大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

いよいよスタートする新生日本マイクロソフト

~7月1日就任の平野新社長の手腕はいかに?

7月1日付けで新社長に就任する平野拓也氏

 日本マイクロソフト株式会社の新社長に、2015年7月1日付けで、平野拓也代表執行役副社長が就任する。

 同社の新年度は、7月から始まることになり、同社会計年度で言うところの「2016年度」のスタートに合わせた形での社長就任ということになる。

 日本マイクロソフトの歴代社長は、古川享氏、成毛眞氏、阿多親市氏、マイケル・ローディング氏、ダレン・ヒューストン氏、そして、今年6月末まで社長を務める樋口泰行氏と続き、平野新社長は7代目の社長となる。

 だが、1986年2月の日本法人の登記時点での社長には、当時、米Microsoft本社に勤務していたロン細木氏の名前が記されていたのは知る人ぞ知る事実。1986年5月に、18人の社員によって営業を開始した時点では、社長は古川氏に変更されていたため、対外的には古川氏が初代社長となっている。こうした隠れたエピソードを踏まえるのならば、平野氏は、登記上では8代目の社長ということになる。

なぜこのタイミングでの社長交代なのか?

 このタイミングで、樋口泰行氏から、平野新社長へとバトンタッチするのには、いくつかの背景がある。

 1つは樋口社長自身の社長在任期間が長期化していた点だ。

 もともと樋口社長が日本マイクロソフトの社長に就任した2008年当時でも、50歳と歴代社長の中でも最高齢だった。古川氏、成毛氏はいずれも30代で社長に就任。ローディング氏、ヒューストン氏も39歳での社長就任だ。それまで最年長だった阿多氏の就任時が42歳だったことと比較しても差が分かる。さらに、7年間という長期に渡っての舵取り役は外資系企業では珍しい。若返りが求められていたのは事実だった。

今年7月15日にサポートが終了するWindows Server 2003は、社長就任6日前にマイケル・ローディング氏が日本で発表した
スターバックスでの経験を買われてマイクロソフト入りした第5代社長のダレン・ヒューストン氏(左)と、ダイエー社長から転身した第6代社長の樋口泰行氏(右)

 ちょうど米本社では2014年2月に、58歳のスティーブ・バルマー氏から、46歳のサティア・ナデラ氏へとバトンタッチ。日本でも、今年58歳になる樋口泰行氏から、今年45歳の平野氏へとバトンを渡すという意味では、まさに最適なタイミングだったと言えよう。

 樋口社長自身も、「昨年(2014年)2月、米MicrosoftのCEOにサティア・ナデラが就任して以降、Microsoftの変革はさらに急ピッチで進められている。日本マイクロソフトもリーダーをリフレッシュし、世代交代を進め、さらに変革を進めていくタイミングにあると感じた」と語る。

 また、社名を日本マイクロソフトに変え、品川に本社を統合移転してから、7月からの新年度でちょうど5年目になること、日本マイクロソフトが創業してから30年目を迎えるという節目になることも、新社長へのバトンタッチには最適なタイミングであると考えたことも見逃せない。

海外での実績を引っ提げて社長に就任

 2つ目には、新社長となる平野氏が、日本法人社長就任に向けての実績を積み、まさに機が熟していたことだ。

 平野新社長が、日本マイクロソフトへ入社したのは、2005年8月。ビジネス&マーケティング部門シニアディレクターに就任した後、エンタープライズ分野を担当。2007年7月に執行役常務に就任した。その平野氏には、2011年2011年7月に、米マイクロソフトのCentral and Eastern Europe(CEE)のマルチカントリーゼネラルマネージャーに就任するという異例の人事が待ち受けていた。

 日本法人から米本社に異動する社員はいるが、日本法人とは全く連動性がない組織に、しかも統括する立場で異動したのは平野氏が初めてだ。これには、米本社でCOOを務めるケビン・ターナー氏の意向が強く働いたとの声もある。

 平野新社長が、3年間に渡って担当することになるCEEの拠点はドイツ。だが、担当エリアは、バルト3国や地中海沿岸国、そして、モンゴルまでを含む25カ国であり、その多くが新興国だ。

 そして、この3年間の活躍は米本社も認めるものとなった。平野氏が統括した3年間のうち後半の2年間は、社内表彰制度であるTOP SUB AWARDを2年連続で受賞。新興国市場においては、世界で最も優秀な成績を収めたゼネラルマネージャーが平野氏だったのだ。

 平野氏は、まさに「凱旋帰国」という言葉が当てはまる状況で、2014年7月に、執行役員専務として、日本マイクロソフトに復帰。そして、1年という助走期間を置いて、日本マイクロソフトの社長に就任するというわけだ。その日本マイクロソフトも、過去4年間において、先進国6カ国中の中で、3回のTOP SUB AWARDを受賞。言わば世界トップの地域子会社に、新興国ビジネスにおいて最高の成果を収めた平野氏が就任するという構図になったというわけだ。

 実は、樋口社長には、上司である米Microsoft Internationalのジャンフィリップ クルトワ プレジデントに提出する年次レポートの中で、必ず次期社長候補を示すことが求められていた。

 その中に、平野氏の名前は必ず記されていたようだ。

 それを裏付けるように、樋口社長は、「新たな体制に交代する上では、かなり綿密に引き継ぎ計画を立ててきた」と語り、米Microsoft Internationalのジャンフィリップ・クルトワプレジデントも、「これは昨日の夜決めたことではなく、樋口との数年間の話し合いを経て決めてきたこと」と語る。

 「機が熟す」という表現が当てはまる状況にあったのは確かだ。

「社長交代は綿密に引き継ぎ計画を立ててきた」と語る樋口泰行社長(左)と、米Microsoft Internationalのジャンフィリップ・クルトワプレジデント(右)

名前と顔が一致しない?

 「名前と顔が一致しないとよく言われる」と、平野新社長自らが語るように、外見はまるで外国人のように見える。

 平野新社長の父は日本人、母が米国人。自らを「北海道で生まれた道産子」と語り、「日本人なのか、外国人なのかと聞かれるが、ベースは日本人だと言い切っている」と語る。

 「子供の頃から、父と一緒に座禅を組んだり、学ランを着て登校したり、受験勉強もした」と、日本で長年生活してきた経験を披露する。

 だが、米国の文化もよく知る人物であり、米ブリガムヤング大学を卒業後、Kanematsu USAに入社。さらに、Arbor Softwareに勤務するなど、米国での生活も長く、米国企業での経験もある。

 そして、平野新社長は、ネイティブの英語を操る。今、4人の子どもがいるが、子供たちとの会話も基本は英語だ。

 樋口社長は、「自分の場合、日本語だったら、細かいところも伝えられるのにと悔やんだ場面もあったが、平野にはそれがない」と、冗談交じりに、平野新社長の英語力を高く評価する。米本社とのやりとりにおいても、本音で語ることができる人材と言えそうだ。

就任直後から相次ぐ大型イベント

 平野新社長に課せられたテーマは、日本マイクロソフトの再成長だ。

 前年は、Windows XPのサポート終了や、消費増税前の駆け込み需要の影響もあって、世界的に見ても日本が高い成長を遂げたが、2015年6月までのこの1年間は、その反動の中で厳しい状況を余儀なくされた。過去4年間のうち、3回獲得したTOP SUB AWARDも、今年は受賞できない公算が高い。これを再び、高い成長軌道に乗せることができるかが鍵になる。

 そして欧米に比べて進展が遅れているクラウドビジネスの拡大や、Windows PhoneやXboxといった、今後日本での取り組みを加速しなくてはならない領域での展開も課題だ。この2つの領域は、これまでは治外法権のような扱いだったが、平野社長時代には、それは許されないものとなろう。もちろん、米本社が掲げているデジタルデバイス分野における「挑戦者」としての立場での新たな取り組みも必須課題だ。Surfaceによる自社ブランドのデバイスの普及戦略と、世界各国に比べてOEMベンダーが多い日本特有の市場バランスを維持することも求められる。

 そして、就任直後の7月15日には、Windows Server 2003のサポート終了、7月29日には、Windows 10の提供開始と大きなイベントが相次ぐ。

 就任初年度から、待ったなしでの成果が求められているというわけだ。さまざまな課題に対して、どんな手腕が発揮されるかが注目される。

樋口新会長が果たす役割は?

 一方で、今後、樋口社長は、7月から日本マイクロソフトの会長となり、どんな役割を果たすのだろうか。

 樋口氏は、「会長としての仕事は、私が持つ外部のネットワークを活かした活動、さらにはトップ営業や、財界および政府への影響力向上に取り組むこと」と語り、「2020年の東京オリンピックにも、何かしら貢献する仕事にも取り組みたい」とする。

 現時点で、日本マイクロソフトは東京オリンピックには何ら関与していないが、過去のオリンピックを見ても、ロンドンオリンピックでは映像配信にMicrosoft Azure Media Servicesが活用され、ソチオリンピックでは、公式WebサイトのプラットフォームにMicrosoft Azureが活用されたというように、Microsoftは公式スポンサーでなくても、オリンピックのITインフラを支える役目を果たしている。樋口氏が語るように、今後、東京オリンピックで日本マイクロソフトが、何らかの形で貢献する可能性もありそうだ。

 また、歴代の日本マイクロソフトの社長経験者が幅広い活躍をしているように、今後の樋口氏の活躍を期待する声もある。

 古川享氏は、つい最近まで療養中だったが、慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授として精力的な活動を再開。成毛眞氏は、ベンチャーキャピタルのインスパイアの取締役ファウンダーであるとともに、数多くの著書を執筆するなどの活動を行なっている。阿多親市氏は、ソフトバンクテクノロジーのCEOを務めるなど、ソフトバンクグループで活躍。ダレン・ヒューストン氏は、ホテル予約などのオンラインサービスを提供する米プラスラインのCEOに就任。マイケル・ローディング氏はスペンサースチュアートでデジタル分野を対象にしたコンサルタントとして活躍している。

初代社長となる古川享氏(左)。2005年6月に日本マイクロソフトを退社。ビル・ゲイツ氏が駆けつけて「囲む会」を開催した
書籍の執筆など精力的な活動を続ける成毛眞氏。写真はインスパイア設立直後のもの
2000年から社長を務めた阿多親市氏は2003年に退社。卒業を祝う会にソフトバンクの孫正義社長が登壇してソフトバンクグループ入りを発表し、会場は驚きの渦に

 樋口氏は、当面、日本マイクロソフトの会長職に留まる予定のようだが、初めて社会人経験をしたパナソニックや、Apple日本法人といった企業での実績、世界最大のIT企業であるHewlett-Packardの日本法人である日本ヒューレット・パッカードの社長に45歳で就任した経験、ダイエーの社長兼COOでの企業再生へと取り組んだ経験は、樋口氏ならではのものであり、これらの経験を活かす場はいくらでもあるだろう。

 もちろん、日本マイクロソフトを成長させた実績も高く評価されるものだ。

 中長期的に見れば、樋口氏の今後の動き方も気になるところである。

 ちなみに、7月2日には、平野氏が日本マイクロソフト社長として、初めて会見の場に登場し、新年度事業方針について説明する。

 3月2日に社長就任が発表されてから、4カ月を経過。その間、平野氏は、表にはほとんど出てこなかったが、経営に関する部分については、すでに平野氏が中心になって推進されてきたという。樋口氏からの引き継ぎにも十分な時間があったと言えるだろう。

 平野社長体制での日本マイクロソフトのスタートまで、まさに秒読み段階に入った。

(大河原 克行)