山田祥平のRe:config.sys

バック・トゥ・ザ・PC

 調査会社のガートナーが2014年のPC出荷台数を発表した(英文ニュースリリース関連記事)。2014年第4四半期に前年比1%の成長が認められるというその分析の中で、モバイルOS搭載のタブレットはほぼ行き渡り、コンシューマ(個人消費者)が少しずつバック・トゥ・PCへとシフトしていることを指摘している。今回は、タブレットの浸透について考えてみよう。

未来としての2015年、現代としての2015年

 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の公開は1985年。すでに30年が経過している。その主人公であるマイケル・J・フォックス扮するマーティ・マクフライは、そのパート2で、30年後の未来にタイムトラベルする。パート2の公開は1989年だが、設定は公開当時の1985年で、その30年後と言えば、今年、すなわち2015年だ。

 30年間というのは実に微妙な時間で、未来とも言えず、かといって当時とはかけ離れているはずなので、なかなか設定や描写が難しかったに違いない。作品中には当時から見た多くの未来小道具が登場するが、2015年になった今見ても、あまり現実感がない。かろうじて、マーティの履いていた自動で紐を結ぶスニーカーを、ナイキが今年の発売に向けて開発しているという話が聞こえてくるくらいだ。

 ぼくはこの映画を映画館で見て気に入り、3作ともレーザーディスクで購入した。今となっては再生環境もなく盤は倉庫に眠っているので、すぐに再確認できないのが残念だが、作品の中で描かれた2015年の未来にはタブレットはおろか、スマートフォンさえ普及しているようには見えなかった。

 でも、リアルの1985年から見たら、30年後の未来ではある現代は、やっぱりすごいことがたくさん起こっているし、起ころうともしている。自動運転などの先端技術の活用のために「近未来技術実証特区」が新設されるなどというニュースも興味深い。年初ののCES 2015で発表された数々の技術を我が日本がどのくらいキャッチアップしているのかといったことは、規制などのおかげで実験室の外に出ることができず、なかなか見えてこなかったからだ。

 また、驚いたのは、東京のAMラジオキー局3社がFM波による補完放送を秋から開始するというニュースだ。インターネットを使った「radiko」がある今、便宜という点ではどうってことはないのだが、このままだと、ずるずると放送の概念が覆るような気もしている。

 電気通信事業法30周年、とにかく総務省の動きからは目を離せないといったところだろうか。電波関係では、今年、本当に多くのことが現実になるだろう。

コンテンツプレーヤーとしてのタブレット

 のっけから話が脱線した。マーティも使わなかった(ような気がする)タブレットの話だ。

 直近では、Microsoftが、これまで招待制だったAndroidタブレット用のWord、Excel、PowerPointなど、Microsoft Officeの各アプリのプレビュー版を一般公開し、誰でも自由にダウンロードして使えるようになった。招待制の時には非対応だった10.1型を超える端末でも使えることを確認している。手元ではSamsungの「GALAXY Tab S 10.5」にもインストールできたのだが、13.3型のLenovoの「YOGA Tablet 2 Pro」はダメだったので、制限は緩和されただけのようだ。

 ただ、PCのデスクトップ版Officeと似ているけれども違うという点では、使っていてストレスを感じることも多い。そういう意味では、タブレットはやはりコンテンツプレーヤーだと思うのだ。

 ソニーが1979年にウォークマンをリリースしたときに、“録音ができないテープレコーダー”が売れるはずがないとされたそうだが、結果は大ヒットだった。誰もが別にラジカセやカセットデッキなどを自宅に持っているのが当たり前だったからで、そこで作ったコンテンツを外に持ち出して楽しむにはウォークマンほど適したデバイスはなかったわけだ。

 オーディオ再生については、その後、メディアの主役がカセットテープからMDを経て、その時点でいったん録音と再生の作業の境目が曖昧になる。今で言うところのコンテンツの生産と消費だ。言ってみれば、今のタブレットは、本来、録音機能がないはずのウォークマンで無理矢理録音するようなことを強いられているのかもしれない。かつて、録音ができないテープレコーダーとしてのウォークマンを多くの人々が受け入れたが、今は、タブレットにあまりにも多くのことを期待しすぎているようにも感じている。誰もが別にPCを持っていることを前提にして、過度の期待をしなければ、タブレットは本当に便利で重宝するのだが、期待しすぎると、がっかりすることが少なくない。

できないことのストレス

 ウォークマンとラジカセ、カセットデッキなどの根本的な違いは録音機能の有無だった。また、ウォークマンは最初から持ち出すことを前提に作られたポータブルデバイスだった。今から考えたら、ウォークマンに録音機能を持たせることくらい簡単なことだったはずで、発売当時にも原型となった「プレスマン」があったし、のちに、レコーディングウォークマン的なモデルも発売されている。でも、人々が選んだのは再生だけができるという潔さだったのではないか。

 それを今のタブレットに当てはめて考えてみると、例えばMicrosoftのOfficeアプリが編集ができないビューワのようなものだ。だが、多くのサードパーティ製アプリが編集をサポートし、そして、微妙な互換性の欠落から、Officeに関するユーザー体験を損なうような結果を招くことを想定すれば、編集機能を付けないわけにはいかないのだろう。

 結果として、ユーザーは、タブレットにPCと同じことができることを期待するようになる。できて当たり前、できないとストレスが溜まるといった具合だ。

 時代が違うとは言え、かつて、ウォークマンで録音ができないことに何の疑問も感じなかった人々は、なぜか、タブレットに多くを求めるのだ。入力のためのキーボードや、操作のためのマウスといったHIDがないタブレットに、なぜ、そんなに多くを期待してしまうのだろう。そして、ある種の人々は、タブレットに外付けキーボードを繋ぎ、セットで持ち歩くようになってしまった。これはタッチ対応ノートPCとどこが違うというのだろう。

 タブレットにキーボードを繋ぐと、形の上ではノートPCと似たような環境ができあがる。でも、稼働しているOSがAndroidやiOSだと使っていてストレスを感じることもある。慣れ親しんできたPCのようには使えないからだ。Webを参考に文章を書くとか、届いたメールの添付ファイルを読みながら返事を書くといった作業がつらいのだ。人が没入感を求めるのは消費の時だけなのではないか。ちなみにウォークマンにはスピーカーも付いていなかった。ヘッドフォンを使って音楽を楽しむ。雑踏の中で没入できることを提案したのだ。

 WindowsタブレットならノートPCでできることは基本的に全部できる。特に10型を超えるような画面を持つタブレットなら遜色はないだろう。もちろんマウスやキーボードを外付けすれば何も違いはない。でも、そうなると、ノートPCと同じなのだ。タブレットである必要がなくなってしまう。

手足をもがれたノートPC

 バック・トゥ・PCのトレンドは、アーリーアダプタたちが、そのことに気が付いた結果だと言ってもいいだろう。タブレットはノートPCにとっての手足と言ってもいいマウスやキーボードが省略されたデバイスとして、手足をもがれた状態で使うピュアタブレットがもっとも潔い。そして、タブレットはやっぱり補助のデバイスで、セカンダリなのだ。

 その割り切りさえあれば、タブレットの用途は大きく広がる。軽くもなるし、薄いからハンドリングもしやすい。リビングルームから持ち出そうという気にもなる。

 今、「iPad Air 2」の重量が444g。富士通の「ARROWS Tab F-03G」が433g、ソニーの「Xperia Z2 Tablet」が426g。iOSやAndroid陣が400g台前半でしのぎを削っている一方で、WindowsタブレットはLenovoの「ThinkPad 10」の590gが最軽量クラスで、3割ほど重いことが分かる。これにキーボードを追加しようものなら、軽量ノートPCと変わらないという結果がまっているわけだ。だからこそのバック・トゥ・PCなのではないか。

 ここでの議論ではあえて8型クラスタブレットの存在を無視している。8型ならASUSのVivoTab 8の330gがあるので、負担はかなり軽減されるだろう。これで十分な画面サイズだと感じる視力の持ち主なら頼もしい存在に感じられるだろう。

 いずれにしても、ピュアタブレットは主ではなく従だ。メインではなくサブだ。プライマリではなくセカンダリだ。もし、タブレットがPC的なデバイスとセットで使うスタイルを強く押し出すことができれば、PCの需要拡大と、そこへの上乗せ的な存在になっていたんじゃないか。そう考えると、確実な市場を確立することなく、縮小してしまいそうな兆しはちょっと残念だ。

 スマートデバイスは組み合わせて使ってナンボだと考えている。カセットデッキでダビングしたカセットをプレーヤーで聴くという36年前のウォークマンのスタイルが受け入れられず、1台のデバイスに多くを求めすぎることが、技術の進化によって、できなくもないということが実に皮肉に感じられる。

(山田 祥平)