山田祥平のRe:config.sys

この先ぼくらはPCで何をしたいのか

 多くの人々にとって、汎用機としてのパーソナルコンピュータは、ソフトウェアを作る道具からソフトウェアを使う道具としての市民権を得て、その世界を大きく拡げた。そして今、ぼくらはこの先のことを考える時がきた。

楽器の練習にアプリをフル活用

 まだ小学校に上がる前だったと思う。隣家のお姉さんがピアノの練習をしているのを見ているうちに、自分もやってみたくなって、親に、習わせて欲しいと頼んだ。だが、狭い我が家ではピアノは置き場所にも困るから無理とつれない返事。バイオリンなら習わせてやろうと言われた。あの時、その提案に乗っていれば、今頃もう少し音楽について深い造詣を持っていられたのに惜しいことをした、と後悔している。もしかしたら、絶対音感も付いていたかもしれない。

 結局、楽器の習い事についてはそれっきりになって、小学校の6年間を過ごした。そして、中学校生活の半ばで流行に乗ってアコースティックギターを購入した。ヤマハ製のギターで、「FG-170」と型番まで覚えている。価格も型番連動で17,000円だったはずだ。

 ろくに上手くならず、そのまま大人になってしまい、上京する時に持って来てはいたものの、狭い下宿住まいでは弾くこともできず、そのまま放置後なんとなく処分してしまった。

 今から20年ほど前に、もう一度ギターをやってみようと思い立ち、高校生の時に欲しくても手が届かなかった舶来のギターを手に入れた。高校生の時と同じ値段だったのには驚いた。しばらく練習してみたが、それも数ヶ月で、そのまま倉庫入りだ。この飽きっぽい性格はなんとかならないものかと思う。

 昨年の暮れ、忘年会で隠し芸をやるということになって、倉庫で眠っていたギターを出してきた。演る曲を決めて練習のスタートだ。色々調べてみると、かつてと比べて、なんと環境が整っているのかと驚いた。

 まず、調弦はスマートフォンアプリで大丈夫だ。スマートフォンを前に弦を弾けばチューニングができる。一緒に保管してあった音叉はいらない。曲のコード進行は、その曲をアプリに再生させれば自動で解析される。当然、自分のキーとは違うので移調が必要だ。それもアプリで大丈夫。スピードを変えたり、キーを変えたりしながら耳でコピーしていく。当然、解析後のコードは移調後のそれに書き換わる。

 歌詞はインターネットで探せばすぐに見つかる。練習しながら、ギターだけでは寂しいので、リズムとピアノが欲しくなり、フリーのDTMアプリを探すと、いくらでも出てくる。コードを指定すれば、ドラムセクションとピアノ伴奏がすぐに完成した。ところが、元々大した技術もなく、さらには何十年も弾いていないので、指は痛いは動かないはで、完成したカラオケに自分のギターがついていけないという有様。本番はどうだったか、頭が真っ白で覚えていないのだが、散々な結果だったはずだ。

 いずれにしても、PCとスマートフォン、そして多くの無料アプリのおかげで楽器の練習が、いかにカンタンに、そして、楽しいものになったかを思い知らされた。この環境が、あのピアノを習いたがった幼児の頃にあったら、少し話は違っていたかもしれない。アコースティックギターはどうしても音が出るし、バイオリンも同様だが、ピアノの練習は、キーボードさえ調達すれば、それをPCやスマートフォンに接続し、ヘッドフォンを使って無音でもできるからだ。

PCとカルチャーショック

 日常的にPCを使って音楽を楽しんでいる方からすれば、何を今さら的なことかもしれないが、去年の暮れはこんな具合で、ちょっとしたカルチャーショックを受け、老後のためにもギターは毎日1分でも2分でもつま弾くようにしようと思い立ち、出張などで自宅を離れている時以外は、とにかく触るようにしている。

 こうしたカルチャーショックは、何も楽器に限った話ではない。PCがあるからこその恩恵は、これからますます顕著になっていくだろう。これから、団塊ジュニアの世代が両親の介護をしなければならない時代に入っていく。そうなれば働き方も変わっていくはずだ。それを見越して、各社ともにテレワーキングなどの導入に熱心になっている。

 団塊世代そのものも、介護される立場にならないよう、色々なチャレンジをしようとしている。ウェアラブルはいわば見守りをコンピュータデバイスに任せるような面もあるが、そのデータをもとに自己管理に努めれば、老化の進行を遅らせることができるかもしれない。

 団塊世代は、コンピュータと無縁に人生を過ごしてきた方たちも少なくない。今なおガラケーを使い、メールより通話で、クレジットカードの利用を拒み、ネット通販など言語道断といった層だ。でも、年を老い身動きが不自由になっていくにつれて、一旦その味を知ったら、ぼくが今回楽器で経験したように、カルチャーショックを受けるのではないか。公衆電話のかけ方を知らない小学生を笑うまでもなく、ぼくらはもうすっかり国際電話のかけ方を忘れてしまっているように、そのうち音声通話の方法を知らないスマートフォン世代というのも出現するだろう。カルチャーショックのネタは、いたるところに転がっている。

さてこの先は

 いろいろな世代がいろいろな環境でPC、そしてコンピュータ的なデバイスと接している。知識もスキルもまちまちだが、GoogleとAmazonとMicrosoftとAppleのようなOTTがなかったら成り立たないような日常生活を、当たり前のものとして受け止めながら生きている。

 個人的には、似たようなカルチャーショックを受けるのは、これから10年後ではないかと予想している。2020年には東京オリンピックが開催され、無理矢理にでもそれに合わせたITインフラの整備が実施されるだろう。世界に向けて日本のITをアピールする絶好のチャンスだからだ。

 そして、それに合わせるようにして法律などの整備が行なわれ、それが新しい当たり前として受け入れられるようになるのがその5年後、つまり、今から10年後だ。例えばぼくは、この15年間、ここで買い換えたら負けだと思って1台のクルマを維持し続けてきた。カーナビがもっと良くなるはず、車内エンタテイメントがしっかりするはず、電気で走るようになるはず、といった動きが目に見えていたからだ。もちろん、自動運転の実現も視野にあった。でも、15年経っても、まだ買い換える気が起こらない。それでもさすがに老車化は避けられず、このまま乗り続けるより、10年間ほどクルマを休んでみることにするのも悪くないと考え始めたところだ。まだ決心が固まったわけではないけれど、クルマのない暮らしを体験しておき、10年後のカルチャーショックを楽しみたいという気持ちは高まるばかりだ。

 そしてコンピュータ。付き合い始めてかれこれ30年が経過した。こればかりは止めるわけにはいかない。さて、次は、何を助けてもらおうか。

(山田 祥平)