大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

【短期特集】40年目を迎えた「EPSON」ブランドの歴史を紐解く

〜【第1回】EPSONブランドはなぜ誕生したのか?

長野県諏訪市のセイコーエプソン本社

 1975年6月12日、当時の信州精器(現・セイコーエプソン)は、新たなブランド「EPSON」を制定した。そして今日、それからちょうど40年を迎えた。

 このブランド名は、その後、信州精器がエプソン株式会社として社名にも採用。そして、諏訪精工舎との合併に伴い、セイコーエプソンがスタート。現在でも同社の製品ブランドとして、全世界140カ国以上で、EPSONブランドの製品が販売されている。

 ブランド制定40年に合わせて、3回に渡る短期連載として、EPSONの歴史を振り返ってみたい。

「EPSON」の意味は、EP-101の子供たち

EPSONブランドの制定にあわせて広丘工場で行われた植樹式。中央が、当時の中村恒也社長。この木は、残念ながら現在はない

 今では慣れ親しんだEPSONというブランドだが、果たして、このブランドの由来はなんなのだろうか。

 実は、このブランドの由来は、1968年9月に出荷を開始した小型軽量デジタルプリンタ「EP-101」にある。

 EP-101は、同社の第1号プリンタ製品だ。主に、電子式卓上計算機用のプリンタとして開発されたものであり、一時期は全世界で90%以上のシェアを獲得。累計販売台数は144万台という大ヒットを生んだ伝説のヒット製品である。

 「このEP-101の子供(SON)たちが、世の中に多く出ていくように」という願いを込めて制定されたのが「EPSON」だ。

EPSONブランドの原点となった「EP-101」

 ただ、聞き慣れない響きだけに、当時は社内でも反発があったようだ。

 「EPで損(SON)をするように聞こえる」、「石油大手の米エクソンに似ている」などの声のほか、「米国ではエプソムソルトという下剤がある」、「英国ではエプソムダービーが有名であり、それに食われる」など、反対意見は次々と噴出。これに対して、「SONが損をするならば、SONYはどうするんだ」などと言った、ジョークのような反論も社内では出ていたという。

 実際、EPSONブランド制定後には、情報機器分野への進出を模索していた米エクソンから、類似商標であるとしてクレームがあり、法廷闘争か、2,000万円でエクソンに売却するかの二者択一を迫られたことがあったという。この話は、その後、エクソンは情報機器分野への参入を断念。このクレームも立ち消えになったという。

課長会議で決定したEPSONブランド

 EPSONブランドの制定プロセスは、トップダウンで決定されたものではなかった。また、社内公募で決められたものでもない。当時、プリンタ事業を担当していた機器事業部長をはじめとする約15人が出席する課長会議の中で決定したものだ。

 振り返ってみると、この時点まで、同社にはブランドを必要とする製品はなかった。ブランド名の由来となったミニプリンタの「EP-101」も、電子式卓上計算機に付属させて利用するものであり、ブランドは不要。当時主力事業であった腕時計製造も、親会社である諏訪精工舎を通じて、服部時計店に納める下請け製造会社の立場にあり、ここでも自社ブランドは必要なかった。唯一、この時期にブランドが必要だった理由としては、海外で商談をする際に、「シンシューセイキ」という当時の社名が発音しにくい、あるいは覚えにくいと指摘されていたことぐらいだろう。

 ここにも1つのエピソードがある。実は、EPSONのブランドが日本で正式発表されたのが1975年6月であるのに対して、米国法人であるEpson America Inc.が設立されたのが1975年4月。日本での発表前に、米国法人の社名として先にEPSONのブランドが使われていたのだ。

エプソンのロゴ

夢のような製品を作り続ける意味を込める

 ブランドが不要な製品ばかりを持つ同社が、なぜブランドを制定したのだろうか。

 それは、将来に向けて、自社ブランド製品による事業展開を模索していたことが挙げられる。

 課長会議の参加者たちは、新ブランドのコンセプトとして、「1961年に信州精器を設立してから約5年を経過する中で、EP-101などを立ち上げ、学んできたことを次世代に生かし続けたい。そして、マーケティングによって、次代の新たなニーズを捉えて、技術を融合することで、新たな製品を開発していく上で、最適なブランドを制定したい」といった狙いを共有。それをもとに議論を重ねていった。

 だが、なかなかいいアイデアは出てこない。響きのいいブランド名が候補にあがっても、コンセプトには合致しないとの理由から却下されることの繰り返しだった。

 そうした中で出てきたのが、EPSONであった。

 この名称の発案者は、次長として会議に参加していた、のちにセイコーエプソンの専務取締役を務める土橋光廣氏であった。

 大ヒット製品であるEPの子供たちという意味を持たせたこのネーミングの提案に、課長会議の参加者たちは満場一致で賛成した。

 だが、当時の関係者は次のようにも語る。

 「表面的には、EP-101の子どもたちという意味がある。だが、そこに込めた意味は、EP-101で実現した『夢のような製品』を作り続けるブランドであるということ。単なるEPの子どもを作るのではなく、夢のような製品を作るという願いを込めている」。

 セイコーエプソンの碓井稔社長は、「世の中が持つ課題に対して、新しい技術で解決し、夢が実現するような会社にしたい」と同社の基本姿勢を示すが、EPSONというブランドにも、その基本姿勢が盛り込まれていると言えるだろう。

 ちなみに、EPSONブランドを最初に冠した製品は、1977年6月の会計事務所向けコンピュータ「EPSON EX-1」。ブランド制定から2年の歳月が過ぎていた。

夢のような製品「EP-101」とは?

 では、EPSONブランドが生まれた発端にある「EP-101」とはどんな製品なのか。

 EP-101は、同社の第1号プリンタであると同時に、世界初の小型軽量デジタルプリンタと言える製品だ。

 当時、先行メーカーから発売されていたプリンタは、重量が10kg以上あり、大きさも30Lと大型なものだった。これに対して、EP-101は、164×135×102mm(幅×奥行き×高さ)と大幅な小型化を実現。重量は2.5kgと片手で持ち運べるサイズであった。さらに、従来のプリンタでは、駆動電圧が100Vであったのに対して、EP-101は17Vで駆動。消費電力は、待機状態では150mA、最大負荷印刷時でも410mAと、約20分の1程度にまで削減することに成功した。

 小型、軽量、省電力というのは、まさにセイコーエプソンが得意とする「省・小・精(ショー・ショー・セイ)」の技術によるものだ。

 21桁の印字を実現したEP-101では、1桁の主要構成要素を、トリガ電磁石、電磁石爪、トリガレバー、ハンマレバーというシンプルな構造を採用。ここには、時計製造で培われた精密加工技術がふんだんに活用されている。また、小型モーターには、水晶時計用モーター技術を応用。省電力化に貢献している。さらに、シンプルな構造は、500万回の印字寿命を実現することにも繋がり、信頼性の向上にも貢献している。

 電子式卓上計算機で計算した結果を、短時間に印字し、しかも場所を取らずに設置できるEP-101は、従来の常識を一気に覆す、革命児ともいえる製品だったのだ。

 EP-101の発売後の反応は、予想を大きく上回るものになった。

 当時は、そろばんに代わって、電子式卓上計算機が、オフィスに導入されつつある時期でもあり、電子式卓上計算機メーカーや計測器メーカーなどから商談が殺到。当初は月産2,000台でスタートしたが、それでは間に合わせず、現在、エプソンダイレクトの本社がある村井事業所へ生産移管したのに合わせて月産2万台へと拡大。また、新たに竣工した長野県塩尻市の信州精器広丘工場に生産を移管することで、月産3万台体制に拡充。最終的には月産6万台にまで拡大し、輸出も増やしていった。

 当時、国内には15社の電子式卓上計算機メーカーがあり、メーカー全てを合計した電子式卓上計算機の国内月産台数は約1万台と言われていた。それを大きく上回る台数を出荷していたわけだ。この数字からも、EP-101が圧倒的な人気ぶりだったことが分かるだろう。

 なお、「EP」の名称は、電子プリンタを意味する「Electric Printer」から来ているが、当時のEP-101は、トリガ電磁石に通電し、それによってトリガレバーが作動。トリガレバーがハンマレバーを押し出し、印字ドラムの上にあるインクリボンと記録を叩いて印字するという仕組みであり、電子プリンタというよりも、「電子的に制御されるプリンタ」という解釈の方が妥当だった。

 そして、もう1つ当時のエピソードを加えると、EP-101の「101」は、EP-101の命名者である、のちに専務取締役を務める相澤進氏が、愛読していた欧州の音楽を紹介した書籍の題名が「101曲集」となっていたことによる。本来ならば、第1号製品は、「100」という型番をつけるはずだが、101の型番にはこんな由来があった。

プリンティングタイマーがプリンタ事業の源流

 EPSONブランドの原点にあるのはEP-101であるが、なぜ、同社はプリンタの製品化に着手したのだろうか。そのきっかけを知るために、時計の針をもう少し戻してみたい。

 服部時計店を頂点とするセイコーグループが、初めてプリンタを開発したのは、1964年の東京オリンピックで採用されたプリンティングタイマーにまで遡る。

 プリンティングタイマーは、スポーツ競技用の電子記録システムとして、時間計測機構(タイムカウンター)と時刻印刷機構(プリント機構)を統合。ピストル、光電管、写真判定機などと連動し、スタートからゴールまでの記録を自動的に計測。またその記録の印字も同時に行なえる装置である。

諏訪精工舎が開発した「プリンティングタイマーV型」

 タイムカウンターには、高精度の水晶時計を採用し、水晶発振器からの時間信号により、スタート時から機械式カウンターが回転。陸上競技のラップ時やゴール時には、電磁ハンマーが作動し、プリント機構が、100分の1秒から1時間桁までを、内蔵ロールペーパー(巻取紙)に記録する仕組みだ。印刷される「点」を用いて、1,000分の1秒台を目測することもできた。

 東京オリンピックでは、15台のプリンティングタイマーを活用。陸上競技などで威力を発揮し、「オリンピック史上初めて、計時に対するクレームがまったくない大会」を実現してみせた。

 この時、プリンティングタイマーの開発を担当したのは、精工舎、第二精工舎、そして、信州精器の親会社である諏訪精工舎の3社。3種類のプリンティングタイマーが開発され、I型は精工舎と諏訪精工舎の共同開発。II型とIII型を第二精工舎が担当した。EP-101を開発することになる信州精器は、このプロジェクトには関わっていなかった。関わっていたのは、東京オリンピックの公式計時装置として採用された、スポーツ競技用卓上小型時計「セイコー クリスタルクロノメーター QC-951」の開発だった。

スポーツ競技用卓上小型時計「セイコー クリスタルクロノメーター QC-951」

 信州精器がプリンティングタイマーの開発に直接関わるのは、東京オリンピック閉会後の1965年に開発されたV型であった。

 V型は諏訪精工舎が中心となって開発したプリンティングタイマーで、そこに信州精器のエース技術者などが参画。同社が持つ「省・小・精」の技術を活かして、小型、軽量、省電力化を実現した。

 この小型、軽量、省電力化は、プリンティングタイマーの活用範囲を広げた。最初にV型が使用されたのは、1966年2月に北海道旭川市で開催された第21回国民体育大会冬季大会スキー競技。山岳地帯で行なわれるスキー競技の計測に、持ち運びでの利便性、設置場所を取らないこと、電力環境にも配慮できるとして、V型は大きな威力を発揮したからだ。続いて、1966年12月には、タイ・バンコクで開催された第5回アジア競技大会でも使用。12月でも気温30度を越す日があるバンコクにおいて、大会期間中、技術者たちは現地に赴き、熱と戦いながら、これを稼働させたという。

 寒冷地でも、灼熱の地でも稼働するプリンティングタイマーの開発が、その後の信州精器のプリンタ開発へと発展。現在のセイコーエプソンのプリンタ事業へと繋がっているのだ。

 こうしてみると、東京オリンピックで使用されたプリンティングタイマーは、セイコーエプソンのプリンタ事業の「基本コンセプト」を作る源流であり、その流れを継承した国体やアジア大会で利用されたプリンティングタイマーは、セイコーエプソンのプリンタ事業における「技術」の源流だと言えるだろう。

開発完了から市場投入まで3年をかける

 もう1つ触れておきたい当時のエピソードがある。

 信州精器が、プリンティングタイマーV型を1965年に開発してから、EP-101が製品化される1968年9月までに約3年の歳月が経過している点だ。

 当時の関係者に話を聞くと、EP-101の基本技術は、1965年時点で、ほぼ確立されていたという。つまり、すぐに市場投入できる準備が整っていたと言えよう。だが、同社では、約3年をかけて、改めて市場調査を行なった。これが、市場投入まで3年を要した理由だ。

 同社の開発チームは、EP-101の技術には強い自信を持っていたが、初の商用化プリンタの開発であり、事業化する上で、先行メーカーや電子式卓上計算機メーカーから全く違う技術を持った製品が登場するのではないかという危機感を持っていたことがその背景にある。

 同社がこうした危機感を持ったのには理由がある。それは腕時計事業での経験だった。

 1956年に発売した機械式腕時計「セイコー マーベル」で世界的にも評価を得ていた中で、その対抗として突如として現れたのが、米ブローバ(BULOVA)の電子時計であった。

 1960年に発売されたブローバの電子時計は、音叉の技術を腕時計に使用し、日差2秒という正確性を実現。予想しなかった技術の登場によって、機械式腕時計が凌駕されることになるとの危機感が業界内に広がった。

 とくにセイコーグループでは、水晶(クオーツ)に次世代腕時計の糸口を求めていたものの、完成にはまだまだ時間がかかっており、当時の技術者によれば、新たな技術の登場は、会社存続の危機を感じるほどだったという。

 得意とする時計業界において、予想を遙かに超える技術が登場し、それによって市場が大きく変化するという経験は、新たなプリンタ事業のスタートにおいて、石橋を叩いて渡るほどの慎重さを要求することになった。

 それが3年間という歳月に表れている。

 結果としては、当初の技術をそのまま採用し、製品を市場投入することになっただけに、3年間のビジネスチャンスを失ったとも言えなくもない。

 だが、この3年間は、決してマイナスではなかったようだ。

 1つは、この3年間を使って、EP-101に搭載した技術において、数多くの特許取得を完了したこと。また、この間に電子式卓上計算機市場が熟成し始めた点も、その後EP-101の広がりにはプラス要素となった。さらに、後継機種の開発まで進めることができた点も見逃せない。同社では、EP-101の発売時点で、既に後継機のコンセプトを固め、開発に着手。競合他社が参入してきた翌年には、EP-101の約5割という低価格で、後継製品を投入。他社の追随を許さなかった。実は、第1号製品の開発とともに、後継機種の開発に着手するという手法は、その後のセイコーエプソンのモノづくり手法の1つとして確立されている。

 次回は、エプソンのプリンタ事業の歴史、そして、98互換機によるPC事業への取り組みについて振り返ってみたい。

EPSONブランド初の製品となった会計事務所向けコンピュータ「EPSON EX-1」

(大河原 克行)