山田祥平のRe:config.sys

読み手と書き手、そしてメディアのデジタルトランスフォーメーション

 平成の時代が終わろうとしているが、その時代を過ごしてきたなかで、コンテンツを書く側も、それを読む側も、デジタルと関わらないではいられなくなってしまった。「紙」がコンテンツを運ぶ主要なメディアであることを前提にしたときに読み手と書き手の間にあった暗黙の了解が、ゆるやかに崩壊していった時代が平成だ。

Kindleで版面を決めるのは読み手

 Amazon.co.jpから新型Kindleが発売された(Amazon.co.jp、フロントライトを初搭載した「新Kindle」を本日発売参照)。

 Kindleのラインナップは現在3種類あり、今回発売されたのは、もっともスタンダードなモデルだ。以前にも書いたように、個人的な事情としては、Kindleがなければもう本を読む気になれない。文庫本や単行本は、気軽に読むには文字が小さすぎてつらいからだ。だから、いわゆる「なんちゃって電子書籍」として配信されているリフローしないレイアウト固定の雑誌類は、今なお圏外だ。

 新しいKindleは、6型のE Inkディスプレイを持つ。Kindle PaperwhiteやKindle Oasisなどの上位機種は300ppiだが、今回のベーシックモデルは167ppiだ。前機種に対してフロントライトが追加され、灯りのない暗いところでも読めるようになった。

 重量は174gで、最近の重量級スマートフォンより軽い。価格もリーズナブルなので、その軽さを活かすためにもカバーなどをつけずに裸で使うのがよさそうだ。男性のジャケットの内ポケットに入ってしまうくらいのスリムさがいい。

 Kindleで文字のコンテンツを読むさいに、その版面を決めるのは読み手だ。文字のサイズ、行間、文字ブロックの周りの余白など、さまざまな要素を自分で決められる。コンテンツは、冒頭から末尾まですべてつながっていて、そこにはページの概念はない。

 メタファとしては、スクロールではなくページをめくる概念が取り入れられてはいるが、基本的にはシーケンシャルだ。だから、ページ番号というものもなく、今、全体のどこを読んでいるかは「位置No.」という相対的な位置情報として把握する。デバイスが異なれば一度に画面表示できる文字量は異なるから、この方法はわかりやすい。

 ちなみに、ぼく自身がKindleデバイスを使って読むのは文字コンテンツだけだ。コミックを読むには画面サイズが小さすぎる。コミックを読む場合にはやはり10型程度の画面はほしい。電車のなかで、スマートフォンでコミックを読んでいる若い世代を見かけると、ちょっとうらやましい。

 コミックを読むとしたらタブレットを使う。今、手元で使っているメインの端末はNTTドコモのarrows Tab F-02K(富士通製)で、その画面は10.1型だ。重量も441gと手頃で、縦位置で一般的なコミック本の1ページをひとまわり大きく表示して読み進められるので重宝している。だが、文字のみのコンテンツを読む場合には、Kindleがいい。やはりそのE Inkの視認性はすばらしいからだ。

コミック文化の未来

 コミックコンテンツは文字だけのコンテンツと違い、今なお、ページという概念に支配されているように見える。それを受け入れたとして、10型程度のタブレットでコミックを読んでいて残念なのは、ページを見開きで読むという体験ができないことだ。

 コミックを見開きで読むなら13.3型ではちょっと小さく、気持ちとしては15.7型はほしい。もちろん据置の24型ディスプレイで見れば大満足なのだが、机に向かってコミックを読むというのも気分が盛り上がらない。そして、10型超の画面サイズはPCの領域だが、欲を言うなら、そのくらいのサイズのKindleがあってもいいと思う。15型のKindleが出たら、ぼくはまたコミックを読みはじめるような気がする。

 でも、それは正しいアプローチなのか。

 コミックコンテンツの書き手、いや、描き手にとって、「ページ」というのは絶対的なものなのだろうか。デバイスのバリエーションが増え、コミックコンテンツの読まれ方が多様化している今、ずっと慣れ親しんできた紙の単行本や雑誌の見かけを踏襲し続けていていいのかなとも思う。かと言って、コマのなかでキャラクターが動きはじめるようなことを期待しているわけではない。音が出るのもなんだかなと思う。

 これはコミックという文化の立ち位置にイチャモンをつけるようなものなので、部外者は大きく口をはさんではいけないのかもしれない。そして、新たな可能性を求めてチャレンジしている作家は、コミックの未来を虎視眈々と考えている。小説や評論といった文字コンテンツがシーケンシャルなものになり、ページの概念から離脱することができたようなことが近い将来起こるかもしれない。

Webにおけるエディトリアルデザイン

 一方、Webはどうなのだろうか。たとえばPC Watchでは1記事に対して、それがどんなに長いコンテンツでも1ページという原則が守られている。基本的に見出しをクリックして記事を開けば、そのページをスクロールするだけでコンテンツ全体を読むことができる。

 Webサイトによっては「次ページ」ボタンを押さなければ、コンテンツの続きが読めないところも少なくない。商業ベースで提供されているコンテンツであるかぎり、そのコンテンツを無料で楽しむためには広告の露出は重要な要素だ。ページをめくれば、新しい広告コンテンツを目にすることになるわけで、それも1つの考え方だと言える。

 ただ、デバイスごとに画面サイズが異なる以上、スクロールと「次ページ」の両方が強いられる。このあたりは、もう少しスマートな方法が模索されてもいいのではないかと思う。今にして思えば、スクロールは巻物のユーザー体験を現代にもたらした画期的なUIだ。そこを超えられないのは悔しい。

 ともあれ、ページの概念に振り回されるのは、紙の呪縛と言ってもいい。書く側も読む側も、すでに紙の呪縛からは逃れているにもかかわらず、目の前に紙の呪縛が立ちはだかっている。そして、その呪縛がコンテンツそのもののデジタルトランスフォーメーションを阻害する。そのくらい紙というのは偉大だったということだ。

 コンテンツというよりも、コンテンツを載せる器、すなわち、メディアそのものののデジタルトランスフォーメーションを考えなければならない時期にきているのではないか。さらに言うなら、Webにおけるエディトリアルデザインの変革だ。

 これまでの当たり前をリセットし、静的コンテンツを楽しむためのユーザー体験を新しくデザインすることが求められていると言っていいだろう。コンテンツがオンデマンドでインタラクティブになっただけではダメなのだ。

 その先にあるものを考えなければならない。これまで慣れ親しんできたものを捨てるのは怖いが、きっと未来はその先にある。