山田祥平のRe:config.sys

人生のブラウズ



 人間は忘却するからこそ生きていられるともいう。けれどもパソコンのストレージはそうじゃない。誰かが消さない限り、記録、記憶はストレージ上に残る。

 生まれてから死ぬまで、多少欲張って約1世紀を生きるとして、その間にぼくらはいったいどのくらいの量の情報を扱うことになるのだろうか。そして、それに足りるだけのストレージは確保できているだろうか。

●四半世紀でめまぐるしく代わったストレージ

 ぼくが最初に使ったコンピュータ用のストレージはパンチカードだった。ただ、これをストレージというのはおこがましい。正確には何を記憶してくれるわけでもなかったのだが、とりあえず、FORTRANのプログラムを1行ずつ記録し、繰り返されるエラーで実行を拒否されても、すべてのプログラム行をもう一度打ち直す必要はなく、エラーが発生した行のカードだけを修正すればよかった。

 実行結果はプリンタから打ち出されたものを受け取るだけだった。つまり、ぼくが最初に使ったコンピュータは、紙で入力して紙で結果を得ていたわけだ。なんだかとってもアナログだ。文系の学校時代の一般教養科目として履修しただけのものだったので、その程度の範囲でしか各種のデバイス類を使うことは許されていなかった。実は、それで何をしていたのかをよく覚えていない。

 学校を卒業したあと、MSXパソコンが発売され、初代の東芝製品を手に入れた。基本的には市販のROMカートリッジからゲームなどのプログラムをロードするものだったが、カセットテープをストレージとして使うことができた。ぼくは、専用のデータレコーダは高価だったので、ラジカセで代用していた。その代償として、テープの録音、再生、停止は手動になってしまったが、特に不便を感じることはなかった。

 その数年後くらいからフロッピーディスクを使う機会が増えていった。8インチフロッピーディスクから始まり、5インチ、3.5インチとサイズは小さくなっていったが容量は増えた。フロッピーディスクのあとはMOを使い、それはやがてCD-Rに代わり、今は、DVD-Rに落ち着いている。

 その一方で、初めて購入したHDDは総容量20MBの製品だった。秋葉原のショップで178,000円だったという記憶がある。まだ、消費税が導入されていない時代の話だ。並行して使っていたフロッピーディスクが5インチ2HDだったので、その約20枚分の容量があった。しかも高速で読み書きできる。相当高価な買い物だったが、なぜ、もっと早く手に入れなかったのかと、その便利さに感動した。

 フロッピーディスクオンリーの運用から、HDD主体の運用に代わるまでは、RAMディスクの時代というのがあった。当時使っていたNECのPC-9800シリーズに内蔵されていたフロッピーディスクドライブは、世界一高速ともいわれ、日本語入力のためのかな漢字変換にもそれなりに耐えていたが、音もなく高速で読み書きできるRAMディスクは、一度味をしめるとやめられなかった。

 OSをフロッピーディスクからブートし、RAMディスクに常用プログラムと変換用の日本語入力用辞書ファイルを置き、データは、フロッピーディスクで読み書きするというのがパソコンの日常的な運用パターンだった。

 最初のパンチカード時代から現在まで約四半世紀。基本的に一般的に使えるストレージの容量は順次増えていった。けれども、人間が日単位で触れるデータ量は、この四半世紀の間にそれほど大きな変化があったのだろうか。

●偶然の起こりにくさ

 当たり前の話だが、誰にとっても1日は等しく24時間だ。そのうち16時間を起きているとして、五感が何らかの形でデータを受け取り、取捨選択されたあと脳がそれを記憶する。そのときには記憶したつもりはなくても、何年もあとに、突然思い出すこともある。かと思えば、絶対覚えておくつもりでいても、忘却の彼方に追いやられてしまうものも少なくない。

 だから、必ず覚えておかなければならないデータに関しては、不揮発のメディアに記録する。かつてその主力メディアは紙だった。誰でも実家の押し入れをゴソゴソとあされば、幼稚園や小学校時代に使っていたノートや、宿題で書いた作文、クレヨン画などが見つかるんじゃないだろうか。これらはすべて紙というメディアに記録されている。

 先日、このシリーズで紹介したロバート・キャパのカラー写真は、リバーサルフィルムというメディアに記録されていたが、もしあれが、電子的に記録されたものであったとしたら、実際に発見されていただろうか。

 想像してみてほしい。今、ここに300GBのHDDと、紙の文書類が段ボール100箱分くらいあったとして、そのどちらから、稀少な情報が見つかる可能性が高いだろう。電子化されたデータは大量であっても、瞬時に検索ができる点で優れている。だが、検索は、対象の存在を問い合わせる行為に対して、その有り無しを返すだけだ。

 つまり、特定のデータが見つかることは必然であり、そこには偶然の要素がほとんどない。だが、紙上のシミとして記録されているデータは、何かを探している最中に、たまたま目に触れるような稀少データに行き当たる可能性がある。ファイルやフォルダという仮想的な入れ物に詰め込まれたビットの列では、なかなかそうはいかない。

 仮に、ぼく自身があと50年生きるとして、今から半世紀、その時点で残っているデータは、いったいどのくらいの容量になるのだろうか。死を看取った家族が、押し入れの奥底にしまい込まれている、故人の小学生時代、つまり1世紀近く前の「えんそくでたのしかったこと」という題名の作文を見つける可能性と、そのころには天文学的な容量に達しているであろう常用ストレージ内のデータから、初めてヨセミテのハーフドームに登頂した、半世紀前にデジカメで撮影した記念写真を見つける可能性では、どちらが高いのだろうか。

 場合によっては、HDDがパスワードや虹彩、指紋などで保護され、本人以外の人間がアクセスすることはできないことも考えられる。人間にとって意味のある情報として出力できない以上、ビットの列は役立たずだ。

●パーソナル化の憂い

 半世紀後の標準的なストレージがどのような形態をしているのかはわからないけれど、小箱に入った装置であれば破棄されるか、初期化のようなことをして再利用されるか、あるいは、ネットワーク経由で利用するストレージサービス上のデータなら、サービスプロバイダに契約の終了を伝え、削除を依頼することになるだろう。

 天文学的な量のデータは、エンジニアのコマンド操作によって数秒を待たずにこの世から抹消されるだろう。もしかしたらストレージサービスのオンライン契約書に、本人死亡の際に、家族に閲覧許可を与えるかどうかのチェック欄があって、そこにチェックをつけていた場合にのみ、死亡届のコピーの提出で、閲覧が可能になるようなシステムがあるかもしれない。

 けれども、そのことに意味があるのかどうかあやしいもんだ。遺産のようなものが電子マネーとして保存されているのに、それを誰も知らずに抹消の憂き目に遭うなど、展開されるシチュエーションはいろいろ想像できるけれど、半世紀先の話は雲をつかむようなもので、見当がつかない。

 パソコンは個人をよりパーソナルなものにするために大きな役割を果たしてきたし、これからも貢献していくだろうけれど、家族のような共同体意識が薄らぐようなパーソナル化をしてしまっていいものかどうか。こういう時代であるからこそ、もう一度再考しなければならないテーマでもある。

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【2月11日】コダクロームが残した色
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0211/config038.htm

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(2005年3月11日)

[Reported by 山田祥平]

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