大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

【短期特集】40年目を迎えた「EPSON」ブランドの歴史を紐解く

〜【第2回】DNAを踏襲するプリンタ事業と、DNAを活かせなかったPC事業

大ヒット製品となったPC向けプリンタ「MP-80」

MP-80から本格化したPC用プリンタ事業

 セイコーエプソンの最大の柱は、プリンタ事業である。

 EPSONブランドの発端となったミニプリンタ「EP-101」の成功をもとに、同社では、パーソナルコンピュータ向けのプリンタ開発に着手。1979年に発売した同社初のドットマトリクスプリンタ「TP-80」に続き、1980年には後継機となるPC向けプリンタ「MP-80」を発売。これが、現在のプリンタ事業に繋がっている。

 エプソンがPC向けプリンタ発売の前夜となる1978年には、日立製作所からベーシックマスター、シャープからはMZ-80が発売され、「パソコン」の名称が一般化。1979年にはNECからPC-8001が登場して、いよいよパソコン時代が到来しようとしていた。

 セイコーエプソンは、パソコンの登場によって、個人ユーザーが利用するコンピュータの時代が到来することを見据え、パーソナルユースまでも視野に入れたプリンタ作りに挑むことにした。

 当時のパソコン周辺機器の考え方は、本体メーカー純正のものを使うというもの。当然、プリンタも同様の考え方が基本だった。

 だが、エプソンでは、その常識にとらわれずに、「個人ユースは、オーディオのシステムコンポ同様に、別のメーカーの製品を選択する市場が存在することになる」と考え、この分野に参入したのだ。

 製品化に当たっては、プリンタの利用環境を徹底的に検証。それをもとに、「誰が、いつ、どこで、どのように使うのか」といったことを考慮し、個人ユーザーや企業ユーザーの利便性向上に向けた工夫を随所に盛り込んでみせた。大型化したハーモニカ方式の印字リボンの採用により、リボンの交換頻度を少なくしたり、給紙時のトラブルを少なくするためにモーターを1基追加したりといった工夫は、ユーザーの利便性を追求した結果だ。

 発売翌年の1981年には、国内市場で60%以上のシェアを獲得し、大ヒット製品となったMP-80は、用途に合わせて3モデルを用意したことも注目を集めた。「TYPE I」はスーパービジネスプリンタと位置付ける一方、「TYPE II」はパーソナルユースを意識し、高解像度化を実現したスーパービットイメージプリンタとポジショニング。さらに続けて投入した「TYPE III」では、その後、プリンタコマンドの標準となった「ESC/P」を初めて搭載し、高機能ぶりを示した。このように、ビジネスユースからパーソナルユースまで、幅広いユーザーに対応した製品戦略が、同製品のヒットを下支えしたと言えよう。また米国では、小型、軽量のイメージから、「Sexy Printer」と称されて、国内同様に爆発的ヒットを記録。受注に生産が間に合わず、ジェット機をチャーターして空輸したほどだったという。

 MP-80のヒットは、「プリンタのエプソン」のイメージが確立するとともに、情報機器分野における総合メーカーを目指す基盤も確立することになったのは確かだ。だが、それ以上に、経営にとって大きなプラスとなったのは、国内はもとより、世界規模での販売網の整備や、工場への自動組み立てラインを導入するきっかけを作った点だ。

 エプソンブランドによる自社製品ビジネスを推進する土台を作り上げた点でも、エポックメイキングと言える製品だったのだ。

苦い滑り出しとなったインクジェットプリンタ

 だが、現在のセイコーエプソンのプリンタ事業の主軸となるインクジェットプリンタのスタートは決して華々しいものではなかった。

 同社インクジェットプリンタの第1号機となった「IP-130K」は、1984年に発売したモノクロプリンタ。多ノズルのインクジェットプリンタがない時代であり、その先駆ぶりは大きな注目を集めたが、ピエゾ方式を用いたプリントヘッドは100V電圧で駆動するため、回路周りが拡大。筐体が大型化せざるを得ないという欠点があった。さらに、ドットマトリクスプリンタが、10万円を切る価格へと低価格化する中で、IP-130Kの価格は49万円という価格。とても普及するような製品ではなかったのだ。

インクジェット製品の第1号となった「IP-130K」

 また、同じ1984年には、米ヒューレット・パッカードが「LaserJet」を発売。オフィスでのレーザープリンタの活用が一気に広がり始めた。

 そして、同じインクジェット方式を採用したキヤノンは、構造が簡単であり、コストダウンには優位なサーマル方式により、ドットマトリクスプリンタに匹敵する価格帯で製品を投入したことも、コストが高いピエゾ方式のセイコーエプソンにはマイナス要素になった。

 エプソンが主流としていたドットインパクトプリンタの市場ポジションが低下する一方、レーザープリンタに出遅れ、さらに、インクジェットプリンタでも打開策を見い出せない中で、セイコーエプソン社内に危機感が漂い始めた。

 当時、プリンタ事業に携わっていたセイコーエプソンの碓井稔社長は、「セイコーエプソンそのものが潰れてしまうのではないかという危機感すらあった」と振り返る。

 だが、セイコーエプソンが、プリンタメーカーとして復権するには、レーザープリンタやサーマル方式のインクジェットプリンタで先行するメーカーに追随するという選択肢はなかった。強い危機感の中、セイコーエプソンは、ピエゾ式インクジェット技術に活路を求めるしかなかったと言えよう。

偶然が生んだマイクロピエゾ成功の種

 試行錯誤の中、エプソンが辿り着いた結論が、ピエゾ素子そのものの改良だった。そして、その難関はある偶然が解決することになった。

 蘭Philipsが、ドットマトリクスプリンタの駆動用アクチュエータとして提案した素子が、インクジェットプリンタに応用できるのではないかと考えたのだ。

 その場に偶然居合わせたのが碓井社長だった。「デザインを少し変えれば、やりたいことに適合でき、はるかに低電圧の駆動で高変位を得られることが直感的にわかった。説明を聞く中で、なんとも言えぬ高揚感が芽生えたことを、今でもよく覚えている」と。その時の様子を振り返る。

 サンプルを手に入れて実験したところ、30Vの電圧で、1μmの変形量が確認できたという。

 セイコーエプソンは、この素子を採用した新構造ヘッドの開発を本格的に開始。この素子を使うことで、インク滴を正確に、まっすぐに飛ばすのに十分なパワーが得られるばかりでなく、低電圧化によって駆動回路なども小型化。プリンタ本体の小型化とコストダウンを実現できるという見込みが立った。

 このとき初めて、レーザープリンタと、サーマル式インクジェットプリンタに対抗しうる技術を確立し、戦うためのスタートラインに立つことができたのだ。

 エプソンはこの技術を「MACH(マッハ)」と呼び、それを搭載した第1号製品として、モノクロインクジェットプリンタ「MJ-500」を1993年3月に発売。74,800円という、競争力を持った価格設定も実現した。

 このとき、IP-130Kの発売から、実に9年の歳月が過ぎていた。だが、ここからの巻き返しはすさまじかった。

 1994年6月にはカラーインクジェットプリンタ「MJ-700V2C」を発売。世界で初めて、1インチ四方内に720×720個のドットを打ち出す720dpiの高画質印刷を実現。誰にでも分かる飛び抜けた表現力により、大ヒットを記録。同製品は、累計30万台を出荷した。

世界で初めて720dpiを実現した「MJ-700V2C」

 また、1995年6月には、同社で初めて、「Colorio(カラリオ)」のブランドを採用した「MJ-500C/800C」を発売。さらに、その翌年には写真画質を大幅な進化させた「PM-700C」を発売した。「PM-700C」は、ライトシアンとライトマゼンタを加えた6色インクとし、粒状感を抑えた美しいグラデーション表現を可能にすることに成功し、銀塩写真に見劣りしない画質を実現した。「フォトプリント=カラリオ」というイメージを定着させた。

 ちなみに、Colorioとは、「Color(色)」と、入出力を意味する「Input(インプット)」と、「Output(アウトプット)」の頭文字を合わせたものだ。

Colorioのブランドビジョンも変更した

「EP」型番復活でプリンタが変わった

 2008年9月、セイコーエプソンは、インクジェットプリンタ複合機の新製品として「EP-801A」を発売した。この「EP」の型番は、現在まで続いているもの。本連載の1回目でも触れたように、プリンタの初代「EP」型番となったミニプリンタ「EP-101」は、EPSONブランドの原点となった製品であり、その型番をここであえて復活させてみせたというわけだ。

 なお、EP-101のEPは、「Electric Printer」が語源だったが、現在使用しているEPは、「Epson Printer」を語源にしているという。

EP型番を復活させ、プリンタ事業の原点に戻った「EP-801A」

 では、なぜこのタイミングで、「EP」の型番を復活させたのだろうか。そこには1つの反省があった。

 振り返ってみると、EP-101やMP-80といった製品は、自ら市場を切り開き、そのために新たな技術を開発し、必要であれば生産方法までも編みだし、販路も自ら作っていった。そして、何にも増して、社会にとって貢献できる製品を目指すという高い志があった。それがセイコーエプソンのDNAでもある。

 しかし、EP-801Aを投入する直前まで、同社のプリンタ事業は決して順調だったわけではなかった。その要因を掘り下げていくと、印刷速度や印刷品質、あるいは付加機能などの技術訴求ばかりが先行し、プリンタを利用する人に向けた価値提案が疎かになっていたことが浮き彫りになる。ユーザー不在の機能競争に明け暮れていたわけだ。

 そこで、プリンタ製品にEP型番を新たに付与するのに合わせて、原点に戻ろうとした。それは、「顧客視点に立ったコンセプトに立ち返る」ということであった。

 それまでのプリンタは年賀状の印刷時にしか利用せず、後は押入の中にしまい込まれるという利用がほとんど。たまに写真印刷で使ってみようとするとインクカートリッジの目詰まりで使えないという状況も発生していた。実際、インクカートリッジの平均年間消費本数は6本。6色カートリッジでは年1度取り替えるという状況だ。まさに年賀状印刷にしか使われていないという状況が浮き彫りにされた。

 そこで、エプソンはそれに向けた1つの回答として、デザインを変更し、筐体を小型化。常時、リビングに置いておけるプリンタの開発を目指した。さらにヘッドチューブでインクを送り出すオフキャリッジ方式を採用することで、インクの目詰まりの課題も改善した。

 合わせて、Colorioのブランド定義も一新し、「単なる写真プリンタではなく、生活の中心に置いて、暮らしになくてはならない存在を目指す」ことにした。

 それ以降、セイコーエプソンは国内プリンタ市場において、トップシェアを奪回しはじめた。セイコーエプソンが、EP-101時代から培ってきたDNAを活かし、原点に戻ったことが、結果に繋がり始めたと言えるだろう。

 EP型番への回帰は、エプソンのものづくりの基本思想に戻るには、必要なきっかけだったのかもしれない。

EPSONブランド最初の製品は会計コンピュータ

 セイコーエプソンは、長年、コンピュータ事業に携わっている。

 実は、1975年に制定されたEPSONブランドを最初に使った製品は、プリンタではなくコンピュータであった。

 同社は、1977年、会計事務所専用コンピュータ「EPSON EX-1」を発売した。これが、EPSONブランド最初の製品だ。そして、この製品化をきっかけに、同社はコンピュータ事業に参入したのである。

EPSONブランド最初の製品となった「EX-1」

 EX-Iは、CPUに8bitのIntel 8080を採用。20KBのメモリ、8インチのフロッピーディスクドライブを2基搭載。オフィスコンピュータの弱点と言われていたアウトプット部分に、シリアルプリンタよりも鮮明な印字品質と高速プリントができる同社独自のラインプリンタ「M-2610」を標準搭載したのが特徴だ。

 開発チームは、OSから開発環境までをすべて自社開発。また、アプリケーションの設計においては、会計事務所の協力を得て、実作業で求められる機能を実現することに力を注いだという。

 EX-1の経験は、その後、医療事務処理専用コンピュータ、ガソリンスタンド専用コンピュータなど業種特化型のコンピュータ事業へと発展していったほか、その後の話題を集めたPC-98互換機事業や、現在もエプソンダイレクトで継続しているPC事業、セイコーエプソンで継続している会計事務所および企業向け財務会計ソフト事業の源流となっている。

世界中から高い評価を得たHC-20

 エプソンのコンピュータが、初めて世界中からの注目を集めたのが、1982年に発売したハンドヘルドコンピュータ「HC-20」であった。

米国でも高い評価を得た「HC-20」

 幅290×奥行き215×高さ44mmというA4サイズ相当の大きさ、約1.6kgという重量の中に、液晶ディスプレイ、キーボード、プリンタのほか、外部記憶機器装置となるカセットテープやRS-232Cポートを標準装備したハンドヘルドコンピュータで、音声カプラを使用すれば、ネットワーク接続が可能。内蔵したニッケルカドミウム電池によって、約50時間のコードレス使用も可能となっていた。

 まさに、モバイルPCの先駆けとも言える製品で、セイコーエプソンが持つ小型軽量技術を世界中に知らしめるきっかけになった製品と言える。米BusinessWeek誌は、「コンピュータの第4革命を起こす製品になる」と評したほどだ。

 半導体やプリンタ、液晶表示体など、同社の先進的基幹技術、高密度実装技術、メカトロニクス技術を結集して作られた世界初のハンドヘルドコンピュータであり、まさに、垂直統合にこだわるセイコーエプソンのDNAが活かされた製品であったと言えるだろう。

PC-98互換機は当然の選択肢?

 一方、日本においては、1987年3月に発売した国内初の98互換機「PC-286シリーズ」が、大きな注目を集めた。

 1990年代中盤まで国内パソコン市場で圧倒的とも言えるシェアを誇っていたのが、NECのPC-9800シリーズであり、通称「キューハチ(98)」と呼ばれた同製品は、NEC独自のMS-DOSおよびWindowsを採用。PC-9800シリーズ用に開発されたアプリケーションソフトは、他社製パソコンでは動作せず、それが独占的とも言える市場を作り上げていたのだ。

 国内シェア80%以上を誇る状況は、まさに「ガリバー」と表現されるほどであり、この状況に着目したエプソンは、PC-9800シリーズのアプリケーションソフトが動作する98互換機を製品化したのだ。

 欧米では、世界標準となっていたIBM PC/ATの互換機が幅広く販売されており、エプソンも米国ではIBM PC/AT互換機を発売。日本においてPC事業を推進する上では、圧倒的シェアを誇るキューハチの互換機を出すことは、当然の選択肢だったと言える。

 1997年、エプソンは、「ソフトが待っていた」というキャッフレーズを使い、98互換機市場に参入したのだが、この船出は荒波の連続だった。

NECとの間で著作権侵害を巡り訴訟問題に発展

 1987年3月13日、セイコーエプソンは、PC-9800シリーズのアプリケーションソフトが動作する国内初の98互換機「PC-286シリーズ」を発表した。

 PC-286では、「Model 1」から「Model 4」までの4製品を用意。最下位のModel 1は、HDDを搭載せずに378,000円の価格設定。当時として高い競争力を持った価格設定が、業界から大きな注目を集めた。

発表したものの市場には投入されなかったPC-286 Model 4

 だが、これに対してNECは、「BIOSおよびROM部分に類似点が多い」として、同年4月7日、東京地裁に、製造および販売差し止めの訴訟を起こし、著作権問題へと進展。セイコーエプソンはこれを受けて、同製品の市場投入を中止し、発表した製品は一度も市場に流通しないままお蔵入りになってしまったのだ。

 しかし、セイコーエプソンは98互換機を諦めなかった。

 発売を中止した製品は、「係争中のBIOSを搭載した製品は不安であろう、という営業上の見地から発売を取りやめた」と説明し、著作権侵害はないという認識を表明する一方、約1カ月後の4月24日には、「PC-286 Model 0」を発表してみせたのだ。これが事実上の98互換機の商品化第1号モデルになった。

 エプソンは、「Model 0は、Model 1〜4とは、まったく違うグループによって開発されたもの」と前置きし、「セイコーエプソンは、著作権保護に厳しい米国でIBM互換機を発売している経緯がある。その実績からもシロという自信があり、それは新製品も同じ」としながら、新たな製品でも著作権侵害がないことを訴えた。

1987年3月13日に行なわれた98互換事業参入の会見の様子
急遽投入されたPC-286 Model 0

 その後、著作権問題については、同年11月にNECと和解。セイコーエプソンは、さらに互換性を高めたデスクトップPCの「PC-286V」、ノートPCの「PC-286U」などの新製品を続々と投入。年間販売目標を1万台としていたセイコーエプソンの98互換機事業は、翌1988年には、年間出荷台数が20万台にまで拡大するという急成長ぶりをみせた。

 しかし98互換機事業は、1995年に発売したPC-586RJを最後に終了。1993年に設立したパソコン直販事業を行なうエプソンダイレクトが「Endeavor」ブランドで展開していたIBM PC/AT互換機(DOS/Vパソコン)事業を継続的に展開し、現在の同社のPC事業へと繋がっている。

Endeavorブランドの第1号機となった「AT-1000」

98互換機事業は失敗だったのか?

 実は、セイコーエプソンの歴史において、98互換機事業は、むしろ「失敗」の部類に位置付けられている。

 もちろん、エプソンの知名度を引き上げ、この時期に日本全国に営業拠点を積極的に展開していく原動力にもなったのは確かだ。

 それでも失敗と位置付けるのは、98互換機事業を終息させたことよりも、セイコーエプソンが創業以来のDNAとして持ち続ける「創造と挑戦」に合致する事業ではなかった点が大きい。

 98互換機事業は、当然のことながら、NECの98事業を追いかける事業となる。そして、頭脳部として搭載されるCPUはIntel、心臓部となるOSはMicrosoftがそれぞれに主導権を握る市場であり、エプソンの独自性はどこにもない。

 小さなところに創造性は発揮できても、セイコーエプソンが主導権を握って、世の中を大きく変える製品にはなり得ないのだ。

 歴史的に見れば、セイコーエプソンにとっては重要な事業の1つだが、エプソンのDNAが発揮できない製品領域でもあったというわけだ。

 同社サイトのマイルストーンプロダクツを紹介するコーナーにも、98互換機は紹介されていないことからも、それが裏付けられると言えるかもしれない。

 PC業界においては、事業売却や撤退が進むなど、各社のPC事業を取り巻く環境は厳しいが、それでもエプソンは、エプソンダイレクトを通じて、PC事業を継続している。

 小型、軽量などのエプソンが持つ差別化技術を、PC事業に活用し、そこで差異化を図る事業モデルを確立している。

 セイコーエプソンから見れば、今のエプソンダイレクトの立場は孫会社。歴史を振り返れば、セイコーエプソンの前身となった信州精器は、当時の服部時計店からみれば、今のエプソンダイレクトと同じような立場にあった。「孫」という親会社から距離感を活かして、自由闊達な風土を醸成し、その上で、事業展開を行なってきたのが、今のセイコーエプソンに繋がっている。

 時代と置かれた環境は大きく違うが、エプソンがPC事業を継続している意味を考えれば、そこには、エプソンのDNAが、何かしらの形で発揮されているはずだ。エプソンダイレクトには、孫会社だからこその「やんちゃ」さに期待したいところだ。

(大河原 克行)