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●渡米者は米政府発行のIDカードが必要に?
「ただいまから搭乗を開始します。お客様はボーディングパスと“ナショナルIDカード”をご用意の上、指紋照合台にお進み下さい」
今から数年後に米国で飛行機に乗るときは、こんなアナウンスが流れるようになるかもしれない。このアナウンスで米国民はみな、顔写真にワシの紋章がエンボスされ、指紋プリントとICが付いたカードを取り出す。日本人などの外国人も、事前に米国領事館に出頭して受け取った、ビザ兼用の同じカードを取り出す。そして乗り換えのたびに必ずカードと指紋のスキャンをされる、ということになるかもしれない。
これは想像の空港風景。だが、オラクルのCEOラリー・エリソン氏が9月末に公言した“ナショナルIDカード”創設案がもし実現し、10月末に成立した「USA PATRIOT法」の施行が進んだら、本当のことになる可能性がある。
エリソン氏の案とは、現在バラバラの各種ID(パスポート、運転免許証、パイロットライセンス等)の代わりとなる統合的IDカードを米政府が作り、指紋などのバイオメトリクスデータを含めた個人データを一元的に管理する。そして例えば飛行機に乗ろうとする客にはカードと指紋のスキャンをさせ、政府のデータベースと照合して、本人であることやテロの容疑者でないことの確認を徹底しようというもの。San Jose Mercury Newsのインタビュー(『Ellison goes into detail about national ID』10/20)によれば、エリソン氏は、「米国人にとってカード所持は強制ではないが、必要上、実質的に誰もが持つようになるだろうし、米国に滞在する外国人には強制がいいだろう」と言っている。
米政府にプライバシーをまるまる渡すようなこんな案は、今までなら公にしたとたんに大きな反発を食らっていただろうと思う。
実際、この案はかなりの話題になって、反発もある。だが、支持の声も高いのだ。例えば記事によれば、上院テロ対策小委員会委員長のダイアン・ファインスタイン氏が支持を表明しているという。ファインスタイン氏といえばベイエリアが地盤でありながら議場へのノートパソコン持ち込みに反対するなど、ハイテク嫌いの印象が強い議員。その同氏が賛成のほか、政界ではジョン・アシュクロフト司法長官も興味を示し、さらに、エリソン氏と並ぶIT業界の大立て者であるSun MicrosystemsのCEO、スコット・マクネリー氏も似たような案を出しているという。
●安全への要求からUSA PATRIOT法が成立
炭疸菌テロや次の爆破テロの噂などに苛立つ米国人たちは、今や自分たちの自由を多少、犠牲にしても、テクノロジーで安全を得たいと思っているようだ。
だからこそ、日本より政治家がずっと世論に敏感な米国で、USA PATRIOT法( http://thomas.loc.gov/cgi-bin/query/z?c107:H.R.3162.ENR: )のような法律も成立したのだろう。
同法は、FBIなどによるネットのモニタリングや電話の盗聴などへの制限を大幅に緩和し、ISPなどに当局の捜査への協力を義務づけ、ハッキングをテロと位置づけた。また、外国人の入国審査の際にFBIのデータベースと連動したバイオメトリクス審査システムを使うことが可能かどうか、司法省に調査・検討を要求している。
このため、法の原型案が9月11日のテロ直後に出てきたときから、市民権運動家はプライバシーや“市民の自由”が奪われると叫び続けた。だが、若干の反論や修正はあったものの、議会ではすんなりと通ってしまった。下院も賛成多数だったが、上院に至っては反対はわずか1票だった。
米国はかつて、クリントン政権が押していた、オンラインでのワイセツ画像や文書を規制する法「Communications Decency Act(CDA)」で大騒ぎをした。ところが今回は、もっと強力なPATRIOT法が通ってしまった。安全への要求は、そこまで強くなったわけだ。
そして、この安全への要求は今後ももっと高まるかもしれない。米国が米国である限り“反米感情”の火種は消えないから、今後もテロは散発的に起こるかもしれない。PATRIOT法の条項の多くは時限付きなのだが、そうなれば時限条項が延長を繰り返すことも考えられる。また、ナショナルIDカード案のような一元的データベースも本当にでき、テクノロジーを使っての個人管理が強まるかもしれない。
●“自由の国”から“安全の国”へ
でも、この安全への強い要求は、“自由の国”を誇りにしてきた米国と反するように見える。
これまでの米国は、ほぼ常に、“安全より自由”を選んできた。象徴的なのは、銃による悲惨な殺人事件が何度起きても、絶対に政府が国民から銃を取り上げられなかったことだろう。正直言って、今、米国内でテロに遭って死ぬ確率と、銃による事件で死ぬ確率でどちらが高いかと言ったら、やっぱりまだ銃のほうじゃないかと思う。
それなのに、これまでは何があっても変わらなかった米国が、急に、これからはもう自由は諦めて“安全の国”に変わると言っているのだ。
一体なぜ? それは、テロが米国という国のシステムそのものを壊そうとしているからじゃないだろうか。
これまでの犯罪は、米国社会のひずみが原因といえるものが多かった。つまり、実現可能かどうかは別にして、差別や貧困をなくすなど米国社会をよくすれば何とかなる、いわばシステム(枠組みとか、政治・経済・社会のあり方とかと言い換えてもいい)の内部の問題だった。ところがテロは、社会をどんなによくしても関係ない。むしろ米国社会だけが世界で突出して繁栄したりすればするほど憎悪を生み、テロを招くようなところがある。たとえ国外でなく国内のテロ組織による犯行だとしても、テロは米国のシステムに対する外からの攻撃なのだ(テロとは違うが、冷戦時に起きた赤狩りも、米国の枠組みを共産主義から防御しようとした過剰反応だったのだろう)。
米国は、個人の自由を求めて絶対制国家を飛び出した者たちが1から作ってきた国だ。だから米国人は、自分たちが作ってきたシステムに強い自負を持っている。ある意味、米国の社会システムそのものが米国の自由のシンボルとも言える。
米国人が個人のプライバシーや自由を犠牲にするつもりになっているのもそのためじゃないだろうか。この社会を壊されては自由の根幹を壊される。だから自由な自分たちの社会を守るために今はまずは安全、というわけだ。
でも、そうだとしたら、そこには落とし穴がある。安全のための個人情報管理は結局、“自由な米国社会”を侵していくからだ。
ハイテクを駆使すれば、政府当局は膨大な量の情報を縦横に検索することで、個人のデータを細かく管理できるようになり、かつてないほどの情報力を持つことになる。だから、こんな未来もあるかもしれない。
●会話内容や買い物履歴で要注意人物に?
例えば10年後のある日、ごく普通の米国人ジョンが、空港のボーディングゲイトでナショナルIDカードを通すと突然の警告音。「あ、あなたはこちらへ」。別室で念入りな荷物検査を受けると凶器が発見され、ジョンはテロ容疑で逮捕される。
だが凶器とは、なんと爪切り。そりゃ確かに、厳しい航空会社では爪切りは持ち込み禁止だ。でも、なぜ逮捕までされるんだ?
それは、ジョンがテロ要注意人物としてマークされていたためだ。しかし、ジョンにはテロなんて身に覚えがない。FBIは、「ファイルによれば、あなたは以前に、テロ国家を礼賛する発言を掲示板に書き、他の要注意人物ともメールで交流していた。テロ国家の言葉も学習している。おまけに収入も不安定で合衆国への納税義務を怠っている。それで要注意レベルBにランクされていたのだ」と指摘する。
確かにジョンは、教育をテーマにした掲示板で「米国と異なる文化や価値観も認める心を子供たちに持たせよう」と書き込んだことがあったし、賛同してくれた人とメールを交換した。エジプトあたりに旅行に行こうかと、クレジットカードでアラビア語のテキストを購入したこともある。臨時収入分の税を100ドルほど滞納しているのも事実だ。でも、なぜそんなことが調べ上げられているんだ?
当局がテクノロジーで個人情報の集積・分析をすれば、こんなことが誰の身にも起きるかもしれない。
テクノロジーがあれば、ナショナルID制度のような巨大な統合データベース作りが可能だ。例えばナショナルIDが出生証明から、納税証明、運転免許などの各種IDを兼ねたものになり、クレジットカードでの買い物や飛行機への搭乗の際にも本人かどうかの照会に使われるようになるとする。すると、ある個人の出自や暮らしぶりの相当部分がデータベースに載ってしまうだろう。そしてFBIなどにそのデータを利用する権限が与えられれば、当局は個人のプロフィールを簡単に描けるようになるかもしれない。
さらに、もしかしたら将来、サイバーテロ防止などのため、インターネットへのアクセスにはIDカードとバイオメトリクス認証が必要になるかもしれない(カードリーダと指紋/虹彩スキャナがPCの標準付属品となるだろう)。また、PATRIOT法が拡大され、メールの中身を読むことも許されるようになるかもしれない(現在はアドレスだけ)。
すると、メールの送受信相手と内容、BBSへの書き込みの内容、特定サイトへのアクセス状況などから、個人の思想、趣味、交友関係などまでが当局に把握されるようになるかも。匿名の書き込みでもIDを使ってアクセスしていれば身元がわかる。
テクノロジーが進歩していなかった時代は、FBIなどが様々な情報を集め検索するのには膨大な手間とコストが必要だった。張り込みなどをしなければ手に入らない情報も多かった。テロの“要注意人物”を割り出そうにも、大物の捜索で手一杯で、小物にまで手が回らなかったろう。それがテクノロジーを使えば簡単に、ローコストに行えるため、要注意の枠を広げることも可能になるかもしれない。
さて、米国はこの先も、自分の国は自由の国と胸を張っていられるだろうか。この未来予測はまったくの笑い話だろうか。それとも……。
(2001年11月19日)
[Text by 後藤貴子]