山田祥平のRe:config.sys

16年後のユー・ガット・メール

 人と人がコミュニケーションするためのツールは進化と退化という両側面を持っている。技術的には可能なのに、それをしないサービスもあれば、わざわざ不便なツールを選ぶ人もいる。そして明らかに便利なものが選ばれないこともある。

複数のデバイスに同時に届くメッセージ

 初めて電子メールを使ったとき、なんて便利なものかと思ったのを覚えている。パソコン通信を始めた1985年当時のことなので、すでに30年近くが経過した。当たり前だが、電気通信事業法の改正とほぼ同時期だ。あの頃気軽に使えた電子メールはパソコン通信サービスの一部だったから、メールをやりとりする相手は限定的だったが、それなりに毎日メールは届く。ところが、サービス相互のメール乗り入れがなかったので、誰かにアドレスを伝えた以上は、自分が使っているサービスの全てにログインして新着メールを確かめる必要があった。それでもせっせとメールをやりとりしていた。

 自分宛のメール(手紙)を読むという行為から場所の束縛を取り払った点で、画期的だと思ったのだ。それまでのコミュニケーションツールは、書簡にしても電話にしても、決まった場所に着信するものだった。家を1週間留守にするということは、郵便受けをチェックできないということでもあったわけだ。

 単純に考えてみれば、電子メールは留守番電話サービスの文字版にすぎない。音声としてのメッセージではなく、文字のメッセージを媒介してくれるだけだ。その電子メールも、今ではずいぶんリッチなものになり、アプリのドキュメントや音声、画像といったものをファイルとして添付できるようになったし、HTMLメールも使われている。ただ、主流は今なおテキストだというのが興味深い。ある意味で音声から文字への退化を、機械可読という点で便利に感じたわけだ。

 個人的に、メールがいいと思うのは、コミュニケーションの履歴が全て残る、あるいは残すことができる点だ。過去の対話が全て残っている。だから、あの話は誰としたっけという場合も、ちょっと検索すればすぐにそれが見つかる。Gmailのように、もうメールを削除する必要はないというコンセプトで始まったサービスは偉大だ。こうしたことを新しい当たり前にしたからだ。

 Webメールサービスが一般的になるまでは、メールはクライアントアプリを使って受信するものだった。そして、受信してしまうと、サーバーからはメールが消えた。つまり、受信したクライアントアプリを動かしていたデバイスのストレージにのみ存在するものだったのだ。それでは不便ということで、メールを受信してもサーバーから削除しない設定をしたりするユーザーも多かったはずだ。

 そのうちメールは、サービス側に預けっぱなしにするのが当たり前となり、そのキャッシュをデバイス側に置くようになった。さらに、自分から新着メールをチェックしなくても、向こうからプッシュで知らせてくれるようになった。

 ぼくは、外出している際にはポケットの中のスマートフォンでメールの着信を知ることが多いが、自宅にいるときにはスマートフォンは充電スタンドに挿したままだ。着信音もマナーモードのままなので、別の部屋にいる時などは、そこに着信したメールに気が付かないことが少なくない。でも、自宅には至る所にいろいろなデバイスがある。仕事場には数台のPCがあるし、居間にもPCやタブレットがある。さらに、寝室の枕元にもPCがある。メールは、その全てにほぼ同時に着信するので、大抵、どれかで気が付くことになる。これらのデバイスのどれかを1時間以上触わらないことはほぼありえない。

便利と魅力は別腹

 同じ電子メールと呼ばれるものでも、ケータイメールはちょっと違っていた。人々の多くが携帯電話を持つようになり、いちいちPCに電源を入れて確認しなければならないインターネットメールを不便に感じるようになって、電子メールはケータイに届いて、すぐにそれに気が付けるから便利と思うようになった。ケータイは外出するときはもちろん、家にいるときも、ほぼ肌身離さず持ち歩くのが当たり前で、確実に新着メッセージに気が付ける。その便利さが浸透し、人々の多くがケータイキャリアメールに依存する世の中ができあがってしまったことは記憶に新しい。MNPで同番移行ができるようになっても、キャリアメールは引っ越せない。キャリアにとってはそれが加入者を引き留める要素にもなっていた。

 スマートフォンが出てきて状況が少し変わった。GmailなどのOTT(Over The Top)によるメールサービスがケータイメールとしても市民権を得たからだ。デバイスを限定せずに、設定さえすれば複数のデバイスで読み書きできる。普通に考えれば、かつてのキャリアメールよりずっと便利なことが分かる。過去にやりとりしたメールの内容も全て保存されている。機種変更や紛失盗難に遭っても何も困らない。今でこそ、キャリアメールもそうしたことができるようになっているが、それができない時期が長過ぎたように思う。

 けれども、人々は、その便利な新しいメールコミュニケーションよりも、かつてのケータイメールと基本的に変わらないLINEのようなメッセージングサービスに流れた。LINEは基本的に唯一の1デバイスで送受信することを前提としていて、メインのデバイス以外は補助となる。そして、iPadやPCはメインデバイスになりえない。複数のスマートフォンで同時に使うこともできない。そして、機種変更などでは過去にやりとりしたメッセージは自分で保存の作業を行なっていない限り失われてしまう。実に不便だ。

 同じメッセージングサービスでも、FacebookメッセンジャーやTwitterのDMはLINEと違って、過去のメッセージを全て保存して置いてくれるようだ。老舗としてはSkypeがあるが、Skypeが保持しているメッセージ履歴は限定的で、永遠に遡れるわけではない。

 これらのメッセージングサービスに不便を感じるのは、特定のキーワードを持つ過去の会話を検索する機能が用意されていない点だ。ただ、TwitterのDMも、Facebookのメッセージも、新着メッセージのお知らせ通知がメールで届く。それらを残しておけば、過去のメッセージの検索はある程度可能だ。ある程度、というのは、会話が短時間で連続した場合、メッセージが省略される可能性があるからだ。

 個人的には、140文字に制限されるTwitterのDMよりも、Facebookのメッセンジャーを使うことが多い。Twitterのコミュニケーションはオープンでパブリック、Facebookはクローズドでプライベートという印象もある。

 いずれにしても、多くのユーザーは、コミュニケーションの履歴をあまり残したくないと思っているのかもしれない。会話はその場で消えてしまうものであり、むしろ、残ってしまっては困ると考えているのか。そして、それは電話に通じるものがある。手紙と電話の中間に位置するものなのか。

 デジタルのおかげで、いろんなことが便利になってはいるのに、結局は、不便なものを選んでしまう。便利過ぎても受け入れられない。なぜなのかは分からないが、便利と魅力はきっと別腹なんだろう。映画「ユー・ガット・メール」は手紙での文通をインターネットメールのやりとりに置き換えたリメイク作品なのだそうだが、公開から16年たった今、この映画をリメイクするとしたら、間違いなくメールは選ばれないだろうなとも思う。

 というわけで、今年もあとわずか。この1年間のご愛読を感謝するとともに、来年も、よろしくどうぞ。よいお年をお迎えくださいますよう。

(山田 祥平)