電子出版元年を考える上で必要なこと



 今年(2010年)に入ってからというもの、電子ブック(iPad含む)と3Dの話しか書いていないような気がしている。もちろん、ArrandaleのローンチというPC業界にとっては大きなイベントがあったし、それに伴って魅力的な新製品も登場している。

 とはいえ、ここでVAIO Zシリーズの新型は、さらに熟成が進んで部分的には研ぎ澄まされたようなストイックさで、パフォーマンスとモビリティの両立を実現。案の定、予約開始日のソニースタイル発注サイトは混乱の極みを迎えた。なんてことを書いても、いつもと同じ状況でつまらない。

 ここ2年ほどの間、NEC、富士通、東芝、ソニーといったメジャープレーヤーのスタンスや位置関係に大きな変化がない。真っ先にパーソナル化への道へ突き進んだヒューレット・パッカード(HP)を筆頭に、デル、レノボが従来の殻を破ろうとしているのと比べると、ややマンネリ化を感じるところもある。もちろん、LOOX Uや前述のVAIO Zなどの例はあるが、製品個別ではなくメーカー、あるいはブランド単位での大きな動きが見えて欲しいと思うのは贅沢だろうか。

 と、その話は今後、取材を絡めながら突き詰めていきたいが、今回はまたもや電子ブックについて。以前、今年に入って何度もこの話題を取り上げているが、以前に書いた状況とは変化している部分もあるので、今一度、まとめておくことにしたい。

 いわば今年第1回目に書いた「2010年の電子ブック事情」の一部改訂・追補といったところだろうか。

●悪者探し

 今年に入ってから、電子出版にまつわるパネルディスカッションや講演がいくつか開かれている。が、そこでいつも気になっているのが、意識的か、それとも無意識なのか、“どこかに悪者を作りたい”風潮が見えることだ。

 大手出版社こそがアンシャンレジームを堅持する大きな原動力であり、時代遅れになりつつある日本の出版ビジネスを食いつぶす元凶であると糾弾する指摘があるかと思えば、Amazonが米国におけるKindleの成功理論を日本市場に当てはめて、日本の出版社に圧力をかけているから、事態が収拾しない、なんて声も聞こえてくる。

 ここではやや極端な意見を意図的にピックアップしているのだが、程度は違えど言いたい事は同じ。書籍の電子流通が始まろうとしているのに、日本だけ時代から取り残されそうな気がしているのは、きっとどこかに“ボトルネック”となるような抵抗勢力があるに違いない。そう心のどこかで考えている人が多いということなのだろう。

 しかしここ数カ月、この話題に関連して取材をしている中でわかってきたことは、電子ブックリーダを販売するベンダーや本の電子流通を実現したい一部の流通、それに出版社も含め、関係者の多くが電子出版に対して意外に前向きだということだ。ただ、立場が違えば主張が異なることは致し方ないし、交渉中にその内容を広報して回るわけにもいかない。情報が少ない中で事態が動かない理由を、自分から一番遠い業界に求める傾向があることは否定出来ないだろう。

 中には単なる推測が事実として口伝されている例もあって、筆者も取材の中で混乱することが少なくなかった。もし電子書籍に関して興味があるならば、まずは悪者探しをやめて、各業界の立場で物事を考え直す方がいい。

●電子化は本当に著者を豊かにするのか

 電子出版に関する議論で残念な事は他にもある。従来型の出版社が果たしてきた役割を無視した極論を正論として展開する者や、ほとんど明らかにされていないAmazonのビジネススタイルを、推測だけで批判する事が多い事だ。

 前者に関して目立つのが、出版社を中間搾取を行なう悪者として描く論法だ。

 電子出版ビジネスが発展し、本の読者が紙でも電子データでも、自由に自分の読みたいスタイルでコンテンツを購入できるようになると、紙での出版はそのハードルもコストも高いので、自費出版で電子版のみを流通させようとする著者が出てくる。

 その場合は出版社が間に立って全国の書店に流通させる必要も、製本のノウハウも必要ではなくなるから、流通コスト以外は全部、著者のものになる。間を中抜きされなくなるから、良いコンテンツを生み出せる著者は豊かになる。

 例えば、電子書籍のビジネスが発展した世界において、村上春樹氏や東野圭吾氏が電子書籍向けに書き下ろし、それを自分の抱えるスタッフが編集やデザインをこなして流通させれば、著者には従来以上に効率的にお金が入ってくるだろう。

 しかし、では出版社が著者に寄生しているのか、というと、実はそうとは言い切れないと、こうして文章で生業を立てている身としては感じている。なぜなら、従来の出版社には作家育成や、作品の出来/不出来のムラが大きかったり、あるいは編集者の献身的なサポートが無ければ作品が生み出せない作家をサポートする役割も持っていたからだ。

 筆者の場合、文学作品を生み出すわけでもなく、マンガ家のように手間をかけて絵を仕上げるわけでもない。自ら進んで楽しいこと(他の人から見れば面倒くさそうなテクノロジの裏側)を取材して記事にしてきたので、おそらくそれほど出版社の手は煩わしていないと思う。

 しかし、誰にも“はじまり”はあるわけで、自分が文章を発表する場を与えてもらえなければ、執筆業という仕事はその幅を拡げていくことができない。出版社と筆者というのは、目的や表現したいことは必ずしも一致していない事があるものの、相互に補完し合う間柄であっても、中抜きした/中抜きされたといった関係でないことは、当事者であれば常に感じていることではないだろうか(もちろん、中には例外もあるかもしれない)。

 編集するためのノウハウ、より良い本を生み出すためのアドバイスや材料の提供、それに本の(あるいはそれだけでなく筆者自身も)宣伝といった“サービス”を出版社は無償で著者に提供してくれる。

 中には手のかからない筆者もいるだろうし、創作活動はすべて自分だけでやっているし、宣伝も流通も出版社の世話にはなりたくない。そもそも、自分は出版社に利益をもたらしてやろうというのだから、そのぐらいの事はすべきだ、という方もいるのかもしれない。

 当然ながら、すでに名の売れた著者にとってみれば余計なお世話とも言えるが、現状、そうした業界構造/慣習が存在することを無視して、出版社を悪者に仕立て、クリエイターに耳障りの良い言葉を投げかけても、そこに素晴らしい未来が待っているとはとても思えない。

 おそらく、“売れ始めたら自分のプロダクションで電子出版”なんて成功事例がたくさん出て、それが当たり前になってきてしまうと、出版社は作家を育てたり、まだ名の売れていないアーティストの写真集を出すなんてことは止めるだろうし、あるいは新人作家をフィーチャーして売り込むということ自体、やらなくなるかも知れない。

 新しい秩序には、新しい仕組みが必要とはいえ、果たしてそう簡単に世の中は変われるだろうか?

●Amazonが電子化でやりたいこと

 Amazonのビジネスに関しては、筆者も「2010年の電子ブック事情」という記事の中で、誤った指摘をしてしまったことがある。それに関しては、「古くて新しい」という記事の最後に記している通りだが、今一度、ここで繰り返しておきたい。“出版社がいくら取って、流通がいくら取る”という単純な議論は、電子ブック市場ではもう通用しない。今年初めぐらいにあったAmazonが7割を取るという説も、元を辿ってみると、そういう条件でコンテンツを出している米国の地方新聞社があったということらしい。少なくとも書籍の事例ではない。

 Amazonは日本において、電子出版に関連するインタビューをほとんど受けていない(受けていても簡単なコメントしか出さない)。また米国での事例は話せても、日本国内でどうしたいかは、一切コメントできないというスタンスを取っている。それ以上の話になると、米Amazonを紹介するので、米国の事例について直接取材しなければならない。

 が、Amazon関係者の発言を拾っていくと、再版制が適用されない電子書籍に関して、もっと自由度の高い価格設定を販売店が行ないたいということが、Amazonの主張するもっとも大きな条件なのだという(ちなみに出版社を呼び出してKindleへのコンテンツ提供を迫っているという話も噂として聞いたが、実際にはAmazonの担当者は各出版社を自ら訪れて事業プランを説明している)。

 例えば新刊が発売された当初、注目度の高い時期には価格を下げ、さらに多くの人に読んでもらって話題を喚起し、ロングテールの時期になったら価格を上げるといった価格戦略(書籍のタイプによってもやり方が変わってくるだろう)をもっとやりたいという話だ。Amazonにいくらで卸すかは出版社側が決める。

 一部には年内、秋ぐらいまでにはKindle日本語版が発売されるので、そのために強気の交渉を仕掛けているということで、最初のコラムでは筆者もこれに乗ってしまった。が、Kindle事業を日本で展開するタイミングは、まだ決まっていない。これはソニーについても同じなのだが、事業展開を行なえる条件(どのぐらいの出版社が参加し、どのぐらいの書籍を配信できるのか。その中にはベストセラーも含まれているのか、電子化のタイミングなど)を確認した上での開始になるためだ。条件が揃わないうちはゴーサインを出せないし、条件が揃うか否かの鍵を握っているのは1社ではないし、もちろんAmazon自身でもないということだ。

 Kindleのハードウェアそのものは、日本語フォントを用意してメニューや辞書などを整備すれば、日本語化が難しいわけではない。日本向けに発売するならば、少し画素密度を高めにした方が良いとは思うが、現行のKindle2でも日本語書籍は十分に読める。いずれにしろ、ハードウェアに関する問題はないと言っていいだろう。

Amazonの電子書籍端末「Kindle」(左)と「Kindle DX」。Kindleは2世代目でKindle2と通称される。すでに国内でも販売が始まっている

●書籍の電子化はまだ始まったばかり

 冒頭にも述べたように、電子書籍に関する議論は、今年になって急激に活発化している。Kindleの成功や欧州各国でのいくつかの成功事例で盛り上がってきているからだが、どうも「電子書籍とはこういうもの」、「こうあるべき」のような議論が多過ぎるという気がしている。

 書籍の電子化が進めば自費出版が容易になるなど、さまざまな変化の可能性が生まれるし、それまでインディーズでロクに読まれることも無かった作家が、いきなりベストセラーになるといったシンデレラストーリーも生まれるかもしれない。

 しかし書籍の電子化はまだ始まったばかりだ。書籍が電子化することで、“まず何が起こるか”については予想が容易だが、どう変化していくかまでを正確に読み取ることは難しい。

 例えば現在、映像ビジネスの世界ではインターネットでの映像流通が増加している現状を考慮し、コンテンツを視聴するための権利処理をインターネットを通じて行ない、どんなデバイスでも購入したコンテンツを楽しめる仕組みの提案が始まっている。

 TVのネット接続機能である映画を買ったなら、その映画を携帯電話でも、PCでも見ることができるようになる。ディズニーのKeychestなどいくつかの技術があるが、同様の仕組みは電子書籍にもピッタリフィットする。

 電子版のある書籍を買ったなら、それをPCでも、電子ブックリーダでも、iPadでも、携帯電話でも、その時、その場にふさわしいデバイスで見ることができる。

 こうした新しい提案は、電子化後には数多くされていくだろう。中には想像も出来ないような斬新なアイディアもあるかもしれない。

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(2010年 3月 11日)

[Text by本田 雅一]