山田祥平のRe:config.sys

TVの特質としてのリアルタイムコンテンツ共有




 ビデオレコーダーでTV番組を見ることが当たり前になり、TVのリアルタイム性は失われたかのように見える。でも、SNSの浸透は、そのトレンドを少し押し戻そうとしているようにも感じる。今なお、大きな影響力を持つTVの特質について考えてみることにしよう。

●録画済み番組の視聴体験をリアルタイム視聴に近づける

 別件記事のための取材で、NECのSmartVision関連の話を聞いてきた。SmartVisionは、NECのPCに搭載されているTV視聴録画システムだが、関連ソフトの「つぶやきプラス」によるTwitter連携が話題になっている。その機能の1つに、録画済みの番組と、その放映時のツイートをシンクロさせ、あたかも、番組をリアルタイムで見ているかのような状況を作ることができるというものがある。そして任意のツイートをクリックすると、そのツイートの30秒前にジャンプして再生を開始するのだ。つぶやきを書き込むのに10数秒はかかると想定すると、まさにその該当シーンの直前から再生が始まる。

 つぶやきを書き込んだユーザーのほとんど全員は、その番組をリアルタイムで見ている。ところが、録画済み番組を見ているユーザーは、その時間を共有することができない。スポーツの生中継などを録画して見るときには、あらかじめ新聞を見ない、ニュースを見ないなどの努力をして、情報をシャットアウトしておき、結果を知らない状態で視聴に挑む人も多いそうだが、それでもその番組を見ている自分自身の孤独感は否めない。でも、Twitter連携で、リアルタイムのつぶやきがバックグラウンドにあれば、自分の書き込みは意味がないにしても、その孤独感が多少は緩和されるというものだ。

 「天空の城ラピュタ」での「バルス」は有名なリアルタイムツイートだし、そこまでいかなくても、大晦日から元旦になった瞬間の「あけおめ」等のツイートは、まさにリアルタイムでなければ楽しめない。移動体通信各社は年末年始の「あけおめことよろ」による通信障害を、通話制限や通信規制で回避している。でも、ラピュタのバルスなら予想できるかもしれないが、たとえば、ロンドンオリンピックで日本人選手が金メダル確定の瞬間などにも、こうした規制をするんだろうか。

●つぶやきの寿命とTVコンテンツの寿命

 やはり、TVはリアルタイムで見てナンボのメディアなのではないかと思う。家庭用のビデオレコーダーが一般的になって、もう四半世紀以上が経過しているが、TV番組のことが話題になるのは、長くて放送後1日程度だ。たとえば、前夜の番組がよかった、びっくりした、すごかったが話題になるのは、せいぜい、翌日の昼頃まで、長くても翌日の夜ぐらいなんじゃないだろうか。同僚と飲むために会社の帰りに立ち寄った焼き鳥屋で「そういえば、昨夜のあの番組さ……」といったカタチで話題になるわけだ。

 だから、話題の番組は旬のうちに見ておく必要がある。たとえ録画を見るにしても、放映日の当日に見ておかなければ、翌日の話題についていけない。ドキュメンタリーなどならまだしも、ドラマなどではネタバレで、未視聴の録画番組への興味が減衰してしまうことだってある。だからCMをスキップし、短い時間で体験を得ようとしたりもする。

 Twitterなど、SNSの浸透は、そのTVコンテンツの旬を、より短くする方向に押し戻す働きをしているようにも感じる。いったんはビデオレコーダーのおかげで延びたにも関わらずだ。

 特に、Twitterクライアントの多くは、新しいものから古いものへとタイムラインを読み進めるケースが多く、スマートフォンなどでTwitterクライアントを開けば、数秒前、数分前といったリアルタイムに近いものから数時間前に向かってタイムラインを読み進めることになる。多くのクライアントは一度に200程度のツイートしか取得しないので、その人のリストやフォロー数にもよるが、たかだか数時間くらいのツイートしか目を通さないことが多いんじゃないだろうか。つまり、数時間以前のタイムラインはなかったものになってしまう。いわばツイートの寿命が尽きているともいえる。

 もちろんコンピュータなので、検索などを駆使して過去のツイートをたぐり寄せることもできるし、それはそれでSNSの特性のある種の面を構成してもいる。でも、電車をホームで待っている間に、たまたま開いたタイムラインで「うわ、これすごい」的なつぶやきを見つけたら、その場でワンセグTVを見たいという気持ちにもなろうというものだ。

●リアルタイムの共有

 こうしてTVはそのリアルタイム性を少しづつ取り戻そうとしているのではないか。ビデオレコーダーのなかった時代のようにだ。オンデマンドTVのトレンドはあるにしても、それは映画や書籍といった別のメディア的な扱いだ。尋常では考えられないほど多くの人々がリアルタイムを共有するのがTVだ。そして、その人々が、目の前でリアルタイムで繰り広げられる光景に固唾を飲み、喜怒哀楽をあらわにし、当たり前のようにそれに対するコメントをつぶやいているのが現代という時代だ。

 TVでなくても、UstreamのTwitter連携は同じような体験を提供しているし、たとえYouTubeのような蓄積型の映像サービスであっても、コメント欄が仮想的なリアルタイム視聴体験を創り出している。ニコニコ動画でコメントが動画にオーバーレイして再生されるようなスタイルは、その典型といえるかもしれない。

 AppleもGoogleも、TV的なものをサービスの一端に加えようと躍起になっているが、決してまだうまくいっているようには見えない。なぜかを考えると、AppleのユーザーならiOSデバイスを、GoogleのユーザーならAndroidデバイスを所有していることを、当の本人が忘れているからじゃないかとも思うのだ。

 つまり、Apple TVも、Google TVも、それを唯一のデバイスとして完結させようとしている傾向を感じる。たとえば、Google TVは、そのデバイスそのものがAndroid端末でもあるわけだが、それをモニタとしてのTVにつないだことで、Androidデバイスがパーソナルなものからパブリックなものになる。パブリックというには大げさだが、少なくとも家族や仲間など、周辺数人の共有物になってしまう。だから、つぶやくためには手元のパーソナルデバイスとしてのスマートフォンが必要になるのだ。そのデバイス間連携が、まだうまくとれていない。

 メディアとしてのTVは、自分がパブリックな存在であることをわかっているし、それが再生されるモニタデバイスの多くが複数人に同時共有されていることも知っている。いや、それどころか、各世帯に2台以上はあるTVの保有台数を考えると、10%の視聴率を獲得しているTV番組は、1,000万人近いユーザーが、別々のモニタであるとはいえ、コンテンツ内容をリアルタイムで共有していることになる。

 ここ数十年、「多」を希薄化し、「個」の時代を追いかけてきたメディアの世界ではあるが、今まさに、共有の時代への揺り戻しが起こっている。まるで、メールの世界がIMの世界に揺り戻されたことのデジャブのようだ。TVはそれを経験的にわかりすぎるほどわかっているからこそ、まだまだ強いかもしれない。腐ってもマスコミ。放送は放送だ。送りっ放しが強みである。