大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

「マイクロピエゾ」20周年特別インタビュー【前編】

セイコーエプソン碓井社長に聞く開発秘話

碓井稔社長

 セイコーエプソンのインクジェットプリンタのコア技術である「マイクロピエゾプリントヘッド」を搭載した第1号製品「MJ-500」が発売されたのが1993年3月20日。それから、ちょうど20年が経過した。

 マイクロピエゾ技術とは、電圧をかけると変形する物質(ピエゾ)の力でインクを吐出させるエプソン独自のもの。熱を使わない制御を行なうことから、インク対応性が柔軟であり、高い耐久性を持つのと同時に、精密かつ正確なインク滴コントロールにより、高画質と高速性を両立することができる。

 この技術がなければ、今のエプソンのプリンタ事業の成長はなかったといえよう。当時、この開発にプロジェクトリーダーとして携わったのが、セイコーエプソンの碓井稔社長である。このほど、これまでのマイクロピエゾへの取り組み、そしてこれからの進化について、碓井社長にインタビューをする機会を得た。1時間30分に渡ったこのインタビューの場では、経営者というよりも、むしろ開発者の顔に戻った碓井社長。マイクロピエゾに対する想いを熱く語ってもらった。

エプソンが潰れる危機感の中で開発をスタート

--マイクロピエゾプリントヘッドが開発された、今から20年前のエプソンのプリンタ事業はどんな状況だったのですか。

碓井 私がインクジェットプリンタに関わるようになったのは、1988年10月のことです。当時のエプソンは、すでにターミナルプリンタが大きな事業に成長していた時期でした。1979年に発売したエプソン初のドットマトリックスプリンタ「TP-80」や、1980年に発売したPC向けプリンタ「MP-80」といった製品が市場で高い評価を得て、一気に事業が成長。市場におけるエプソンのプリンタ事業のプレゼンスが確立されていました。しかし、1984年にHewlett-Packardが発売した「LaserJet」により、レーザープリンタが登場。さらに1989年に同社からインクジェットプリンタの「DeskJet」が登場して、市場の様相が変化しはじめました。

 レーザープリンタやインクジェットプリンタが出てくると、印刷の品質やスピードといった点でドットマトリックスプリンタの存在感が薄くなります。エプソンはインパクトを柱にしているのに、流れはノンインパクトに傾いていました。このままでは、ドットマトリックスプリンタ市場が縮小し始め、エプソンのプリンタ事業は立ちいかなくなるという危機感を感じていました。いや、エプソンが潰れてしまうのではないかという想いすらありましたよ。

 一番の衝撃は、LaserJetの中身を見た時でした。元々LaserJetは、ドットマトリックスプリンタよりも、価格帯が上でした。しかし、内部を見てみると、回路周りがあまりにも小さくて、かなり安くできそうであり、数年後には、確実に「きれいで、速くて、安い」という状況がやってくると直感的に思いましたよ。これは裏を返せば、ドットマトリックスプリンタが無くなることを意味します。この危機感は、すぐに社内にも広がっていきましたね。

--ただ、セイコーエプソンは、その当時、すでにインクジェットプリンタを製品化していましたが。

「IP-130K」

碓井 エプソンは、1975年からインクジェットの開発を始めていましたし、1984年には「IP-130K」という製品を投入しています。ただ、これが市場に受け入れられなかった理由は、価格が高く、さらに筐体も大型だったという点です。ドットマトリックスプリンタが10万円を切る価格の時に、IP-130Kは49万円という価格でしたし、ヘッドも100Vの電圧で駆動するものでしたから、ドライバも大きいし、回路周りも大きくなる。ヘッドも堅牢に作らなくてはなりませんでした。その一方で、DeskJetはどんどん価格が安くなって、小さくなり、個人が購入できる領域にまで入ろうとしていました。エプソンのインクジェットプリンタ技術では、そういうプリンタにはなりえず、技術的に限界があったわけです。結果として、インクジェットプリンタは、やってはいたが、成功はしていませんでした。

 エプソンは、レーザープリンタの商品もないし、ドットマトリックスプリンタも、これから事業が縮小する流れにある。そうした中で、コンシューマにも、ビジネスにも対応できる製品として、新たなインクジェットの開発を、改めてスタートしたわけです。つまり、すべてを1から作り直さなければ、Hewlett-Packardには勝てないという状況に追い込まれていたとも言えます。インクジェット分野でかなり出遅れたという意識がありました。

DeskJetに勝てる技術を開発

--インクジェットプリンタの開発に携わって、まずは、何を始めましたか。

碓井 私は、インクジェットの開発を行なう前は、ビデオプリンタを担当していましたので、すぐ近くでインクジェットプリンタの開発は見ていましたが、本格的に開発を担当するにあたり、まずはどういうところがインクジェット技術のポイントなのか、これまでどんな開発をしてきたのかといったことを勉強し始めました。

 最初は、すでにあったヘッドの改良に取り組んだのですが、100Vという高い電圧で、DeskJetに対抗するものを作り出すのは難しいと思っていました。その時から、ピエゾについての研究もしていましたし、静電気でインクを飛ばすという仕組みも検討しました。応答性の観点や、インクを飛ばすという意味で、原理的にピエゾが最も優れているな、ということは、最初から感じていました。

 すでに開発に着手していた技術の中で、ピエゾを使うものがあったのですが、それは、インク部屋の体積を変形をさせて、インクを飛ばす方式でした。そこで、インクの中に櫛歯状の振動子を用意し、これが直接インクを押すという新たな方式を考案したわけです。

 その一方で、開発部門とは別に、設計部門では、従来のプリントヘッドと同じコンセプトを用いながら、ガラスのインク部屋をプラスチックにし、コストダウンを図るといった取り組みも行なわれており、並行していくつかの方式が開発されていたのです。

 ただ、櫛歯状の振動子を使用する仕組みは、振動子はたくさん変形しますが、インクを吐出する効率が良くありませんでした。少しのインクしか飛び出さないのです。従来のインクジェット技術では、インクが飛ばなくなるといった信頼性に課題があり、その要因としてインクの中に気泡が入ってしまうということがありました。そのため、気泡に強いヘッドを作り、さらに気泡が入った場合にもメンテナンスができる仕組みが必要でした。それを維持しながら、ヘッドを開発しても、やはり限界があるなということは感じました。常に、DeskJetを意識し、それに勝てるものを開発しなくてはならないという課題が目の前にありましたからね。

--DeskJetに勝てる技術に辿り着くには、何がポイントになりましたか。

碓井 エプソンが従来からやってきた、インクの部屋を作って、そこからインクを飛ばすという原理は最もいい方法だとは思っていました。ところが、ヘッドそのものが大きいという課題がありました。なぜヘッド大きくなるかというと、100Vもの電圧をかけているにも関わらず、ピエゾがちょっとしか変形しないからです。そうすると、インクを飛ばすための部屋を大きくしないといけなくなります。電圧を高くしても、変形量が少ないため、インク部屋を大きくしなくてはならず、結果としてヘッドが大きくなり、当然、プリンタも大きくなるり、そして価格も高くなるのです。

 裏返せば、ピエゾはセラミックの中で一番変形しやすい素子であり、この変形量を最大限にすれば、小型化とコストダウンが可能だということは分かっていたのです。変形量が1桁変われば、質量が10分の1になります。将来のカラー化への対応や、密度を上げたり、ノズルの数を増やしたりといった場合にも、その小型化の中で吸収できるようになる。実は、小型化では、サーマル方式のインクジェットが先行していた。エプソンとしては、それを選択することもできましたが、特許網もありますし、後追いにしかなりません。だからこそ、ピエゾにこだわり、ピエゾの将来性にかけたのです。

他社技術との比較
マイクロピエゾの仕組み
ヘッド部分
マイクロピエゾの特徴と利点

ピエゾの変形量を1桁進化させる

--ピエゾの変形量を高めるためにどんなことをしたのですか。

碓井 ピエゾはセラミックですから、レンガのように焼き上げ、それを薄くスライスし、さらに研磨して作ります。研磨して0.1mmぐらいの薄さになったものを短冊のようにして、インク室の上に貼って駆動をさせていました。

 しかし、この方式では、0.1mm以下の薄さにしようとすると、割れてしまってものになりません。そこで考えたのが、セラミックコンデンサのように、20μm程度の薄い層を何層にも重ねたピエゾ素子を作り上げ、後でダイシングして、1つのアクチュエータにする方式です。

 セラミックは、最初は粘土のようなものですから、その段階で薄くすると割れないで済みます。電極を重ねながら、強い構造帯を作り、焼き上げて加工すれば、一気に薄くすることができました。薄くすれば、それだけピエゾの変形量が上がることになります。これによって、ヘッドは小さくなりますし、駆動電圧も30Vぐらいにまで小さくすることができました。従来は0.1μmぐらいの変形量だったものが、1μmの変形量にまで増えました。

 これを実現するために、海外企業の協力を仰ぎ、共同開発を進めました。すでに1989年暮れになっていましたから、とにかくいち早く技術を完成させてなくてはならないという状況でしたね。

 もう1つは、インク室の上にピエゾを貼る手法ではなく、粘土状のピエゾを、紙にスクリーン印刷するような形で、インク室の上に塗りつけるという仕組みにすることで、薄いピエゾを作ることができました。これはエプソンが昔からやっていたバイメタルの手法を応用したものです。ここではビデオプリンタの時に協力をしてもらっていた企業と一緒になって試行錯誤を繰り返しました。

 この2つの方式によって、ピエゾを薄くし、ヘッドを小型化することができました。これが「マイクロピエゾ」だというわけです。

 また、ピエゾは、電圧の形状に追従して、変形するという特性があります。これもピエゾ方式の大きな特徴です。

--それはどんなメリットがありますか。

碓井 バブルジェットでは、2値的な変化しかないのですが、ピエゾは多値的な動きができます。この特性によって、インク滴を、きれいに、まっすぐ飛ばすことができます。それと駆動波形を変えることで、インク滴の量を変えることができるという強みもあります。小さいドットで飛ばすことができ、高画質を実現することにつながる。これもマイクロピエゾには欠かせない特性です。

KHプロジェクトで開発を加速

--こうした一連の技術開発はどんな体制で進められたのですか。

碓井 1990年夏に、KH(緊急ヘッド)プロジェクトを編成しました。全社から人を集めて、私がリーダーとなって取り組みました。このプロジェクトチームによって、ヘッドのデザインを固めていったのです。実は、将来を見越して、マイクロピエゾでは3つの方式を開発していました。

--3つの方式とは、どんなものですか。

碓井 1つは、MACH(マッハ)という方式。もう1つは、MLChipsという方式。そして、3つ目はML Chipsと原理は一緒ですが、将来を見越して究極的なヘッドとして開発に着手したTFPでした。TFPは、究極のヘッドとして、2007年になって、ようやく「マイクロピエゾTFヘッド」の名称で製品化し、大判プリンタなどに採用しています。KHプロジェクトでは、積層型のMACHにフォーカスして開発をしていました。プロジェクトチームでは、原理のほか、デザインや生産技術、インクの開発など、すべての体制がありました。この技術を使ってページプリンタのような高速プリンタのヘッドの開発も同時に進めていました。ただ、プリンタとして最終製品にする部門は、この中には含まれていませんでした。あくまでもヘッドを開発するプロジェクトチームでした。

--当時の碓井社長の肩書きはなんでしたか。

碓井 インクジェットプリンタの開発に着手したときは主任。KHプロジェクトを任されたときは、課長になりたてでしたね。34歳の時です。そんな社員にリーダーを任せるのは、異例の人事だったかもしれませんね(笑)。プロジェクトチームは80人ほどの体制でしたが、もしかしたら半分ぐらいは年上の社員だったかもしれません。この技術の採用を最初に言い出したのが私でしたから、リーダーを任せられたのは仕方がないのかもしれませんが(笑)。

--ヘッドの開発が最終段階へと進む中で、どんな点に苦労しましたか。

碓井 人が集まり、開発が進んでいくものの、なかなかちゃんとインクが飛びませんでした(笑)。構想は決まって、方向も間違っていない。しかし、量産に耐えうるような設計ができないという点でしたね。ここは本当に苦労しました。

 途中、設計部門が開発していたヘッドも同じターゲットで進んでいましたから、社内的な競争もありました。こちらがやっていたのは全く新たな技術ですから、「できないのではないか」という声も社内に出始める始末でしたし(笑)。

 ただ、設計部門が従来の仕組みの延長線上で取り組んでいたヘッドは、カラー化やノズルを増やそうという時点で限界に達するのが分かっていました。その場しのぎで、ちょっと安くして、ちょっと小さいものができても、次には必ずつまずくことになります。一度、ピエゾをやめて、また最初から開発するなんてことになったら、ニッチもサッチもいかなくなることは分かっていました。将来を見据えると、なんとしてでもこのタイミングにピエゾ方式を完成させてなくてはなりませんでした。製品ラインアップを揃えるという意味で取り組んでいる技術ではなく、基幹ビジネスが成り立たなくなるという危機感の中で、それを打破する新たな技術を開発しなくてはならないという使命をもって開発した技術です。

 ピエゾを応用して何かを作るという発想ではなく、戦える製品を作らなくてはならない、そのために何を解決すればいいのか、その解決法として辿り着いた技術がビエゾなのです。もしかしたら、こうした危機感の中で開発がされなければ、ピエゾを活用するというところには辿り着かなかったかもしれませんね。

「MJ-500」

 2年半の試行錯誤の繰り返しの中で、1992年末に、なんとか量産できる段階までこぎつけました。全く影も形もなかったものを1990年半ばからスタートして、1992年末に量産化できるところまで到達させたのは、かなり速いことだと思いますよ。1993年頭から、本格的な量産を開始し、それを搭載した第1号製品のモノクロインクジェットプリンタ「MJ-500」が発売となったのが1993年3月20日のことでした。量販店に展示されていたのを見に行きましたよ(笑)。

--今だから明かせるエピソードってありますか(笑)。

碓井 まだ言えないことも多いですが(笑)、当時は、マイクロピエゾの技術が完成するということを信じてもらっていなかったのか、キヤノンのバブルジェットのヘッドを使って、製品を作るというプロジェクトが水面下で進んでいて、実際に、キヤノンのヘッドを使った製品も、このときに、1機種ラインアップされているんですよ。

(大河原 克行)