山田祥平のRe:config.sys

形のないものに形を与えるから話がややこしくなる

 コンテンツやソフトウェアは、新しい概念のものが出てくるたびに、いろいろと世の中が騒がしくなる。世代によって「新しい概念」というカテゴリは異なると思うが、デジタルネイティブが生きる時代には、そこで消費されるデジタルコンテンツにいろいろと考えることが多い。

ソフトウェアは書物と同じという考え方

 GoogleがPlayストアで購入したアプリやゲーム、映画などを、5人までのユーザーと無料で共有できる新機能「ファミリーライブラリ」を発表した。手元の環境ではまだ有効になっていないが、日本を含む12カ国のユーザーを対象に順次有効化されるという。

 このニュースを知って思い出したのが、1980年代のボーランドというソフトウェアベンダーのことだ。このベンダーは開発ツールでMicrosoftとタメを張るような勢いのあったところで、当時は「Turbo Pascal」が大人気だった。

 その使用許諾が実に興味深かった。そこには、ソフトウェアは書物と同じだと記されていた。だから貸し借りは自由だというのだ。書物を誰かに貸せば、自分の手元からはなくなる。だから貸している間は使ってはならない。その原則を守れば貸し借りは自由だったのだ。「Turbo Pascal」はコピーフリーだったし、価格も当時としてはそんなに高くはなかった。にもかかわらず、こんな使用許諾を提示する同社には、ちょっとした感動を覚えたものだ。その心意気に、貸し借りせずに、ちゃんとパッケージを購入したユーザーも多かったと思う。ぼく自身もその1人だ。

コピーとオリジナルが1bitも違わない時代に

 貸し借りと言えば、古くは貸本屋が街のあちこちにあった。そしてそのうち貸しレコード屋が出現した。1980年に東京都三鷹市でレコードをレンタルするサービスを始めた「黎紅堂」が最初だ。あらゆる利権が複雑に絡み合うこの領域だ。グレーゾーンのまま歳月が過ぎ、著作権法が改正され、合法なビジネスとして展開できるようになるまでは数年を要した。

 当時はまだアナログのLPレコードが一般的だったので、借りてきたレコードはカセットテープに録音した。当然、音質は別のものになる。多くの場合は劣化だ。でも、売価の10分の1近くでレンタルできるレコードコンテンツを、それなりの音質で手元に残し、返却した後も繰り返し楽しめるというのは便利この上なかった。

 さらにCDの登場、それを録音するためのメディアとしてのMDは、より高い品質で音源を手元に残せるようにした。そして、そのうち、CDはリッピングができるようになり、オリジナルとほぼ同じデータを手元に残せるようになったのはご存じの通りだ。

 こぼれ話としては、CD-RにリッピングしたCDのデータを焼く時に、CD-Rメディアやドライブの性能や品質によっては音が劣化するというものがある。データとしては1bitも違わないのに、再生してみるとどうも音が悪いことがある。これは経験してみないと理解できないだろうけれど、実際にそうだった。質の悪いCD-Rでは、なんだかこもったような音になってしまうのだ。今にして思えば、それは読み込み時のジッタなどの影響だったのだと思われる。

 コンテンツやソフトウェアはデジタルデータだから、1bitも違わない状態でコピーができる。だから、そのコピーを無制限に許してしまっては、コンテンツを作る側はたまらない。でも、CDのコピーは今も合法だ。その一方で、DVDやBDコンテンツについては違法となっている。また、レコーダーで録画したTV番組については、コピー10などの制限付きでのコピーが許されている。そして、どのコンテンツについても、アンダーグラウンドではさまざまなソリューションが蔓延していることが、ちょっとインターネットを検索するだけでうかがいしれる。また、コピーなのに配信という言葉で置き換えたらとたんに合法になったりするのがこの摩訶不思議な世界の常識だ。

シェアの登場

 貸し借りという概念に続き、シェアという概念が知られるようになった。共有と訳されるこの考え方は、言ってみれば壮大なワリカンだ。インターネットそのものが壮大なワリカンなので、そこで流通するコンテンツがワリカン的な概念で扱われるのはある程度予想できたことだ。

 今回Googleが始めるサービスは貸し借りではなくシェアだ。グループを作り、そのメンバーでコンテンツやソフトウェアを共有できるという。メンバーは他のグループに属することができないそうなので、固定されたメンバーによるシェアと考えていいだろう。多くの場合は、固定されたグループというと「ファミリー、家族」が想定されていることは間違いない。生計を共にするとか、現住所が同じなどといった条件が最初からないのはアメリカらしいと言えばアメリカらしい。

 こんな具合に、ソフトウェアやコンテンツの貸し借りやシェアがややこしく感じられるのは、もともとは形のないものを強引にパッケージ化した経緯があるからだ。もちろん、昔は、コンテンツを流通させるためには、何らかのメディアにパッケージするしかなかったわけで、仕方のない部分もあった。

 本来、ヴァルター・ベンヤミンの言うところの「複製技術時代の芸術」については、最初からシェアのことをきちんと考えなければならなかったのだ。アメリカのAmazonは著者の許諾次第では電子書籍のコンテンツを貸し借りすることが可能になっていて、サービスがスタートしたときは一時話題になったが、今は、シェアの方向性が模索されているようだ。

 電子書籍の在り方については以前もこの連載で考えてみたことがあったが、その結論は固まらず現在に至っている。今なお、グーテンベルクもアルダスも浮かばれないままだ。やはり、本物とは何なのかという概念そのものが変化している今という時代を、もっと考えなくてはなるまい

モノのサービス化

 個人的には、Contents as a Serviceとして、あらゆるものがサービスになるのがもっとも美しいんじゃないかと思っている。そして、そのコンテンツには、アプリケーションやOSなども含めてしまう。ハードウェアにプリインストールされているコンテンツやアプリケーションも同様だ。

 そして、そのサービスを受ける権利を個人に紐付ける。そして、その権利の貸し借りや売買を認めてしまうのだ。モノに許されてきた権利を、電子的なものに当てはめる。当然、今の時代だから、いろいろなテクノロジーを駆使できるはずだ。

 貸したり売ったりしたら、手元のデータがすべて参照不可になってしまうようなことだってできるだろう。そもそも手元にあるコンテンツやソフトウェアは、オリジナルではなく、それもまたコピーなのだ。そのことをしっかりと理解する必要がある。でも、デジタルネイティブなら、それもたやすいはずだ。

 これから日本を背負っていく若い世代、本当は、小学生くらいの頃から、そういう考え方を身につけることができるようになっていればと思う。そういうことを議論する有識者会議があってもいい。でも、これから何かを議論する場では、必ずデジタルネイティブをメンバーに加えることを法律で決めるくらいのことをやってもいいんじゃないだろうか。そうなると、デジタルネイティブとは誰かを決める有識者会議がもめそうではあるけれど……。