山田祥平のRe:config.sys

今、ファイルが危ない




 古くからのパソコンユーザーにとって、ファイルというのはとても親しみ深い存在だ。ところがそのファイルのアイデンティティが今危ない。かろうじてウェブでは、ファイルの存在がURLとして見えているが、今後は、それも見えなくなるかもしれない。

●標準形式のファイルとOS

 8月末、ジャストシステムのワードプロセッサ「一太郎」が25歳を迎えたそうだ。1985年8月28日生まれなのだという。もちろん、長兄として「jX-WORD」があったし、その前身としての「JS-Word」の記憶も鮮烈だ。なぜ、ここで一太郎の話を持ち出すかというと、ワープロソフトとして日本人に愛され続けているこの製品の最たる特徴は、OS上で動くことを強調したものであったからだ。

 当時主流だったOSは、MS-DOSで、一太郎もそこで動くアプリケーションの1つだった。そのころはアプリケーションを購入するとOSがオマケについてくるという状況だったので、エンドユーザーがOSを意識することは、それほどなかったのだが、それでもジャストシステムの姿勢は実に画期的だった。

 まず、ワープロ機能とかな漢字変換機能を切り離した。つまり、今なお毎年バージョンアップが行なわれている「ATOK」だ。その前身は「KTIS」と呼ばれる同社の製品で、アスキー製のアプリケーションソフトに添付されていたこともあるが、一太郎になってATOKがフロントエンドプロセッサとして供給されるようになり、ユーザーは、config.sysにdevice=としてATOKを組み込むことで、一太郎以外のアプリケーションでもATOKを使えるようになった。つまり、一太郎を購入したユーザーは、最新のMS-DOSと日本語入力ソフト、そしてワープロソフトの3点セットを手に入れることができたわけだ。

 ワープロ部分としての一太郎本体は、1つの文書を作ると、3つのファイルを生成した。ファイルのベースネーム部分は同じで、

xxx.jxw
xxx.atr
xxx.ctl

という具合だ。atrファイルは文字のサイズ等の属性を、ctlファイルは文書全体の体裁を管理するファイルだったと記憶している。そして、jxwファイルは今でいうところのテキストファイルそのもので、他のMS-DOSアプリケーションから自由に読み取ることができた。今でこそ当たり前だが、当時としては画期的だったのだ。

【お詫びと訂正】初出時、jswファイルとしておりましたが、jxwファイルの誤りでした。お詫びして訂正いたします。

●標準入出力はコピペの元祖

 OSの存在を意識することで、ぼくらはさまざまな恩恵を得ることができた。一太郎の文書ファイルも、一太郎を離れたところで、フォルダ階層を作って整理し、フォルダ間でコピーしたり、移動したりして整然としたフォルダ構造を作ることができた。ほんのちょっとの呪文を覚えれば、こうした作業がとても簡単にできた。

 UNIX系のOSは、すべてのデバイスをファイルとして扱うことで、その構造への理解を飛躍的にシンプルにした。MS-DOSをUNIX系OSと呼ぶののには語弊があるかもしれないが、ある時期からは、まがりなりにも標準入出力(stdin, stdout)の機能でリダイレクトやパイプなどが使えるようになったのは画期的といってもよかった。

 内部的にはファイルをオープンして、それをシークして読んだり書いたりして、用事が終わったら、そのファイルをクローズする。それがすべてのデバイスにおいて同じ概念で実現されていた。だから、キーボードというファイルを読み取って、ファイルに書くとか、ファイルをプリンタにコピーするといったことがコマンドレベルでできたし、特定のユーティリティの出力を別のユーティリティに渡し、その結果を別のファイルに書き出したり、追加したりといったこともすぐにできた。

 Windowsは、そのファイル操作の作法を、そのまま現代に持ってきたようなもので、ファイルを扱うための工夫が随所にちりばめられている。だが、今、パソコン以外のデバイスに目をやると、どうも、ファイルの存在感が希薄になっているような気がするのだ。

 その典型が、携帯電話だ。携帯電話用のOSとしては、今、iPhoneのiOSと、Androidが注目を集めている。これらのOSにおいては、ファイルという存在を、できるだけ隠蔽しようとしていることに気がつく。

 音楽と写真に関しては、規格の成り立ちの歴史上、ファイルを意識せざるを得ないのが泣き所だろう。できることなら隠してしまいたいに違いない。実際、ずっと後になって出てきたAVCHDなどの動画規格はファイルで構成されてはいても、ファイルシステムとしてデータをひとまとめにしているため、コンテンツの実体がわかりにくくなっているが、やはりファイルが前面に出てくる。

 iOS上ではファイルという概念は希薄だ。でも、そのiOSにデータのカタマリを引き渡すためのiTunesは、iOS上で動くわけではないので、昔ながらのファイルを扱う必要がある。かくして、iTunesに接続したiPhoneやiPadなどのデバイス管理画面では、Appごとに「ファイル共有」という呼び名でファイルを転送できるようになっている。ちなみに、日本語版のiTunesでは、「ファイル」と「文書」の概念がとても曖昧だ。これは、1つのひずみといってもいいだろう。

 WindowsやMac OSなどのパソコン用のOSとこれらのOSとの違いは、アプリケーションごとにアクセスできるファイルが分離されてしまっているということだ。以前に書いたが、PDFを扱えるアプリケーションが複数あっても、アプリケーションごとにファイルを転送しておかなければならない。それぞれのアプリが個別にライブラリを持つからだ。これでは、何のための標準形式なのだかよくわからない。

 でも、音楽や写真だけはちゃんと各種のアプリケーションで共有できる。例外としては、メールの添付ファイルがある。なぜかこれだけは、それを扱える任意のアプリで開くことができる。これまたファイルの呪縛といってもいい。きっと、このあたりの仕様には、設計した側もジレンマを感じているに違いない。iOSのことばかりをいっているようだが、Androidでも、奥底までたどっていけば、ファイルのフルパス名が見えてしまうなど、ちょっと状況がワイルドなだけで、事情は大きく変わらない。

●スタートボタンとクラウド

 日本の携帯電話がガラケーと呼ばれるようになって久しいが、少なくとも、今のようなスマートフォンブームになる以前から、かなりスマートなことができていた。それだからなのだろう、ファイルの呪縛からは逃れきることができず、たとえば、SDカードに記録したファイルを読み書きするといったことが簡単にできる。逆にいえば、ファイルシステムの存在を意識することをユーザーに求める。これは、しばらくこのままなんだろう。それに、ファイルの扱いにようやく慣れてきた世代にとっては、こちらのほうがわかりやすく感じるかもしれない。

 一方、クラウドはどうか。たとえば、iPhoneやiPad、Android携帯でテキストメモをとるアプリケーションを考えてみよう。それができるアプリケーションは、それこそ星の数ほどあって、どれがいいのかを選ぶのに苦労するくらいだ。

 だが、書き留めることができるメモが書式などを持たない単なるテキストデータであっても、他のアプリケーションでそのメモを参照することはできない。まして、ドラグ&ドロップでファイルを持ってくるというのも無理。サービス相互でファイルのやりとりは難しい。

 クラウド側では、構造としてひとかたまりのテキストデータごとに1つのファイルにしているとは思えず、おそらくは、もっと大きなデータベース上でまとめて管理しているにちがいない。だから、そこにあるデータを別のアプリケーションで処理するためには、いわゆるデータのコピペに頼るしかない。

 Andoroidでは、このコピペを通常の作法でできる以外に、「共有」という方法で、さらにスマートにアプリケーション間のデータの受け渡しをする機能が提供されている。機能名としては「インテント」と呼ばれるらしい。

 たとえば、音声を文字に変換するアプリがあったとしよう。マイクに向かってしゃべった声がテキストデータになるわけだ。そのデータを別のアプリやそのアプリの別の機能にわたすことができる。これらはアクティビティと呼ばれ、たとえば、メモ帳アプリとデータを共有するために、この機能が使われる。つまり、音声を文字に変換するアプリが、メモ帳に認識後のテキストを渡せる。コピペとどう違うんだと言われそうだが、実装としてはずっとスマートだ。

 そして気がつくのは、ここでも、ファイルの存在が隠蔽されようとしていることだ。もはやファイルの時代は終わりつつあるのか。WindowsやMacなど、パソコンとパソコン用OSにパソコン用のアプリが連綿と培ってきたファイルの世界が消えていくというのは、なんだか、せっかく身につけたノウハウを取り上げられてしまうようで、ちょっと寂しい。でも、それが時代の流れというものなんだろう。これからは、最初からファイルなんて知らない世代の時代なのだから。

 かつて、Windows 95がスタートボタンとクラウドの壁紙で鮮烈なデビューを果たしたときに思ったのは、アプリに主眼をおいたスタートボタンのアーキテキチャは、ビル・ゲイツの最大の失敗かもしれないということだった。スタートボタンの考え方は完全なアプリ指向で、ファイルオブジェクトオリエンテッドではないからだ。

 でも、時を隔てた今、iPnoneのホームボタンとホーム画面はスタートボタンそのものだということに気がつく。あの頃、Windows 95の開発チームは、いったい何を考え、何を指向してあのルック&フィールを考えたのか。そのWindows 95も、この夏、8月25日に15歳の誕生日を迎えた。