んで、CESの会場で目立つ出展物の1つが、小型の液晶を使った情報端末だ。その中身はPCだったり、電子ブックリーダーだったり、ちょっと性格は異なるがインターネット情報表示装置だったりもする。特に電子ブックリーダーは大人気で、スレート型のタブレットPCでもリーダーソフトを搭載して、電子ブックリーダーとして利用することは不可欠だと考えられている。

 もちろんその背景にはAmazonの電子ブックリーダーであるKindleがベストセラーとなっていること、SonyのReaderもそれに次ぐシェアを確保して売れていること、Appleが間もなくこの市場に参入するのではないかと推測されていることなど、さまざまなことがある。コンテンツとしても書籍だけでなく、米国の多くの新聞社が電子版を提供しようとしている。しかし、わが国で電子ブックリーダーは、数年前発売され、いつの間にか消えていったデバイスだ。これだけ米国で電子ブックリーダーが流行っているのに、日本では全くと言っていいほど話題にならない。

年内に発売されるというHPのスレートPCを手にするMicrosofのスティーブ・バルマーCEOファブレス半導体ベンダであるMarvell社のブースに展示されていた電子ブックリーダーSamsungブースのe-Bookコーナーは、男女を問わず多くの来場者が足を止めていた

 なぜ日本で電子ブックリーダーは失敗し、今も話題にさえ上らないのだろう。筆者は電子ブックリーダー事業が過去に失敗した直接の理由は、デバイスとしての電子ブックリーダーが一般的な家電製品と同じ、売り切りの商品だったのに対し、コンテンツがレンタルだったことだと思っている。数万円の端末を買っておいて中身はレンタルというのは、どう考えてもチグハグだ。

 ではどうして電子ブックを販売できなかったのだろう。筆者は、再販制度のせいではないかと考えている。わが国では書籍や新聞は再販制度により、一定の価格が維持されている。しかし、デジタルコンテンツである電子ブックに再販制度を適用するのは難しそうだ。独禁法の適用除外である再販制度を拡大することは、原則的にないと思われるからだ。

 同じコンテンツを、再販制度下の書籍と、自由価格の電子書籍の両方で売ることは、一物二価の批判を受けるだろう。そして、もし書籍流通の主流が電子コンテンツになってしまえば、それは再販制度の放棄にほかならない。多くの出版社がそれを望まない限り、わが国で本格的に電子書籍や電子新聞が流通することはないだろうし、それを利用するための電子ブックリーダーがベストセラーになることはないのではないかと思う。

 だが、はたしてこれで本当に大丈夫なのだろうか。出版物の売り上げはずっと低落傾向にある。出版業界は、出版不況だというが、出版不況だと嘆けば出版物の売り上げが回復するわけではないし、ただジッと待っていても歯止めはかからない。新しいことにチャレンジしなければならない時にきているのではないか。

 電子ブックリーダーにコンテンツを提供しようとしている米国の新聞社も、決して台所事情が良いわけではない。大胆なリストラを余儀なくされているという点では、日本の新聞社以上に辛いのかもしれない。それでも今のやり方で上手くいかないのであれば、今とは違うことをする必要があるという認識が、彼らを突き動かしているのだと思う。座して死を待つより、新しい可能性にかけるべきだし、それができる体力があるうちにやらないと手遅れになる、という意識ではないのだろうか。

 噂されるAppleのタブレット型デバイスが注目される理由の1つが、あのAppleが作るデバイスだから、何か新しいことを実現しているに違いないという、モノそのものに対する期待感であることは間違いない。が、それと同時に、世界で唯一、全世界規模でデジタルコンテンツを配信して、その課金で利益を上げるエコシステムを作り上げるのに成功した企業だから、ということも間違いなく含まれているハズだ。

 iTunes Storeの楽曲販売件数は50億曲を超え、毎日5万本以上の映画がレンタルあるいは販売されている(2008年6月24日付けプレスリリース)。2010年1月には、iPhoneやiPod touch向けのApp Storeからのダウンロード件数が30億本を超えたことが発表されたばかりだ。同じフレームワークに電子書籍の流通が加わったらと、日本を除く世界中の多くの人が期待しているわけだ。iTunes Store/App Storeは、全世界チェーンのデジタルコンテンツ百貨店になりつつある。

 以前に取り上げたLenovoのSkylightや、IdeaPad U1は、お世辞抜きにとてもおもしろい製品だと思っている。が、日本で販売できるかとなると、疑問を抱かざるを得ない(特にSkylight)。それは、このコンテンツ配信の問題があるからだ。

 多くの日本人にとってSkylightの価格は決して高価なものではない。コンテンツをワイヤレスで配信するためのネットワークインフラ(3G、WiFi、WiMAX)も整っている。しかし、そこにコンテンツを流す仕組みが存在しないか、あってもクローズドなものでしかない。グローバル企業であるAmazonも、日本では音楽のダウンロード販売は行なっていないし、Skyllightが映画の配信元として想定するCinemaNowは、2007年12月25日付けで我が国での事業から撤退している。電子ブックリーダーは、日本企業であるソニーでさえ事業を継続することができなかった。

 日本のデジタルコンテンツビジネスは、成功を目指すというより、失敗しないこと、あるいは失敗を最小限にとどめることと、既存の事業に対する影響を極力排除することが優先されているように感じられる。それが、かえって成功を難しくしているのではないか。

 筆者は、日本のコンテンツ政策もアメリカを見習うべきだと言っているわけではない。が、産業革命により生まれた蒸気機関が、その誕生の地であるイギリスを超えて全世界に影響を及ぼしたように、デジタル革命の前に日本もアメリカもないと思っている。蒸気機関によって馬車事業が苦境に立ったように、デジタル革命で苦境に立つ既存事業もあるだろう。

 しかし、ここでどんなに馬車事業を保護しても、それを守りきれないことを歴史は示している。むしろ馬車事業を守ろうとすることで、鉄道網の整備が遅れ、他の産業まで競争力を失う。別に馬車事業の人が悪いことをしたわけではないし、責任があるわけでもない。が、それこそが「革命」ということの本質ではないか。重要なことは、馬車事業を守ることではなく、馬車業者をいかに鉄道業者に転換していくかだが、すべての馬車事業者が鉄道事業者として成功できるわけではない。その痛みを許容できなければ、ますますこの国が苦しいことになるのではないかと懸念している。