大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」
セイコーエプソンの「省、小、精」の神髄をプリンタ事業に見る
~3Dプリンタの発売を「今後5年以内」とする意味は?
(2014/6/13 06:00)
セイコーエプソンのモノづくりのコンセプトは、「省、小、精(しょう、しょう、せい)」である。省、小、精とは、「エネルギーを省く」、「モノを小さくする」、「精度を追求する」という意味を持つ、エプソン独自の言葉だ。エプソンが持つ精密加工技術を、プリンタや電子デバイスなどの技術へと展開。その領域において、省、小、精を追求することになる。そして、省、小、精の象徴的な技術が、「PrecisionCore」(プレシジョンコア)である。新たなプリントヘッド技術であるPrecisionCoreによって、エプソンは差別化したプリンタの投入に成功している。このほど、長野県富士見町の諏訪南事業所、塩尻市の広丘事業所を訪問する機会を得た。セイコーエプソンのモノづくりへの取り組み、そしてPrecisionCoreによるプリンタ事業の新たな取り組みを追った。
エプソンにとって技術は「命」
セイコーエプソンの碓井稔社長は、「エプソンは、自らの技術に強い自信を持っている。私は社長として、技術によって革新し続けるエプソンであることにこだわって行く」と切り出す。
そして、こうも話す。
「私自身、1980年代~90年代にかけて、マイクロピエゾの開発チームを率いていたが、その当時に感じたのは、エプソンの強みは、日本の伝統的なモノづくりによって成り立つものだということ。エプソンは、もともと9人の社員が、味噌づくりの小屋の中で、時計を作るところからスタートした。それ以来、自らの技術によって課題を解決してきた。エプソンの先輩たちはパイオニアであり、必要な材料や部品を自分たちで作り続けてきた。世界最大のスマートフォンメーカーを始めとする多くの企業が、生産などを外注する中でも、エプソンは、垂直統合にこだわる。エプソンの強みは、技術者の職人芸ともいえる技術の伝統と、製品に対する継続的な改善努力によって実現する、垂直統合の仕組みであると理解している。エプソンはマーケットリーダーであり、マーケットの破壊者であり、マーケットのチャレンジャーである。どの立場においても、エプソンの強みは省、小、精にある」。
技術畑出身の碓井社長は、あくまでも技術にこだわった経営を続ける姿勢を強調してみせる。
セイコーエプソン 機器要素技術開発本部・奥村資紀本部長も異口同音に次のように語る。
「エプソンにとって、技術は命といえるもの。1969年に世界初のクオーツ腕時計『アストロン35SQ』を開発して以来、省、小、精を実現する自社技術の開発にこだわってきた。エプソンは、研究開発投資に毎年5億万ドルをかけており、年間5,000件の特許を取得。5万件の有効特許を持っている」とし、「エプソンでは、プリントヘッドや液晶、水晶デバイスといったコア技術を持ち、これを活かすために、製品企画、製品設計、製造技術を含めた垂直統合の体制を実現。これによって高い品質の製品を提供できる。また、モノづくりに関する人材投資にも力を注いでおり、モノづくりを技と科学で支えている」とした。
人材育成に関しては、若手技術者を対象に「はさみ」を題材とした、設計、金型づくり、生産までの実習を行なっている。
「完成したものは、よくできたはさみに見えるが、実際には切れないはさみになることが多い。生産現場では、部品が応力によって変形するなど、予想しないようなことが起こる。設計図通りに製品ができあがることは困難。それを理解するための実習」だと、セイコーエプソン 機器要素技術開発本部生産技術開発部・金井保人部長は語る。
さらに、金井部長は、「部品から完成品まで一貫して品質を作り込むのがエプソンの手法。技術開発と量産工場が一体となり、金型も自社で作ることで、高い品質と安定した供給体制を維持する」としたほか、「プリンタにおいては、プリントヘッドだけでなく、周辺の部品まで手を抜くことなく、惜しみなく技術を注入している。たとえば、高性能プラスチックギアは、他社に先駆けて、今から15年前に開発したものだが、時計の製造技術に端を発しているものである。腕時計に使用するギアの精度を活用して生産することで、紙送りの精度を高め、印字品質を高め、静音性を実現した。時計のような小さなモノから、プリンタのような大きなモノに変わっても精密性は変わらない」とする。
こうしたこだわりは、インクを供給するチューブでも同様だ。エプソンでは、複数のチューブをまとめる形に改善することで、プリンタの小型化、ヘッド負荷の減少といったメリットを生んでいるという。「一見すると誰でも作れそうなものでも、精密な金型技術や材料開発の技術力を生かしている。チューブの柔軟性や小型化では他社の追随を許さない」とした。
まさに指先や足先の部分まで、エプソンの技術が流れているとも言えそうだ。
PrecisionCoreの生産拠点を初公開
そのエプソンが、「最近における最大の投資案件」(奥村本部長)とするのが、PrecisionCoreである。
PrecisionCoreは、薄膜ピエゾを用いたプリントチップを含むインクジェットプリントヘッド技術で、2013年9月に発表。半導体製造技術を活用することで高密度化を実現したのが特徴だ。
これを活用することで、オフィス分野から大容量印刷や高速印刷が必要とされる商業分野、産業分野などの用途にも展開できるという。
セイコーエプソンでは、PrecisionCoreの研究開発に、これまでに1億6,000万ドルを投資し、2013年度には生産ラインに1億4,000万ドルを投資。さらに2014年度には生産ラインの拡張に1億ドルを投資する計画を明らかにした。
そして、今回の取材では、PrecisionCoreの生産拠点を初めて公開した。公開したのは、長野県諏訪市の諏訪南事業所にあるPrecisionCoreの前工程ライン。ここで生産されたプリントチップは、山形県酒田市の東北エプソンの後工程ラインで、ロボティクス技術を導入した超精密な完全自動製造ラインを活用して、プリントヘッドとして生産される。
PrecisionCoreのプリントチップは、エプソンが20年にわたり培ってきたインクジェット技術と最先端のMEMS製造技術とを融合させた独自のプロセスによって製造。完成したプリントチップは、用途に応じた形で、プリントヘッドとして組み立てられる。同一のプリントチップを用いながらも、産業印刷機向けのラインヘッドから、オフィス向けデスクトッププリンタ用ヘッドまで、柔軟で多様なプリントヘッドの構成が可能だ。
PrecisionCoreの中核となるのが、PrecisionCoreマイクロTFPプリントチップだ。エプソン独自の薄膜ピエゾ技術を進化させ、高精度化と小型化したことで、プリントヘッドの基本性能が飛躍的に向上。大幅な高速化、高画質化を実現した。
インクを吐出する役割を果たす薄膜ピエゾは約1μm(1,000分の1mm)の薄さ。ノズル1つ1つに異なる制御を行ない、1秒間に最大5万回もの微振動を繰り返し、超精密なコントロールによりインクを吐出。高画質なプリントを実現する。また、ノズルプレートを従来技術の1インチから1.33インチへと長尺化したことや、インク制御技術および画像処理技術などを向上させたことにより、印刷速度の大幅な向上にも貢献しているという。
チップの厚みは約1mm。アクチュエーターとして動作する薄膜ピエゾ素子、インクが流れるインク室(コネクションプレート)、インクが吐出されるノズルプレートの3つのプレートを組み合わせてチップが完成する。
ピエゾアクチュエーターは、約1μmの厚さで、独自配合した液体の薄膜ピエゾを、数日間かけてシリコンウェハ上に塗布。その後焼成して極薄のセラミックとして形成される。
電圧が加わると変形し、発生する圧力によってインクを吐出するピエゾアクチュエーターは、吐出するインク材料を選ばないという特色もある。
一方で、ノズルプレートやインク室なども、すべてシリコンウェハを基本的な材料に採用。半導体プロセスを応用した超微細MEMS製造プロセスによって製造される。
ノズルプレートには、1列あたり400穴のノズルが2列並び、合計800穴のノズルを持つ。1穴あたり直径約20μmのノズルであり、高精度に形成されたインク流路とインクノズルを通過して、最小1.5plのインクが吐出される。
超高精度にインク滴が送り出されるチップをプリンタに搭載することで、これまで以上に高画質かつ高速な印刷を実現できるというわけだ。
これらの量産は、諏訪南事業所で行なわれており、ここで使用される製造装置のほとんどが自社開発したものだという。
諏訪南事業所の生産ラインでは、3つのプレートの生産とパッケージングを行なう。
いずれも8インチのシリコンウェハを活用。アクチュエータでは、薄膜ピエゾを塗布し、数日をかけて約1μmにまで薄くして焼成。膜厚検査やパーティクル検査、両面顕微鏡による検査などを行なった後に、現像工程、露光工程、スパッタ工程、ミリング工程、アッシング工程などを経て、パッケージングの工程へと流れる。パッケージングの工程では、ウェハからプレートを切り出し、3つのプレートを組み合わせる。チップは用途別に若干の違いがあるため、それぞれの用途向けに、生産を切り替えるといったことも行なわれる。
これらの生産工程はすべてクリーンルームの中で行なわれており、生産ラインの中に入るには、目の部分以外はすべて隠れる防塵服を着用することが義務づけられる。工場内は、2段階でクラス管理をしており、アクチュエータの生産ラインでは、手袋の上に、ビニールの手袋をし、さらにその上から手を洗うという作業を行なったのちに入室する仕組みだ。
生産ラインの見学中には、一部で製造装置の清掃が行なわれていたが、これらも作業も社員が行なっており、すべて自前で製造装置を設計、開発、運用していることがわかる。
「すべてを垂直統合しているからこそ、品質向上が図れる。歩留まりについても自ら改善を図ることで、早期に量産化と収益化に繋げることができた」(奥村本部長)とする。
また、奥村本部長は、「特徴を活かせるところから徐々にヘッドをPrecisionCoreに変更していく。新規分野ではPrecisionCoreの特徴が活かせると考えており、その領域から進めていくが、中でも、ビジネスインクジェットプリンタ領域は、いち早くPrecisionCoreに変えていくことになる」とする一方で、「ノズルの数が増加するのに合わせて、それを制御するための回路が大きくなるといった課題がある。今後の課題解決のポイントはそこにある」とした。
PrecisionCoreでビジネスプリンタ市場を変える
PrecisionCoreは、今後の同社のプリンタ事業拡大の重要な柱になる。
中でも同社が戦略的に展開しているビジネスインクジェットプリンタにおいては、PrecisionCoreがキーになる。
碓井社長は、「インクジェットプリンタによって、オフィスプリンティング市場を破壊する」と宣言する。そして、「オフィスにおいて、より早く、より美しく、よりローコストで、便利に使える世界を、インクジェットプリンタで確立していく」と強い意志をみせる。
セイコーエプソン プリンター事業部・久保田孝一事業部長は、「これまでは十分な性能を持つビジネス向けインクジェットプリンタが提供できなかった。また、高速性、高画質、耐久性では、レーザープリンタの方が優れているという評価もあった。だが、PrecisionCoreによって、ビジネスプリンタとして求められる要素をすべて実現できるようになった。高速性、高画質、耐久性はもとより、ウォームアッププロセスがないため、最初の印刷までの時間が短いこと、構造が簡単であることからメンテナンスコストが低いこと、消費電力が低いこと、消耗品においても低コストで済むといったメリットがある」と語る。
セイコーエプソンは、2014年度からビジネス向けインクジェットプリンタのフルラインナップを揃えてみせた。その主要な製品のほとんどにPrecisionCoreを採用している。今後もPrecisionCoreを搭載した製品ラインナップの強化を図り、ビジネスプリンタ市場を、レーザーからインクジェットに置き換えていく考えだという。
また、商業プリンティング市場においては、2007年に、PrecisionCoreの基礎となったTFP(Thin Film Piezo)プリントヘッドを搭載した商業用プリンタを投入してきた経緯があるが、セイコーエプソン 商業プリンター事業部・北松康和事業部長は、「時期は明確にはできないが、将来的には、商業プリンティング分野においても、プリントヘッドにPrecisionCoreを採用する方向で考えている」とし、「PrecisionCoreでは、密度が圧倒的に異なる。これにより、速度、画質が大きく進化する。既存の技術は適材適所に活用しながら、上位モデルにPrecisionCoreを採用していくことになるだろう」とする。
加えてデジタルテキスタイルと呼ぶ、捺染用途などのプリンタ製品においても、PrecisionCoreを採用していく考えだ。
一方で、ラベルプリンティング市場でもPrecisionCoreを、戦略的技術に位置付ける。
セイコーエプソン ビジネスシステム事業部・深石明宏事業部長は、「セイコーエプソンは、2010年に、SurePress L-4033Aを投入し、プライマリーラベルプリンティング市場に参入。市場から高い評価を得て、現在では10%のシェアを獲得している。価格は、30万ドル以上になるが、先頃、100台目となる製品を納入した。昨年9月には、基幹モデルとなるL-6043Vを発売した。これは初めてPrecisionCoreを搭載した製品となり、11個のモジュールを搭載し、8,800個のノズルによって、高い印刷品質を実現している。ラベルプリンティングの性能を大きく高めることになる」とする。
ラベルには、商品名など表示するプライマリーラベル、背面などに製品の詳細情報などを表示するセカンダリーラベル、単色で情報を表示するオペレーショナルラベルという3つの市場があるが、「それぞれの市場において、独自技術を搭載した最適化した製品を投入している。このほど、セカンダリーラベル向けに新たな専用製品を投入することを発表する。この市場に向けては、初めてPrecisionCoreのラインヘッドを搭載し、4色による印刷、毎秒300mmという超高速印刷を実現しながら、高い画質も達成している」とした。
このように、同社のプリンタ製品のあらゆるところにPrecisionCoreが採用されることになる。省、小、精を実現するPrecisionCoreが、今後のエプソンのプリンタ事業の成長戦略を下支えすることになる。
3Dプリンタへの取り組みは?
ところで、プリンタと言えば、昨今、3Dプリンタが注目を集めている。
エプソン独自のマイクロピエゾ方式は、吐出する材料を選ばないという特徴を持つだけに、エプソンのこの分野への参入はかねてから注目されている。
これに対して、セイコーエプソンの碓井社長は、「今後5年以内に商品化する。そして、10年以内にフルラインナップを揃える」と語る。
かなり長期的な戦略となるが、碓井社長は次のように語る。
「今、各社から出ているのはプラスチックの3Dモデルを作るプリンタばかり。エプソンではプラスチックの造形による市場は限定的なものだと見ている。エプソンが提供する3Dプリンタは、人々の人生を変えるものになる。これを実現する3Dプリンタを開発するにはまだまだ時間がかかる。むしろ、時間をかけて開発していきたい」とする。
「人々の人生を変えるもの」という抽象的な表現では、エプソンが目指す3Dプリンタの世界が伝わりにくいだろう。
その点について碓井社長は、「例えば、最終的な製品をその場で作り上げてしまうようなもの。エプソンが目指している3Dプリンタの世界は、そうした世界に向けたものになる」と説明する。
碓井社長が語るように、セイコーエプソンは、技術の会社であり、垂直統合によって技術力が発揮できる領域に強みを発揮する。それを考えれば、3Dプリンタのビジネスに関しても、市場が限定的な領域で価格競争に陥る可能性が高い、今の市場ターゲットよりも、さらに広い世界で活用され、エプソンならではの技術力を発揮できる3Dプリンタの時代が訪れるまで待つ、という戦略もうなずけよう。
省、小、精を最初に実現したとされる、1969年発売の世界初のクオーツ腕時計「アストロン35SQ」は、45万円という価格で登場した。だが、それは、その後の腕時計の主流の技術となった。
エプソンのターゲットは、言わば本物の3Dプリンタ。技術の会社であるからこそのビジネス判断だと言える。