山田祥平のRe:config.sys

見るスクリーン、映るスクリーンを融合する共有のトレンド

 そのサイズは異なるが、TVもスマートフォンもPCも同じような液晶ディスプレイを持ち、そこに同じような映像を映し出す。だが、内容には徹底的な違いもある。十把一絡げに語られることの多いディスプレイだが、その本質は大きく異なる。

見ないときにはオフにする

 その昔、スクリーンセイバーが流行った時代があった。当時のディスプレイはブラウン管だったので、PCの操作画面のように静止していることが多い場合、同じ絵柄が同じ位置に表示しっぱなしになっているとブラウン管が焼き付き現象を起こしてしまう。スクリーンセイバーの初期の目的はそれを回避することだった。だが、スクリーンセイバー人気が過熱するにしたがって、見て楽しむスクリーンセイバーも増えていった。楽しいアニメーションや情報表示など、焼き付き防止の機能を兼ねながら、別の役割を提供するようになってきたのだ。

 今、ディスプレイはブラウン管から液晶になり、焼き付きはあまり心配しなくてもよくなったが、今度はバックライトの寿命を気にする必要が出てきた。もっとも、かつてよりも大幅にPCの価格が低下したため、ディスプレイの寿命を気にすることはなくなっているかもしれない。

 それよりも、スマートフォンやモバイルノートPCにおいては、バッテリの消耗を気にしなくてはならなくなった。だから用のない時には表示はオフになる。そして、何らかのトリガーで表示がオンになって、待ち受けディスプレイやロック解除画面が表示されるのだ。Windows 8.1では、ロック画面にスライドショーを表示するような機能まで実装される。でも、その楽しいスライドショーも、設定済みの時間が来ると、ディスプレイはブラックアウトしてしまうのだ。

 つまり、スマートフォンやPCのディスプレイは、ユーザーが積極的に見るという姿勢を示さない限りは、沈黙してしまうようになった。それは、電力の節約という意味合いもあるし、他の誰にも見られないというセキュリティ的な理由もあるだろう。つまり、見る時しか映らないのが、これらのデバイスのディスプレイだということだ。そして、この事は、これらのデバイスが、きわめてパーソナルなものであることを証明している。

見ないときでもオンのまま

 その一方で、TVの画面については、寡聞にして、そのスクリーンセーバーの存在は聞いたことがない。焼き付き防止の機構は実装されている場合も、少なくとも見ている側からはTVが休んでいるようには見えない。TVによっては視聴時間帯制限を加えたり、スリープタイマーをセットしたり、無入力状態が続いたりといったことで自動電源オフになるものはあっても、画面に何かを映しながら待機するということはないんじゃないだろうか。TVは電源を入れている限り、やはり沈黙してもらっては困るからだ。

 スマートフォンやPCのディスプレイと違い、TV画面はパーソナルという概念が希薄だ。もともとサイズが大きかったということもある。昨今は、据置型PCのディスプレイ も大きくなったが、普通はTVの方がPCのディスプレイよりも大きい。

 PCの10フィートUIは、至近距離で見るPCのディスプレイを、ある程度離れて見ることを想定して考えられたものだ。たかだか50cm程度の距離で見るPCのディスプレイと違い、40型を超えるようなサイズのディスプレイは、3m程度離れて視聴する。だから、至近距離でのUIとは別のものを用意したら使いやすいだろうと考えられたのだ。

 大きなディスプレイは、そこに映し出されているコンテンツを、他の誰かに覗き見られることを覚悟して見ることになる。第三者が覗き見をするつもりがなくても、同じ部屋にいれば、3m離れて見ている画面の内容は、自然と視野に入ってしまうだろうからだ。

 それどころか、積極的に見る気持ちを持っていなくても、TVはなんとなく映っているというステータスがある。電源を入れれば勝手に電波を受信して、その内容を映し続け、それをやめようとしない。これがTVの点いている状態だ。

 文字通り、まるで電灯のように、スイッチを入れれば、TVは点くのだ。ユーザーのやることといえば、チャンネルを変えることくらいだろうか。それさえ気にしないで、いつものチャンネルを、ただ点けっぱなしというユーザーもいる。

 もちろん、昨今のTVは放送の受信以外に、さまざまなことができる。ビデオレコーダーをつないだり、ゲーム機をつないだり、さらにはPCもつながる。でも、その時、TVはTVでなくなり、ただのディスプレイとなる。

 TVにとっての電波は、PCにとってのインターネットのようなものだ。そういう意味では同じかもしれない。でも、そこに載ってくるコンテンツは、基本的にTVでは送り手が押しつけてくるものであるのに対して、PC的なデバイスでは、ユーザーが明示的にリクエストしたものだ。

 だから、家族がいっしょにいるリビングルームのTVではTwitterの個人アカウントを大きく映し出したり、新着メールのチェックをしたりはしない。そういうことをしたい時には、人は、きっと小さなディスプレイを選ぶ。そちらはパーソナルで、自分にしか見えないことが保証されているからだ。

 TVもインターネットにつながるようになり、インタラクティブ性が高まってはいるが、ここのところをきちんと考えない限りは無用の長物になってしまうだろう。コンシューマはそんなに馬鹿じゃない。

ディスプレイの共有

 Miracastや、先日Googleが発表したデバイスChromecastは、TVのような準パブリックなディスプレイと、スマートフォンなどのパーソナルなディスプレイとの境界をつなぐ、いわば糊のような存在だ。ユーザーは、パーソナルなコンテンツの中から、人に見られても構わないもの、あるいは、むしろ積極的に人に見て欲しいものを自分で選び、明示的に大きなディスプレイに向かって投げることができる。その結果、大きなディスプレイでコンテンツを楽しめる。ここで、パーソナルとパブリックが論理的に破綻することなく融合する。

 さらに、Googleは、Android 4.2でタブレットにマルチユーザーの機能を実装し、先日発表された4.3では、制限付きプロフィールユーザーを追加できるようになるなど、その機能をさらに強化した。この機能を使えば、リビングルームに放置したタブレットがプライベートなアカウントを設定したものであっても、家族やたまたまやってきている友人が自由に手にとって、例えばブラウザだけは使えるといったようにしておける。

 タブレットのディスプレイは、スマートフォンのそれよりも大きいのが普通だ。人の意識の奥底には、大きなディスプレイは自由に見て構わないという概念が埋め込まれているのではないだろうか。それは、デジタルネイティブな世代であっても、生まれつきの概念として持っている考え方であるようにも思う。

 昔のTVは本当にTVだった。受信機が内蔵され、その出力しか映し出さなかった。でも、外部入力を持ったTVがビデオレコーダーを受け入れ、ゲーム機を受け入れ、そして、高解像度化によってPCの出力も受け入れるようになり、今やTVはTVではなくなっている。

 それでもTVはTVで、放送を受信できる機能を持ったディスプレイ付きの箱を誰もが「TV」と呼んでいる。人々が、この箱を「TV」と呼ばなくなる日が来るのかどうかは分からない。でも、そのディスプレイに映し出される内容は、どんどんパーソナル化している。それがTVがTVでなくなり、単なるディスプレイとなる日だと言えそうだ。パーソナルなものなのに、他の誰かといっしょに見たいという気持ちは、せっせと気になるWebページをTwitterやfacebookで共有しているユーザーならきっと分かると思う。

(山田 祥平)