入門:教養としての人工知能

人工知能は仕事を奪うのか? そして汎用AIの夢、シンギュラリティ

株式会社ワークスアプリケーションズ主催「COMPANY Forum 2016」で講演したシンギュラリタリアンのレイ・カーツワイル氏

 前回までに人工知能(AI)の活用事例と「ディープラーニング」(深層学習)のような最近話題のキーワードの意味を紹介した。だがもしかすると「どうも自分の考えている人工知能(AI)の話とは違う」と感じてる読者の方もいらっしゃるかもしれない。最近、「人工知能」と言えば話題になるのは「仕事が奪われる」とか「人を超える」といった話が多いからだ。

 一方、前回までの話で私が紹介した人工知能技術は、要するに、つい最近までは「ビッグデータ」と言われていたデータ解析、分類といった、言ってしまえば「単なるツール」の話でしかない。それがどうして「仕事を奪う」とか、はては機械と融合した超人類といったSFめいた話へと繋がるのか? どういう文脈でそんな話になっているのか。

 今回は、現実のツールである特定用途特化型のAIから、「汎用AI」の夢も含めた、AIの社会への影響などを、巷の技術楽観主義的な未来への夢にある程度乗っかりつつ、考えてみよう。

DeepMindの「AlphaGo」

 人工知能と言えば、まずは将棋、そして囲碁での対戦を思い出す人も多いと思う。2016年3月、Google DeepMindの「AlphaGo」は韓国の李世ドル九段を、3月9〜15日に行なわれた5番勝負にて、4勝1敗で破った。

 AlphaGoを作ったDeepMindは、デミス・ハサビス(Demis Hassabis)氏が、2011年にロンドンでDeepMind Technologiesとして創業したベンチャー企業だった。多くの投資を集めて急成長し、2013年に「DQN」というアルゴリズムを開発して機械学習のパワーを示して世間を驚かせたあと、2014年にGoogleに買収された。買収金額は5億ドル(およそ500億円)だったという。

デミス・ハサビス氏による講演

 「DQN」は、Deep Q-Network(DQN)、深層強化学習というアルゴリズムで作られたプログラムである。ディープラーニングとQラーニングという強化学習の一種を組み合わせたものだ。話題になったのは下記の動画で示すようなテレビゲームのプレイだった。

DQNによる「SPACE INVADERS」プレイ

 DQNにはプレイのルールは教えていない。ただ、スコアを最大化するようにという命令と、視覚からの入力だけを与えて、自機をコントロールさせたら、こんなことができるようになった。下記のブロック崩しも同様である。端っこを崩して球を上に送ると効率良くクリアできるといったコツも、自分で獲得したものだ。

DQNによる「ブロック崩し」プレイ

 AlphaGoは2015年10月にヨーロッパチャンピオンに勝利し、その処理については2016年1月に科学雑誌「Nature」の論文として出版されている。論文は「Mastering the game of Go with deep neural networks and tree search」で閲覧できる。

 局面を評価するvalue networksと、手を指すためのpolicy networks、そしてモンテカルロ木探索による評価を組み合わせたアルゴリズムで、13層の畳み込みネットワーク(CNN)を使って人間のエキスパートの棋譜を教師データとして用いて評価精度を高く学習させたあとに、自分自身とのプレイを通して強化学習を行なってパラメータを調節して強化、そして実際に手を指す判断は大量のGPUとCPUを使って力技でモンテカルロ木探索で行なった、ということらしい。本番には分散計算するタイプで勝負に挑み、勝利した。

囲碁とコンピュータ

 ソフトウェアが自分自身との対戦を通じて強くなったとは言っても、もともとは人間の棋譜を参考にして、人間が書いたプログラムが勝利したわけだから、どちらにしても勝ったのは人間である。と、いう言い方もできるのだが、多くのメディアは「コンピュータの勝利」と報じ、実際、少なからぬ人たちが人間が負けたと感じたようだ。特に、人間の棋士が負けると思ってなかった人たちの方が衝撃を受けたようだ。

 確かに、プログラムは人間に比べれば猛烈な速度で強くなれるということも示された。今は多くの計算リソースを使うものの、そんなことは、ほどなく問題なくなるのが計算機の世界だ。

 以前も述べたが「コンピュータ(あるいは人工知能)で、○○ができた」、「○○で人間に勝利した」というのは、「○○を、今の計算機が実用的な速度で処理できる形式の計算に置き換えることができた」という意味だ。今、人工知能で多くの事柄がこなせるようになりつつあるのは、その「○○」が増えていっているということである。囲碁や将棋もここに入ったということだ。

 ただ、だからといって囲碁棋士や将棋棋士の存在意義がなくなったわけではない。人間の棋士が指すから多くの人が見るという側面は失われていないからだ。計算機の方が上をいく世界で人がどのような役割を見出すか、その例になってしまったという面は否めないと思うが、人は人の戦いに価値を見出すという点は変わらないのではなかろうか。

機能特化型と汎用知能のあいだの断絶:「モラヴェックのパラドックス」

 そもそも、碁を打つソフトウェアがどれだけ賢くなったところで、奪われるかもしれないのは囲碁棋士の立場くらいで、他の職業への影響は低そうだ。にも関わらず、人工知能が人間をおびやかすといった論調がなくならないのには、おそらくは、棋士という人たちが、人の知性の代表の1つとして取り上げられてきた歴史的な背景があるのだろう。

 だが、現在の技術の延長上に、汎用的な知能があると思うのはあまりに楽観的である。繰り返すが、特定用途のソフトウェアの機能がどんなに向上したところで、別の機能が生まれるわけはないし、その組み合わせで、これまで長年不可能だった素晴らしい機能が突然できあがることもない。

 人工知能の研究は、もともとは人や動物が持つ知性を機械で実現することにあったし、初期の人工知能研究者は、その難しさを楽観視して捉えていたようだ。しかし、現時点の人工知能研究はむしろ、特定用途特化型の技術が主流で、汎用の知能をターゲットにしている人たちの方が少ない。

 汎用知能の難しさの例として、通称「モラヴェックのパラドックス」と呼ばれるものがある。カーネギーメロン大学の教授だったハンス・モラベック(Hans Moravec)氏らが提唱したパラドックスで、人間にとって高度と考えられるチェスなどの方がコンピュータには容易で、乳幼児でもできる環境知覚や運動制御の方が難しい、というものである。

講演するモラベック氏

 動物は言葉を操ることはできないが、周囲の環境を認識して、自在に行動する。学習にしても、ほんの数回、ものによっては1回だけの体験で、いきなり高度なことができるようになってしまったりする。学習に大量のデータを必要とするニューラルネットワークとは大きな違いである。

 例えば人間は、どんなコップやカップでも適切な持ち方がすぐに分かる。カップとソーサーが繋がっているのか分離しているのかも見れば分かるし、重心位置や慣性モーメント、材質や剛性を見ただけでだいたい把握することができ、適切な把持姿勢を割り出して実行し、実際に持っている間にもすみやかに修正する。そのための学習はほんの数回で済むようだ。猫の写真でも、バカみたいな枚数を見なくても、すみやかに猫を認識できるようになる。全身を巧みに使って移動したり物を運ぶこともできるし、未知の道具であっても自分の身体の延長のように扱うことができる。

 スキルによっては神経系に最初から全て実装されているようで、動物は生まれたばかりであっても、いきなり立ち上がって走り回ることができる。昆虫は幼虫から蛹を経て羽化したら、いきなり空を飛べる。こんなシステムをどうやったら実現できるのか、今はまだ全くと言っていいほど分かってない。

 動物の神経系が実装しているであろう学習機構を、既存の人工知能技術を組み合わせてうみだそうとする興味深い試みもあるのだが、まだそれほどの大成功を収めているわけではないと思う。それらについてはまた機会があれば別途ご紹介したい。

機械との競争:技術が人を代替するかどうかは経済の問題

 このように、汎用の人工知能(「AGI」や「強い人工知能」と呼ばれることもある)が誕生する日はまだまだ遠そうなのだが、にも関わらず、「人工知能が職を奪う」という話が急激に注目を浴びるようになったのは、MITスローン・スクール、デジタル・ビジネス・センターの研究者2人が2011年に自費で出した本の翻訳『機械との競争』(エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー/日経BP社)が、2013年に出た後くらいからではないかと感じている。この本は分厚い紙を使ってるので見た目は厚いが実際のところは150ページ程度の薄い本なので、未読の方はめくってみるといい。

 技術が進歩すると一部の仕事は機械に置き換わる。だが、置き換えられた人は違う仕事、新しく生み出された仕事に就くことができる。これまではそのように発展してきた。だが人が新たな状況に適応し、新たな仕事に就くには時間がかかる。本書は、技術の進歩が指数関数的に進むことで、そろそろ雇用創出の時間的余裕が限界に達しつつあるという。そしてその代替は知的労働分野に及びつつあるとしている。人工知能やロボット技術の発展は、もちろんその危惧をさらに加速するというわけだ。

 あともう1つ、この議論で課題としてよく挙げられる問題は『ロボットの脅威 人の仕事がなくなる日』(マーティン・フォード/日本経済新聞出版社)が指摘しているような、格差と経済成長の問題である。技術が人を代替するかどうかは技術だけではなく、経済の問題でもある。人工知能技術は高価なので、ホワイトカラーの仕事の方が人工知能の発展の影響を受ける可能性が高い。

 そして人工知能にしてもロボットにしても資産であり、そこには持てるものと持たざるものがある。持てるものは知的システムを使って金儲けができるが、持たざるものは、機械が代替しきれない隙間仕事をやるしかなくなる。その格差が開きすぎると、経済成長全体が停滞してしまい、全体が破綻する可能性があるという。こちらの懸念はもっともである。

 ただ筆者としては、それ以前の問題として、機械は不得手だが、人間が得意としている機能をシステムの中に組み込むことで、既存の機械だけで組まれたシステムの能力を超える「ヒューマン・コンピューティング」という考え方と活用が今後大きく広がるのではないかと考えている。これについてもまた機会があれば述べたい。

 とりあえずここで言っておきたいことは、特定の仕事が機械に置き換わるかどうかは技術的側面だけではなく、経済、コスト、社会の仕組みの問題であるということだ。技術が進んでもコストが見合わなければ機械に置き換わることはないし、人がやらなければ価値がない仕事は今後も人がやることになるだろう。だが確かに、一部の仕事は機械に置き換わっていくかもしれないが、まだそれほど始まってはいない。技術が浸透するときには、技術は明瞭に見えるようになるのではなく、むしろ不可視化、透明化していくと思う。人工知能関連の技術の浸透は、これまでもそうやって徐々に進んできた。

シンギュラリティ(技術的特異点)

レイ・カーツワイル氏(右)。聞き手は株式会社ワークスアプリケーションズ代表取締役最高経営責任者 牧野正幸氏。

 なお、「モラヴェックのパラドックス」の提唱者であるモラヴェック自身は技術楽観主義者として知られている。彼は、機械がほどなく人を追い越し、人類という種は引退して、機械を「マインド・チルドレン」とするというSF的未来を書籍『電脳生物たち』(岩波書店)などで描いている。最近は「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ばれる概念だ。

 機械が自分と同じプログラムを書けるようになったら、自らを改良することができるようになる。そうなると人間が関与する必要はなく、機械は自ら発展していくことができるようになる。そうなるとこれまでの未来予測のような手法は通じなくなる。そこから先は分からない時点、という意味で、技術的特異点と呼ばれている。

 9月28日に、シンギュラリティ概念で知られるレイ・カーツワイル(Raymond Kurzweil)氏が来日して、大手企業向けERPパッケージソフト「HUE」などを展開している株式会社ワークスアプリケーションズ主催の「COMPANY Forum 2016」で「インテリジェンスの未来」と題した講演を行なった。

 彼は2012年からGoogleでAIの開発に取組んでいるとされている。具体的に何をしているかは明かされてないが、脳の仕組みをヒントとした機械学習技術を使って、自然言語処理に取組んでいるらしい。

 肝心の講演では、残念ながら特に目新しい話はなかった。彼の主張は2007年に邦訳が刊行された『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』(日本放送出版協会)にまとめられているので、そちらを読んだ方がいい(2016年になって「シンギュラリティは近い」という要約版も日本オリジナルで刊行された)。人工知能やロボット、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーなどの進展によって、人はやがて死ななくなり、超知性が生まれるといったものだ。

2045年までにシンギュラリティが到来すると語るレイ・カーツワイル氏(COMPANY Forum 2016)

 彼はシンギュラリティについて「われわれの生物としての思考と存在が、みずからの作りだしたテクノロジーと融合する臨界点」、「人間の知能が、非生物的知能と融合して、何兆倍も拡大するとき」、「人間の能力が根底から覆り変容するとき」と述べている。

 彼は2020年代半ばには脳の詳細がリバースエンジニアリングによって解き明かされ、脳各部位のモデルを利用できるようになり、2045年までにはシンギュラリティが到来すると述べている。この本が出たのは2005年である。その時期について、今はどう思うかという質問に対し、カーツワイル氏は「予想通りだ」と語っていた。