■大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」■
'90年2月22日に行なわれたザ・コンピュータ館のオープン記者会見での谷口正治氏 |
ラオックスの創業者である谷口正治氏が、2009年4月5日午前9時46分、老衰のため、東京都文京区の病院で逝去した。享年95歳。NEBA(日本電気大型専門店協会)の初代会長を務めるなど、家電量販店の広がりと業界育成に尽力した。
'13年(大正2年)10月1日生まれ、埼玉県鴻巣市出身。10代後半に、兄の勧めで自転車1台で電気製品の行商を開始。江東、葛飾、墨田を中心に事業を拡大し、'30年5月に、東京都墨田区に谷口商店を創業。戦時中には事業を受け渡すが、その後、終戦を迎えた'45年10月には東京都千代田区神田須田町に、新たな法人組織として、谷口電機株式会社を設立。'48年7月には同社から家電販売部門を分離し、ラオックスの前身となる朝日無線電機株式会社を設立。'76年10月には社名をラオックス株式会社に変更。'70年代後半から'80年代前半にかけては、「オーディオのラオックス」というイメージづくりにも成功した。'84年には勲三等瑞宝章を受章した。
'90年には、大型コンピュータ専門店である「ラオックス ザ・コンピュータ館」を開店し、谷口社長自らが、開店の陣頭指揮を取った。
その間、'72年には、全国の家電量販店が加盟するNEBAの初代会長に就任したほか、'85年12月には日本証券業協会の店頭売買銘柄株に登録。'99年12月には東京証券取引所市場第二部上場。
また、'82年4月の松波無線との合併、'83年1月の大丸百貨店(現 井門エンタープライズ)と業務提携、'88年11月の日南田電気との提携によるラオックスヒナタの設立、'92年10月のダイオーショッピングプラザの経営権取得、'98年3月のナカウラの経営権取得、2000年4月の庄子デンキ子会社化、同年11月真電との合併会社であるラオックス真電の設立、その後の真電の資本提携など、M&Aにも積極的だった。
'91年には社長を退き、取締役会長に就任。2003年には取締役会長を退任した。
会長時代最後の大型出店となった2002年10月オープンのASOBITCITY(当時) |
会長時代の2002年10月には、秋葉原に国内最大級の総合エンターテインメントショップ「ASOBITCITY」を開店。家電、情報機器とは異なる新たな事業領域にも進出した。
松波無線の副社長を務め、ラオックスとの合併後、ラオックス常務取締役を務めた現・社団法人日本コンピュータシステム販売店協会の専務理事である松波道廣氏は、「谷口氏の印象を問われれば、常にやさしかったイメージ、ということになる」と振り返る。
「大きな方針を決めるのは谷口氏。決めた後は、すべて現場の内田氏(=内田喜吉氏、のちにラオックス社長)に任せるという仕組みが早い段階からできあがっていた。米国の企業に当てはめると、CEOとCOOといった役割分担。これが明確に出来ており、当時の家電量販店としては、極めて珍しい体制だった」とする。
また、米国への進出も意欲的で、'80年代前半には、米国に現地法人を設立し、ロサンゼルスに在住する日本人向けの家電製品の販売を手がけたこともあった。谷口氏自らも精力的に米国を訪問し、米国の流通制度などを研究する、研究家でもあったという。
年末あるいは正月には、谷口氏の自宅に幹部社員が集まるのが恒例となっており、これも、谷口氏の人柄を忍ばせるものとなっている。
●時代を画した「ザ・コンピュータ館」PC業界における影響では、なんといっても'90年4月29日に、東京・秋葉原にオープンした大型パソコン専門店「ラオックス ザ・コンピュータ館」であろう。
'90年2月22日午後3時から、東京・お茶の水の東京ガーデンパレスで開かれたザ・コンピュータ館の開店記者会見では、谷口正治社長(当時)自らが出席。「当社の60周年記念事業の1つとして、国内最大規模でオープンする」と、ラオックスにとっても記念碑的な重要な意味を持つ出店であることを表明した。
また、会見の席上で谷口氏は、「何でもあって、何でも応えられる店づくり」を標榜。その言葉は、その後の「ないものは、ない」という同店舗のキャッチフレーズへと進化した。
「何でもあって、何でも応えられる店づくり」の言葉を裏付けるように、6フロア、824坪という売り場面積は、当時としては国内最大規模。初年度の売上高は62億円。わずか1年で、来店者数も平日平均で一日5,000人、土・日曜日には1万人を超える規模にまで成長。1年目の来店数は180万人を記録し、「秋葉原の新名所」、「秋葉原の電気街を北方向に広げた貢献度は大きい」などといった声が関係者から集まった。その後、売上高は右肩上がりで上昇。300億円を突破する規模にまで拡大した。
また、1階フロアに開設した大規模書籍売り場は、その後の大型パソコン店の基本ともいえる売り場構成となり、多くの店舗がこの手法を真似た。当時は、書籍だけで1日の売上高が300万円を超えた日も少なくなかったという。
'98年当時のザ・コンピュータ館 | |
三菱銀行角の交差点から見たザ・コンが、秋葉原を代表する風景だった(2000年撮影) | 夜になると白いネオンが輝いた(2000年撮影) |
会見の席上では、当時、ソフトバンクが発行していたパソコン専門誌「The COMPUTER」の名を、そのまま店名に使用したことについても言及。「私がロゴと名前に惚れ込んだため」(谷口氏)というエピソードも明らかにされた。
ラオックスがパソコン販売に本格的に参入したのは、谷口氏が社長時代の'81年。松波無線との協業関係を構築後、松波無線のノウハウを活用して、パソコンを販売する子会社としてラオックスシステムズを発足。NECマイコンショップとして、NEC製パソコンの販売に向けた体制を整えたのが始まりだ。
その後、急ピッチで取り扱い店舗を拡大。当時の基幹店となった新宿東口の店舗(松波無線が所有していたビル)では、当時としては、異例となる4フロアを使い、パソコン売り場とパソコン教室を併設するといった取り組みを行なった。
当時は、住所も書かずに、新宿区マイコン学校と書けば、郵便物が届いてしまうほど、新宿においては、ラオックスが「マイコン」時代の代表的店舗の1つだった。
こうした成果が、その後のザ・コンピュータ館の開店につながっているのは明らかだ。ここにも、谷口氏が早い段階からパソコン販売に意欲を見せ、それを素早く決断したことが影響している。
もう1つ、谷口氏に関わるエピソードとして特筆できるのが、パソコンに関する店員教育に力を注いだことだ。パソコンの販売には専門知識を持つ社員の育成が重要だと判断した谷口氏は、東京・秋葉原にNECが開設したC&Cセンターを活用して、社員1人あたり3カ月間に渡る研究を実施。'86年から10年以上に渡り、このファシリティを利用して、継続的な社員教育を行なった。
これもザ・コンピュータ館の成功につながっている。
だが、残念ながら、ザ・コンピュータ館は、その後のポイント制度を導入した大型店舗の進出や、郊外店舗の躍進などにより、その役割を終え、2007年9月30日に閉店した。
谷口氏が率いるラオックスによってもたらされたパソコン大型店時代の本格化や、家電販売市場の拡大、業界団体であるNEBAの設立など、業界発展における同氏の貢献は極めて大きなものであったことは間違いない。
なお、通夜は4月9日18時から、葬儀は4月10日正午から、いずれも東京都文京区の大本山護国寺桂昌殿で行なわれる。喪主は長男であり、ラオックス社長も務めた谷口好市氏。
(2009年 4月 9日)
[Reported by 大河原 克行]