●MicrosoftがSTBを見放した?
Microsoftのゲイツ会長が、1月初めに開かれる米国最大の家電ショウCES(Consumer Electronics Show)でキーノートスピーチをするのはこの数年恒例のこと。だが、家電やコンピュータで家庭がどう変わるかを語るそのスピーチから、今年、ある言葉が消えた。それはSTB(セットトップボックス)だ。
Microsoftは以前からずっと、家庭のリビングルームに自社のソフトウェアプラットフォームを浸透させる方法で悩んできた。リビングの王であるTVにPCをつなげさせようとしても、PCはなかなか書斎や子供部屋から出てこなかったからだ。そこで、PCの進出を進める一方で、ダメだった場合の保険として、PC以外のコンピューティング機器をもねらい続けてきた。つまり、Microsoftがソフトを供給するデバイスをTVに付け、オンラインにつなげば、様々な便利なサービスをTVで受けられると消費者にアピールしてきた。
そして、'98年にはそのデバイスの本命を、CATVを見るのに使う次世代版デジタルケーブルSTBに決めた(ように見えた)。'98年1月のCESで、ゲイツ氏はMicrosoftは、当時のケーブル事業者最大手TCIにデジタルケーブルSTBを最低500万台納入する、そのSTBはWindows CEのTV環境向けバージョンをWebTVの技術と統合して開発する、と誇らしげに発表した。2000年、2001年のスピーチでもSTBは登場した。
ところが今年飛び出したeHOME、Mira、Freestyleなどの新しいコンセプトではSTBは組み入れられていないようだった。ゲイツ氏のスピーチの途中で登場したSenior Director of Business Managementのグッゲンハイマー氏が、ちょっと引き合いに出しただけで、デジタルケーブルSTBに対するMicrosoftの姿勢は、'98年を頂点にすっかりトーンダウンした感じだ。
じつは、デジタルケーブルSTBに関する熱意に陰りが見えるのはMicrosoftだけで はない。
例えば、ケーブル業者の側でデジタルCATVに一番乗り気だったAT&T。もとの本業が長距離電話の同社は、TCIを高額で買収して一躍ケーブル業界のトップに立ち、その後も積極的な姿勢を見せていた。ところが2000年夏頃からトーンが落ち、昨年12月にはケーブル部門を業界3位のケーブル会社Comcastに売ると発表した。つまり、手のひらを返したように、ケーブル事業そのものから離脱することにしてしまったのだ。
では、「リビングルームのPC=デジタルケーブルSTB」という構図は、もう消えてしまったのだろうか。ケーブルSTBが将来の家庭のエンターテイメントや生活の姿、それに、どの企業が力を持つかを大きく変える可能性はもうないのだろうか。
●CATVのビジネスモデルを変えるはずだったSTB
そもそも、デジタルCATVが米国家庭を変える本命と見られた理由は、(1)CATVには米国の家庭の3分の2、つまり中流以上のほとんどが加入しており、(2)そのSTBはケーブル会社がユーザーに配布するものなので一気に普及させやすく、(3)しかも,ケーブルは電話より広帯域、だったからだ。
そこで、ケーブル会社がこのSTBを、ちょっと前のPC程度のコンピューティングパワーを持ち、場合によってはハードディスクも備える次世代デジタルSTBに換え、アップグレードしたブロードバンド双方向デジタルケーブルにつなげば、次のようなサービスが、米国の家庭に行き渡ると言われた。
高速インターネット接続、IP電話、VOD(ビデオオンデマンド)、PVR(プライベートビデオレコーディング)、ジュークボックス、高度な検索機能を持つ電子番組ガイド、オンラインショッピング、オンラインバンキング、オンラインゲーム、そのほか健康相談など双方向の各種プライベートサービス、etc。
ユーザーに大きな利便性と娯楽をもたらすサービス。だが、これはどちらかというと、何らかの形でケーブルに関わる企業にとってのほうが、より大きな夢だったろう。
なぜなら、こうしたサービスが成功すれば、デジタルCATVは、今の電話もホームPCも、ビデオデッキやステレオセットも兼ね備えた、言い換えればそれらを駆逐するような生活必需デバイスに化ける。そしてケーブル業者は、サービスプロバイダーとして、消費者の元に届く電話代、インターネット接続料、付加サービスの代金など、すべてを含めたたった1枚の請求書を送れるようになる。
そうなれば、ユーザーから月30ドル程度のCATVの固定視聴料を徴収するだけだったケーブル業者のビジネスモデルは、ガラリと変わる。インタラクティブTVによるショッピングなどで、クレジットカード会社のように間接マージンを取ることができるようになるからだ。言ってみれば無限大の新しい収入源を持つようになる。直接の利用料金にしても、電話やVOD、インターネット接続料などが加わるために100~120ドルくらいに膨らむと予想された。
ケーブル業者だけではない。Microsoftのようなソフトウェアやネットワークの企業ならば、ケーブル会社やコンテンツプロバイダへのソフト供給で、それにポータルのMSNなどで自分自身がコンテンツプロバイダとしても利益を得ることができる。
●AT&TもMicrosoftも夢中に
そこで、このデジタルCATV事業に一枚かもうと、多くの企業が群がった。中でも派手だったのが、ケーブル事業への大企業の参入と、それによるCATV加入者の争奪戦。1軒の家庭が複数CATVに加入することはないから市場は有限だし、シェアが大きければSTBメーカーやコンテンツプロバイダなどとの力関係でも有利だからだ。
先に触れたAT&Tも新規参入組の1社だ。'80年代の分割により、長距離網しか持たなくなっていた同社は'96年の規制緩和以降、もう一度家庭へのローカルな電話網を持ちたがっていた。ケーブルテレフォニーを行なえばそれが実現する上に、デジタルCATVでの収入が加わり、一石二鳥と思われた。またAOLも、Time Warnerを買収して業界2位につけた。PCのISP・ポータルとして圧倒的存在のAOLだが、そのままではデジタルCATV時代には存続が危うくなる。参入はほぼ必然だった。
さらに、Microsoftも、TCIを呑み込んだAT&TにSTBのソフト購入の約束をしてもらい、代わりに50億ドルもの投資をするなどして、ケーブル会社との関係を深めようと懸命だった。ゲイツ氏の盟友ポール・アレン氏が'98年から急にケーブル会社をせっせと買収し始めていたのも、Microsoftへの援護射撃と思われた。
これが、2000年前半頃までのデジタルCATVをめぐる動きだ。しかし2000年後半、ちょうどPCがパタッと売れなくなり、ドットコムバブル崩壊の影響がIT業界全体に波及する頃から、ムードが変わる。バラ色の報道がなくなり、先に書いたように、関連企業からも積極的な姿勢が消えたようになり出したのだ。
●高いコストにようやく警鐘が
デジタルケーブルSTBの夢がしぼんできた理由として、報道では、実現までにケーブル業者がかけなければならないコストがあまりに高く、時間がかかることがあげられた。
たしかに、そのコストは半端な額ではない。一番かかるのが、ケーブルのアップグレードやサーバ整備のコスト。CATVの歴史が古い米国では、現行ケーブルのままではデジタル双方向サービスを提供できない。例えばケーブルテレフォニーを提供の場合、1加入者当たり1,000ドル近くかかるという(「Cable telephony-Moving slowly but surely」January 2002, CED Magazine)。
STBのコスト負担もある。従来サービスから新サービスに移行するときは、新サービスの料金は前より高くしたいので、移行を希望するユーザーからSTBのぶんまで高いお金を取ることはできない。ところが、報道によれば、デジタルSTBの製造コストはTV1台につき大体570ドル(「The buzz this year is a set-top box」1/7/2002, San Jose Mercury News)するという。しかも家庭に2台のTVがある場合にはケーブル会社が2台のボックスを提供し、ユーザーからは1口分だけ料金を徴収するのが一般的(「Rearden Steel unveils multimedia system」1/6/2002, CNET)とか。いまどきTVが2台以上の家はかなり多いから、ケーブル会社は1軒あたり約500~1,100ドルも負担しなければならない。
ということは、1,400万加入者を持つAT&Tなら、ケーブルとSTBで1軒当たり2,000ドルかけるとすると、ざっと280億ドル必要なわけだ。もっともSTBについては需要が増せば生産コストが下がるので、これだけ高いのは初めのうちだけではあるだろう。
しかしそれでも、AT&Tのように、他社を買収してシェアを拡大した場合はその買収コストがある。これがとんでもなく大きい。同社は'98年に買ったTCIに480億ドル、'99年に買ったMedia Oneに580億ドルかけている。特に高かったMedia Oneの場合、加入者1人の獲得に11,600ドル払った計算だ。
しかもこれだけ先にかけて、肝心の間接マージンを確実に取る仕組みは、まだきちんとできあがっていない。例えばショッピングにしても、PCを使ってインターネットでするショッピングより便利にしないと、ユーザーだけでなくショップの側も乗ってきてくれないのに、これをどうするかは、報道を見る限り具体的な話は進んでいないようだ。
●高いコストにようやく警鐘が
だがおかしいのは、先行投資の大きさと時間は、初めから皆わかっていたはずなのに、ということだ。例えば、AT&Tが巨額でTCIを買収したときは、AT&Tの株価が上がっている。つまりこのとき市場は、“AT&Tはいい買い物をした”と判断しているのだ。なぜ、市場も企業も、みなこれでいけると思ったのだろう。これは結局、ドットコムバブルと同じことだったのではないだろうか。詳しくは次回。
(2002年1月28日)
[Text by 後藤貴子]