森山和道の「ヒトと機械の境界面」

ネット時代の社会的リアリティ形成や、錯覚を数学で理解する試み
~国立情報学研究所オープンハウス2011



 

 6月2日、3日の日程で、国立情報学研究所(NII)の「オープンハウス2011」が行なわれ、講演やパネルを使った研究内容紹介が行なわれた。国立情報学研究所は大学共同利用機関の1つで情報学関連の研究所であると同時に学術情報ネットワークの運営も行なっている。

 6月2日に行なわれたNII所長・坂内正夫氏の講演と、2件の基調講演から、情報学研究の一端をのぞいてみよう。

●「未来価値創成」を目指す
国立情報学研究所所長 坂内正夫氏

 オープンハウス開会にあたってNII所長の坂内正夫氏は「国立情報学研究所のいま」と題してNIIの最近の活動を紹介した。

 昨年(2010年)から今年(2011年)にかけてのNIIにおける研究のポイントは4つあるという。1つ目は2010年11月の量子情報国際研究センター設立、FIRST山本量子情報プロジェクト。2つ目は2011年1月のサイバーフィジカル情報学研究センター設立。3つ目は2011年4月からの次世代学術ネットワークSINET4のスタート。4つ目は学術クラウド型サービスと連携のプラットフォームとしてのNIだという。

 NIIはキーワードとして「未来価値創成」を掲げている。難問を解き、新たなフロンティアを拓くような研究をすることを目指している。最先端研究開発支援プログラム、通称「トップ30」の1つである、山本喜久氏が率いる「山本量子情報プロジェクト」もその1つで、電子の量子的ふるまいを使って現在のコンピュータの限界を突破する、またそれに資する新たなデバイス開発を目指している。量子情報国際研究センターは国際的なアライアンスで研究を推進することを目指す。

 佐藤真一教授らは大規模映像アーカイブからの情報発見に関する研究を行なっている。人間なら子供でも映像を見て何が映っているのかわかる。だがそれをコンピュータにやらせようとすると大変だ。NIIのシステムは世界一の成績をおさめているという。また、越前功准教授らは、人間には見えないがカメラには映る近赤外線を使った映画盗撮防止システムの研究開発を行なっている。

山本量子情報プロジェクトの成果大規模映像アーカイブからの情報発見近赤外線をつかった映画盗撮防止システム

 難問を解く上で注目されるのが数理的手法だが、堀内所長は2つの数理的研究を紹介した。1つ目は数理情報処理を使ったパーソナル医療だ。パーソナル医療においては、少ない臨床情報から多くの患者情報を推定しなければならない。そこに基礎情報数理手法を使うことで、既存の手法に比べて100倍の高速化・正確性を実現できたという。

 河原林健一教授らは日本のプロ野球のスケジュールの最適化の研究を行なっている。グラフ理論の手法を使ってプロ野球のスケジューリングをすることで、25%くらい移動距離を短縮できたそうだ。

パーソナル医療への数理情報処理応用プロ野球の日程のグリーン化

 今のコンピュータはコア数が増えている。それを解決するためのマルチコア用のチップ内通信を実現するディペンダブルNoC(Network on Chip)プラットフォームの研究も紹介された。米田友洋氏らは故障しにくいシステム設計法を開発したという。佐藤一郎教授らは二酸化炭素(CO2)削減に寄与するために、消費者レベルでインセンティブをもってカーボンオフセットできる仕組みを考案し、実証実験を行なっている。ベルマークに似た仕組みで、商品にICチップあるいはバーコードをつけ、それをはがして再び送ることで寄付したりできる。メーカー側がCO2削減あるいは吸収プロジェクトから買ったCO2排出権を、小分けして負担しようというものだ。

 小林助教らは「ネット時代の世論形成」について研究している。ネット時代においてはメディアの効果が最小化される可能性がある。ユーザーはもともと見たいものだけを見るもので、ネットはそれを可能にしてしまうからだ。断片化するリアリティを統合するコミュニケーション・インフラが必要だと考えているという。これについては基調講演レポートとして後述しているので下記をご覧頂きたい。

ディペンダルNoCの開発ICTを使った消費者レベルのカーボンオフセット

 このようなさまざまな研究が行なわれているNIIだが、さらに先端ソフトウェア工学共同研究として、トップSEの育成を推進するプロジェクトも行なってる。製品開発におけるソフトウェア開発のコストが占める割合が増大しているからだ。そのための「ソフトウェア教育クラウド」として、「edubase cloud」というオープンソースの教育クラウドを開発。NASAとも連携しているという。

 また先の「トップ30」に情報分野から選ばれているもう1人でもある東大の喜連川優教授を中心に、「CPSデータ群情報融合炉プロジェクト」という研究も進めている。ネットと実空間の情報融合である「サイバーフィジカル」システムの情報基盤構築を目指す。

 坂内正夫氏は、情報分野ではいま第3のパラダイムに入りつつあると言われていると述べた。如何にハードウェアを作るかが第1、そして如何にネットワークを作るかが第2、そしていま起きている第3のパラダイムは、いかに実世界とサイバー世界をどう融合するか、だという。膨大な実データを実活用に結びつける必要がある。

 サイバーフィジカルシステム(CPS)の最新事例は、東日本大震災のときにGoogleが中心となって、ホンダ、パイオニア、トヨタ、日産などの車の走行データをとって実際に通行可能な道路の情報をリアルタイムに示したものだという。

サイバーフィジカルシステム(CPS)の概要実世界の情報とサイバーワールドの情報融合を目指すCPSの目的解決例として東日本大震災のときの通行可能道路の情報が示された

 多くのセンサーがネットワークで接続されれて情報が共有されれば、世の中でいま何が起こっているかを膨大なデータベース上で把握できる。その上にどんなバリューを構築できるか。そのためにはイマジネーションが必要になる。

 NIIでもIBMの「Watson」に触発されて(クイズ王を破ったIBMの質問応答システム「Watson」は過去記事を参照)、本格的な人工知能的なものにチャレンジしようと考え、今、「ロボットは東大に入れるか?」というプロジェクトをスタートさせているという。人工知能に東大の入試問題を解かせようというプロジェクトだそうだ。

 このような研究をNIIでは世界67の研究機関と連携して進めている。今後については高度学術クラウドサービスが、今後の学術研究教育の死命を制する、と考えているという。大学の研究機関にネットワークを提供して情報基盤を支えるのもNIIの重要な役割だ。ネットワークトポロジーを変えて安定化させコストも削減したSINET4も含めて、学術連携のプラットフォームとしてのNIIを目指す。なおSINET4は東北では3月初めに切り替えたばかりだったが、東日本大震災のときもサービス断はなかったという。「インフラ事業者としての使命を果たすことができた。確かな基盤を確立できた」と坂内氏は語った。

 NIIは11年目に入っている。今後は「グローバルでオープンな、連携プラットフォームになっていくことを目指す」とまとめた。

 

「ロボットは東大に入れるか?」プロジェクト高度学術クラウドサービスが、今後の学術研究教育の死命を制するSINET4は東日本大震災にも耐えた

●基調講演1:錯覚を数学で理解する「不可能立体と不可能モーション」
明治大学先端数理科学研究科 特任教授 杉原厚吉氏

 6月2日には基調講演は2件行なわれた。明治大学特任教授の杉原厚吉氏は「不可能立体と不可能モーション錯覚から見えてくる『見る』ことの偉大さと危うさ」と題して、杉原氏らが提唱する「計算錯覚学」という研究分野について紹介した。錯覚について数学でアプローチする研究だ。

 人間はたいていの画像から奥行きをたやすく理解できる。だが一方で、ごく単純な不可能図形、だまし絵にもだまされてしまう。だまし絵とは、遠近がおかしい立体図や前後関係のおかしい絵のことだ。エッシャーの作品群や「ペンローズの三角形」などが有名である。

だまし絵不可能立体とは、だまし絵を立体化したものペンローズの三角形

 だまし絵を立体化したものが「不可能立体」だ。それを作るトリックには2つのものが知られている。第1は奥行き不連続のトリック。つながっているように見えるところを不連続にするというものだ。もう1つは平面のように見えるところに曲面を使うというもの。だが、新しいトリックもある。本当に繋がったまま、平面だけを使っているが、とてもいびつな形をしているというものだ。人には不可能に見える立体を実際には作ることができるのである。コンピュータで計算して展開図を作ることで杉原氏らは多くの不可能立体、そしてそれを使った不可能モーションを作った。

 たとえば通るわけのない部分を通る棒などだ。人は、頭の中では仕組みを理解できる。だから、理屈では「実際にはこうなってるんだろうなあ」と理解しているのだが、目はそう見てくれない。人は実際とは違う立体を思い浮かべてしまう。これはふだんの視覚にも同じことが言える。絵や画像を見たとき、人は勝手に解釈して対象を見ている。実際とは違うものを見てしまっている可能性もある。

 杉原氏はもともと錯覚を研究しようと思っていたわけではなく、さらさらと人間が描いたスケッチを理解できるコンピュータができないかと考えてこのような研究を始めたのだという。

 コンピュータが絵を理解するためには、平面上の線分の集合だけから立体情報を取り出す必要がある。この研究のなかから、これまでの知識経験から絵を見て解釈していると思われる人間も、実際にはもっと単純なルール、すなわち線分の交わる頂点の関係を見て、それぞれの面にラベルを与えることで立体情報を取り出しているのではないかと考えられるようになった。いわば多面体を投影した情報を圧縮して示しているこの頂点の関係を示したリストはコンピュータビジョンの世界では「頂点辞書」と呼ばれている。頂点辞書を使うことで、絵の解釈が可能になる。

最初の目的は絵を使ったコンピュータとの対話頂点のまわりには許されるラベルの組み合わせが存在する絵を解釈して立体を再構成する

 ただし頂点辞書によるラベル付けは必要条件ではあるが十分条件ではない。例えば「ペンローズの三角形」のような図形に対してもラベルがついてしまう。その正しさも数学を使って調べられる。絵の解釈が正しいかどうかは、その投影像を持つ立体の解があるかどうかだ。不可能立体のあり得る投影像を持つ立体の解もそのなかにある。杉原氏らはこのようにして不可能立体の解を見つけている。

 ところが人間は、実際には立体として作れるものもだまし絵、「不可能立体」として見てしまうことがある。これは3組の平行線しか使われていないからではないかと考えられるという。そうなると面と面が直角に接続しているのではないかと脳は勝手に判断してしまうのではないかというわけだ。しかしながらコンピュータで解となる立体を探すときには面と面が交わるところに直角という条件は入れないので、不可能立体を作れる。これを杉原氏は「非直角のトリック」と呼んでいる。

頂点辞書だけでは不十分与えられた絵を投影像にもつ立体を逆問題として解く人間の脳は面と面が直角に接続していると勝手に仮定しがち

 杉原氏の研究の成果は「ベスト錯覚コンテスト」という世界大会でも示され、2010年の大会では優勝している。「なんでも吸引4方向すべり台(Magnet-Like Slopes)」の動画はYouTubeで見ることができる。杉原氏はこのプレゼンテーションを炭坑夫の格好で行ない、観客全員の投票によって見事グランプリを獲得。Natureのニュースでも報じられた。

 なお「柱のない反重力すべり台」という別の錯覚作品で挑んだ2011年のコンテストでは、残念ながら予選落ちしてしまったそうだ。

 現在、杉原氏らはJSTの「CREST」の一環として、研究拠点の一部を「錯覚美術館」として5月14日から一般公開している。住所は東京都千代田区神田淡路町1-1神田クレストビル2階。毎週土曜日に午前10時から午後5時まで開館している。キャッチコピーは「抵抗しても無駄です。あなたの視覚は計算済み。」

 このほか杉原氏は多くの錯覚作品を実際に紹介しながら講演した。錯覚のメカニズムもまだ解明されたわけではない。これまで考えられたメカニズムだけでは説明できないものもある。何より面白いのは、実際の立体がどうなっているかを知った上でも、なおかつ錯覚がおきてしまうところだ。杉原氏は「ものを見るというのは危うい作業」なのだと語った。なお将来の夢は、不可能立体を建物にしてしまうことだという。小さい不可能立体だと両眼立体視してしまうとあまり錯覚が起きないが、建物スケールになれば少しくらい首を動かしても錯覚は崩れないからだ。

「錯覚美術館」キャッチコピー柱の平行線のないスロープでも錯覚が起こる夢は不可能立体を建物にすること

●基調講演2:ネット時代の世論形成
国立情報学研究所 助教 小林哲郎 氏

 国立情報学研究所 助教の小林哲郎氏は、「ネット時代の世論形成」と題して講演した。見たいものだけを見ていられるネット環境の普及によってメディアの影響力は低下しており、断片化した小さな社会的リアリティが分立する傾向がある。そのなかで異なる社会的リアリティを繋ぐブリッジを実現するような構造が必要だと述べた。

 東日本大震災発災当時、小林氏はアメリカにいたが、ネットとNHKを通じて情報を得た。同様に直接揺れを経験しなかった人もメディエートされた現実をメディアを通じて受けて、それぞれの社会的リアリティ、もっともらしいと感じる主観的な現実感を構成した。多くの人は「中継」とテロップの打たれたテレビ映像や避難所の模様を見て、緊急事態というリアリティを得た。そして周囲の人と語り合うことで一定の社会的リアリティを共有した。このリアリティの共有によって、多くの支援が震災被災者に対して集まった。

 震災そのものについて多くの人の社会的リアリティは共有された。だが小林氏は、福島第一原発の方は対照的に、リアリティがあまり共有されなかったと感じているという。危険リアリティと安全リアリティが対立し、政府や東電の意図に対するリアリティも共有度は低い。

 また大きな社会的リアリティ形成に資するはずのマスメディアの限界も露呈したという。そしてネットでは小さなリアリティがあちこちに形成されて、分断・断片化していった。断片化そのものは悪いことではない。だが度合いが過ぎると意思疎通に齟齬が生じ、意思決定コストが増大する。

 では社会的リアリティは何によって支えられているのか。我々はもともと「もっともらしいこと」や「正しいこと」の内的な感覚を持っている。また知識や常識、スキーマを持っているし、人とコミュニケーションもする。さらに外側から社会的リアリティを支える力もある。科学や教育、メディアや公式情報などだ。逆にここが揺るがされ信用出来ないとなると流言が発生する。不安や証拠の曖昧さが流言発生の入り口になる。

 日本ほどマスメディアの強い国はないという。日本人はテレビ・新聞ともによく見ており、マスメディアに対する固着率も高い。ネット前時代のリアリティ形成は、マスメディアからの情報をオピニオンリーダーが解釈・評価して周囲に伝えるというかたちで社会的リアリティが形成されていた。TVは主流形成効果が高く、異なる意見を収束させていく効果をもっていた。だが今、アメリカでは、特定の見たいチャンネルだけ見られるCATVやネットの台頭によって、その特性が失われ始めている。

 マスメディアが力を持っていたときは、政治に関心がなくても見るとはなしに政治情報を副産物的に得ていた層が、政治情報を得られなくなる。エンタメ志向層はニュースに接触しなくなる。またニュース志向層はエンタメ情報に接触しなくなる。このような状況に寄って知識の格差が拡大し、それが投票率にも影響する。ネットメディアはもともと少ないニッチを狙っていることもあり、党派性の強い人がさらにそこに集まることでより先鋭化していき、分極化していく。

 その結果、たとえばネットニュース利用者は、よりニッチな争点を重要だと考える傾向があるという。何が重要だと思うかとアンケートをとると、ネットニュースの人はアンケートの項目の中から「その他」を選ぶ傾向があるそうだ。

ネット前時代のリアリティ形成日本(右上)はマスメディアが強いネットニュース利用者は端による傾向がある

 ネット環境にいると、自分がもともと正しいと思っている情報を選ぶ傾向が強まる。まるで自分の「こだま」を聞いているようなメディア環境、Echo Chamberとも言われる状況では、リアリティが偏りはじめる。同じ事実に対しても、情報をねじ曲げてしまう。ネットではリンクを辿っても異なる意見には接触できない、違う意見に接触しないリンク構造が実際に生まれているという。その結果、異なる意見に対して非寛容な態度が醸成され、民主主義が機能不全を起こしてしまう方向に向かっている。メディアは強力だとこれまで思われていたが、もともとの意見と一致するメディアだけを選ぶ傾向が強まることで、意見が変化しない方向でしか情報に接触しないようになると、結局、意見を変えるきっかけを与えていないことになる。

メディアの効果の違いEcho Chamberリンクを辿っても異なる意見に接触しにくい構造が生まれてしまっている

 以上はアメリカの話だが、日本はそこまで選択性は高くないという。日本では特にYahoo!ニュースのリーチ力が高く、ポータルサイトにおける副産物的学習効果がまだあると見られている。

 だが、パーソナライズやクリック率向上など、市場の圧力は強い。技術は社会的リアリティの分断化を促進し、個々人にカスタマイズされた社会的リアリティを促進する方向に働いている。アメリカほど社会的リアリティは断片化していないが、今回の原発事故では社会的リアリティが共有できていない。

日本ではYahoo!ニュースが圧倒的支持政党別にも違いはあまりないポータルサイトによる副産物的学習効果も失われていない

 必要なことはクラスタ間で会話可能なブリッジをどのように構築し、対話させていくのかだ。「異質な価値観や意見にも触れるように」というお題目では無理だという。インセンティブ・コンパチブルな技術的アーキテクチャ、個人個人は私的な効用を追求、すなわち自分の見たいものを見ているんだけど、自分とは異なるリアリティに接することができるようなメディア環境を実現することが重要だという。

 その中で小林氏が注目しているのはオンラインゲームだという。オンラインゲームでは複数のプレイヤーがゲームをするために集まってくる。共通点はゲーム好きという1点だけである。ゲームをやるために社会的背景や意見が違う人が集まって協力する。そのなかで相手の、自分とは違う面についても触れることができる。コミュニティを継続するデマンドを維持させながら、異質な出会いを促進させる環境だといえるという。一方、Twitterのようなソーシャルメディアについては、同質な他者をフォローしていることが多く、まだユーザー数も実際には少ないことから、リアリティのブリッジという面では疑問が残るという。

 最後に小林氏は、同質性の追求、すなわち、やりたいことをやることが、異なるリアリティの接触をもたらすようなかたちに変換する技術的アーキテクチャが必要だと述べた。小林氏は「雑な議論だ」と謙遜していたが、重要な視点だと思う。

 このほか、会場ではポスターセッションなどが行なわれたが、そちらは省略する。

ポスターセッションの様子エコ&安全運転を実践教育するための3Dドライビングシミュレータ。自動脚注表示機能を備えた書籍閲覧システム。新書をOCRで電子書籍化しWikipediaに自動でリンクを張る