大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

「マイクロピエゾ」20周年特別インタビュー【後編】

~カラー化、高画質化への取り組みと次世代ヘッド

 マイクロピエゾ20周年特別インタビューの前編では、マイクロピエゾプリントヘッドの開発経緯から、同ヘッドを搭載した第1号製品となるモノクロインクジェットプリンタ「MJ-500」までの取り組みについて触れた。今やエプソンの事業の大黒柱となっているプリンタ事業を支えるマイクロピエゾプリントヘッドは、振り返れば、エプソンのプリンタ事業の存続をかけて取り組んだ一大プロジェクトだったともいえる。後編では、カラー化、高画質化への取り組み、そして、次世代マイクロピエゾプリントヘッドの取り組みについて、セイコーエプソンの碓井稔社長に語っていただいた。

 同社は2013年3月13日に新たな中期経営計画を発表。碓井社長はその中でプリンタ事業の今後の方向性にも言及。2013年には新たなヘッドを投入する計画も明らかにした。開発者としての表情に加え、経営者の視点を交えて、今後のマイクロピエゾについて語ってもらった。

MJ-700V2Cでインクジェットの地位を獲得

「MJ-700V2C」

--マイクロピエゾヘッドを初めて搭載したモノクロインクジェットプリンタ「MJ-500」の発売翌年には、カラーインクジェットプリンタの「MJ-700V2C」を発売しましたね。

碓井 MJ-700V2Cでは、ヘッドはそれほど大きく変えず、むしろ駆動波形を変えて、インク滴を小さくし、720dpiという解像度を実現しました。同時に、インクも浸透性の高いものに変更し、印刷の質を高めました。この720dpiの解像度が他社にはない特徴となり、一気に人気製品となりましたね。

 続けて、1996年には、「PM-700C」を発売し、6色インクの採用によって、写真画質を実現しました。マイクロピエゾならではのインク滴コントロールの柔軟性を活かし、ドットを見えなくする印刷を実現したわけです。このPM-700Cが、本当の意味で「インクジェットのエプソン」としてブレイクした製品だといえます。ようやくキヤノンと伍していける状況になったのもこの時です。

 PM-700Cは、1995年に完成したセラミックでインク室を作り、その上にピエゾを塗るという「ML Chips」の仕組みによるヘッドを採用したものでした。これは、生産が容易で、コストダウンが図れるというメリットがありましたから、ノズルを増やしながら、低価格のところにまで踏み出せるようになりました。

 ノズルを増やすためにヘッドの変更は若干ありましたが、マイクロピエゾ技術は、駆動波形でインク滴を小さくできるため、それほどヘッドの設計を変えないで済むという時期がしばらく続いたのです。

MJ-700V2Cと碓井社長
MJ-700V2Cに搭載したマイクロピエゾプリントヘッド

 1998年に発売したPM-770CではMSDTという技術が確立し、さらに写真画質を向上させることができるようになりました。従来は、ピエゾを押すときだけ制御していたものを、押す時も、引く時も制御できるようにドライバを進化させました。オン/オフ制御ができるようになったことで、マイクロピエゾで目指した「インク滴を自在に飛ばす」というコンセプトが完成したともいえます。

 MSDTが完成すると、さらにインク滴の制御だけで画質が高まるようになり、ノズルを増やすことで速度を上げることができました。1990年代は、PCを介して画像処理をしていましたから、PCの毎年の進化にあわせてノズルの数や、解像度を当てはめていくというような進化でしたね。ですから次の進化が見えていた時期でもありましたし、MSDTによって技術が進化してもコストが跳ね上がるという状況ではなかったのです。その流れの中で、2002年になると、1.5plという小さなインク滴を吐出できるようになり、ドットが全く見えない印刷が可能になったというわけです。

 一方で、プロフェッショナルのカメラマンや写真家からは、印刷した写真の色合いが不満だといった声や、変色してしまうことに対しての指摘があり、当初は、「これは写真じゃない」といった言葉さえもいただきましたが、インクや印刷用紙などを含めて、その改良にも前向きに取り組みました。

 写真家の方々からは、印刷した時にしっかりとした色が出ていないと駄目だと言われたのですが、染料インクの場合は、印刷後1時間の間に色が変わって、最終的に定着するという仕組みであり、ここでお叱りを受けました。この変色は、一般ユーザーの方々には分からない範囲のものですが、写真家の方々にはしっかりと分かってしまいます。

 また、耐光性を高めることも重要だという指摘がありました。この時私は、ヘッドの開発だけでなく、プリンタ事業全体を見ていたわけですが、当時は、染料インクで耐光性を劇的に高める手法がありませんでした。

 そこで顔料インクに目を付けたのです。顔料インクは耐水性も高く、写真だけでなく、オフィス文書にも適用できます。これは大きなブレイクスルーになると考えました。そうした中で発色が良く、色の安定性を持ったいいインクが完成したのです。これがPXインクと呼ぶもので、「PM-4000PX」に採用し、カメラマンや写真家から高い評価を受けました。

 それ以来、プロフェッショナル向けは顔料インク、コンシューマ向けは染料インクというのが定番になりましたね。今では染料インクでも耐光性が高いものができ、銀塩写真を上回る耐光性を実現しています。また、顔料インクは大判プリンタにも適したインクとしても進化を遂げていきました。

なぜエプソンは海外事業で苦戦を強いられたのか

--一方で、エプソンのプリンタ事業は、海外では苦戦を強いられていましたね。

碓井 1990年代後半までは、欧米市場におけるエプソンのプレゼンスはかなり高かったと言えます。しかし、エプソンが大きな後れをとる出来事が起きてしまったのです。この頃、エプソンでは、「プリントン」という言い方をして、メモリカードをプリンタに挿すと、PCを介さずに直接プリントアウトできる仕組みを提案しました。また、スキャナ機能や、FAX機能を搭載するといったように、プリンタ以外の機能拡張が始まっていきました。2000年以降のプリンタビジネスは、プリンタの本質機能に加えて、プラスαの機能で戦う時代に入ってきたといえるでしょう。

 この時のエプソンは、プリンタに次々と機能を付加していくものですから、どうしても電気系周りのコストが高くなってしまいました。ところが、Hewlett-Packardは、こうした流れに対して、ワンチップで市場に入ってきました。これが圧倒的な価格の差になってしまい、一気に巻き返されてしまったのです。さらにLexmarkが、アグレッシブな価格設定を始めたものですから、米国でのエプソンのシェアはあっという間に落ちてしまいました。

 このHewlett-Packardの戦略は当然のものでした。画質はすでにある程度のところまで到達していましたから、そこでの差別化は難しくなっていました。そうなると、当然、多機能化の方向に流れていきます。競争の舞台が複合機へと移行しはじめたのです。これに向けて、Hewlett-Packardは、今で言うSoC化に乗り出し、複合機の低価格化を牽引していったのです。エプソンは、この流れを後から追いかけていったわけですから、立場はどんどん苦しくなるという悪循環に入ってしまったわけです。

--これは、いつ頃、打開できたのですか。

碓井 いや、まだ追いかけているところです。この差は今でも響いています。Hewlett-Packardがビジネス分野に対して、インクジェットプリンタで攻勢をかけているのに対して、エプソンはまだそれができていないのは、その証です。それでも、ようやくここにきて、その差が縮まってきたかなというのが正直な感想です。1990年代の画質の次代はエプソンがリードしました。しかし、2000年代の複合機の時代にはHewlett-Packardを追い続けてきたというのが、実際のところではないでしょうか。

 それはプリンタ事業の売上高にも現れています。エプソンのインクジェットプリンタ事業は、1996年頃から急成長を遂げ、ピークとなる2000年度前後には5,000億円規模の売上高がありましたが、2012年度見込みでは3,700億円規模にまで縮小しています。

--なぜ2000年代に後れをとることになったのでしょうか。

碓井 エプソンは画質を追求し続け、コンシューマ領域でのビジネスにこだわり続けてきました。それが結果として裏目に出たと言えます。エプソンが、インクジェットをやり始めた時には、正直なところ、開発チームは画質にここまでこだわることは考えていませんでした。ところが、MJ-700V2CやPM-700Cといった製品に代表されるように、画質を追求した結果、ヒット製品が生まれ、そこに成功体験ができてしまいました。その後のフォーカスがここに集中しすぎてしまったと言えます。画質競争は2000年で終わり、機能競争に時代に入るということを認識しなくてはいけませんでした。機能競争になると、ヘッドの性能というよりも、製品全体の企画力が重要になってきたとも言えます。

マイクロピエゾTFヘッドで大判プリンタに展開

--2007年にマイクロピエゾTFヘッドを完成させ、これによって産業用分野にも本格的に進出するようになりました。これは起死回生になりましたか。

碓井 大判プリンタはさらに高速化しなくてはなりませんし、そのためには、ノズルを増やさなくてはなりません。ノズル密度を増やすために、ピエゾをさらに薄くする必要があるとして開発したのが、マイクロピエゾTFヘッドです。まずは大判プリンタからでしたが、これをコストダウンしながら、将来的にはさまざまな機種に展開しようという計画がありました。大判プリンタの写真印刷においては、エプソンの強みを活かすことができましたから、ここでは高い評価を得ていました。しかし、コンシューマ向けプリンタに力を入れたのと同様に、それが高い評価を得てしまっただけに、それ以外の用途展開に後れが出たという反省はあります。

--2007年に製品化したTFヘッドは、1990年のプロジェクトを開始した時にはすでに構想があったといいますから、かなりの長期間での開発でしたね。20年前にヘッドの開発をしていたときには、何年先を見て開発を行なっていたのですか。

碓井 マイクロピエゾヘッドは、MACH(マッハ)とML Chips、そして、TFPという3つの方式があるのは、先にお話しした通りですが、確かに、開発当初からTFPまでを含めて、技術開発を行ない、生産性を上げ、コストダウンを図るというところまでは見ていました。順番としては、短期的に出来るものからやってきたわけですが、かなりの長期構想の中で取り組んでいたのは事実です。出来上がった1つの製品に関しても、3~5年先はどうなるのかというところまではしっかりと見据えていました。TFヘッドに関しては、量産をして、コストを下げなくてはならないという課題はありますが、この技術はレーザープリンタを凌駕することができるものだと考えていますし、応用分野はこれから増えていくことになると思います。

写真画質の実現、コスト低減に大きな成果

--この20年間のマイクロピエゾの進化を振り返ると、20年前に思い描いていた姿とはどんな点が異なりますか。

碓井 コンシューマ向けプリンタは、私が20年前に思い描いていたものよりも、劇的に安くなったという点はありますね(笑)。プロフェッショナル向けに、銀塩写真よりもすばらしい品質の写真を提供することも目指してはいましたが、ここまでの水準をこれだけ早く実現できるとは思っていませんでした。

 ただ、その一方で、オフィス向けプリンタという点では、思っていた水準には到達していないという反省があります。レーザープリンタの牙城を崩せなかったことも、写真によるコンシューマ市場における成功体験の裏返しですね。オフィス向けは、複写機が培ってきた普通紙に印刷するという文化の中で、求められるクオリティを確保し、スピードも両立させてなくてはなりません。コストの面を含めて、これを実現するのが非常に難しかったです。もう少し、ここにフォーカスをして開発をしていれば、エプソンのプリンタ事業は違った展開ができていたと思います。

 というのも、Hewlett-Packardは、その分野ですでに存在感を発揮しています。エプソンがフォトに徹底して集中していた時に、Hewlett-Packardは、オフィス分野向けのラインナップをしっかりと整えていました。結果として、エプソンは高機能のオフィス分野の製品を全く持たないという状況に陥ったわけです。ただ、エプソンのマイクロピエゾヘッドは、耐久性もあり、インクの多様性もあるので、本来、オフィス用途にこそ向いていた技術と言えるのかもしれません。

 実は、液晶や有機ELの生産にも、インクジェット技術が採用されているのですが、こうした産業分野向けの取り組みにリソースが割かれてしまったことも、オフィス分野などでの後れにつながったとも言えます。

 そして、さまざまなアプリケーションの広がりにおいては、外部企業との連携で進めたのですが、これが「点」での展開に留まり、「面」として広がりをみせることができなかったことも反省材料の1つです。もちろん、有機EL分野などにおいては、知財も蓄積していますから、これからもしっかりとやっていくつもりです。

 ただ、エプソンにとっては、産業分野やオフィス分野は、既存ビジネスを食う領域ではなく、付随領域です。積極的に展開できる素地があることはプラス要素だと考えています。

マイクロピエゾヘッドはエプソンのDNA

--ところで、エプソンにとって、マイクロピエゾプリントヘッドとはどんな存在となりますか。表現できる適切な言葉はありますか。

碓井 「顔」という表現をすると、それはプリンタそのものを指すことになります。「顔」を支える技術がマイクロピエゾプリントヘッドですから、適切な表現は、「コアコンピタンス」だと言えますね。また、細胞として表現すれば、「DNA」ともいえるでしょう。いろいろな形になりながら、社会に順応するとともに、エプソンが持つノウハウや知見、マインドの集大成であり、精密メカトロ分野における究極の技術だと言えます。

--これからのマイクロピエゾプリントヘッドの進化はどうなりますか。

碓井 どうなるかというよりも、どうしたいかということですよね(笑)。技術的には、まだまだ進化することができます。もっと小さく、もっと密度を高くすることができます。これによって、コストも下がります。そして小さくなれば、ノズルを増やせるため、スピードも上がり、きれいになります。

 コンシューマやプロフェッショナル向けフォト市場では一定の地位を獲得しました。ただ、この分野に向けてもまだまだ進化をさせていくことになるでしょう。そして、オフィス分野や、商業印刷領域などの産業分野でも、このテクノロジに置き換えていきたいと考えています。

 マイクロピエゾは、デジタル時代に適合した技術であり、環境性能も高い技術です。その技術を活用することで、オフィスや産業分野に浸透している既存技術と比較して、劇的に差別化した顧客価値を実現しなければならないと考えています。圧倒的な印刷速度や、コストを気にせずに印刷できる環境の実現など、桁違いの差別化の要素を持たないと、既存技術を置き換えられないですから、それだけの覚悟をもって取り組んでいきたい。それだけのポテンシャルを持った技術ですよ。

 問題は、どこまで極め、究められるかということです。マイクロピエゾプリントヘッドの進化は、エプソンが培ってきた省・小・精のコア技術を、「究めて極める」という真骨頂ともいえる取り組みになります。

2013年度に次世代マイクロピエゾを投入

--3月13日に発表した新中期経営計画「SE15 後期 新中期経営計画」では、2013年度に新たなマイクロピエゾプリントヘッドを搭載した製品を投入するとしていますが、これはどんなものになりますか。

碓井 まだ詳細はお話しできないのですが、これは新たなヘッドのプラットフォームであると考えてください。基本的には、小さく、そしてさらに低価格化できるものです。

--次世代ヘッドは、2013年末に発表されるコンシューマ向けプリンタにも搭載されると考えていいですか。

碓井 新たなヘッドでの一番のポイントは、オフィス向け製品への採用です。これまでビジネス分野に展開すると号令をかけても、戦う武器がありませんでした。だが、これで戦える武器が揃うことになります。ビジネス、商業、産業といった分野での展開を加速することができるでしょう。

--エプソンでは、これまで「プリンタ事業」と呼んでいたセグメントを、「プリンティングシステム事業」に変更しますね。これはマイクロピエゾの進化と関連しますか。

碓井 マイクロピエゾの進化によって、より小型化、高密度化することで、オフィス向けプリンタのラインナップを増やせる状況になってきました。産業用も同様です。ところが、こうしたオフィス向け製品、産業用製品というのは、プリンタを1台売ればいいという状況にはならないのです。提案活動を行ない、ソフトウェアをセットにして、ソリューションとして展開していく必要があります。エプソンは、そうしたビジネスを強化していくということをイメージして、「プリンティングシステム」と言い始めたわけです。新たなプラットフォームのヘッドが完成することで、ソリューション展開に踏み出す素地ができると考えています。

コンシューマの会社からの脱皮を目指す

--2016年度からの次期中期経営計画では、「コンシューマ向けの画像・映像出力機器中心の企業から、プロフェッショナル向けを含む新しい情報ツールや設備をクリエイトし、再び力強く成長する企業へと脱皮することを目指す」とし、今回策定した2015年度最終年度とする新中期計画「SE15 後期 新中期経営計画」は、「その基礎を築く3年間」と位置付けていますね。これはどんな意味ですか。

碓井 営業利益率5.4%の達成という2015年度の目標や、売上高で9,300億円という計画は達成できる自信を持った数値です。プロジェクタも、新規事業も立ち上がってきます。ただ、一番牽引してもらいたいと考えているのはビジネス向けプリンタです。

 以前の中期経営計画は大幅な成長を軸としたものでしたが、今回の中期経営計画でこの方針を見直したのは、もっとビジネス向けの事業体質を強化する必要があると考えたからです。形の上では、コンシューマ、ビジネスと両輪の開発、販売体制ができていても、成長戦略を実行した途端に、実際の事業はコンシューマに偏った形になってしまうことになります。コンシューマはエプソンの得意分野であり、事業の成長のさせ方も知っています。また、短期的に業績があがりやすいというコンシューマ事業の体質が浸透してしまっています。つまり、両輪をバランスよく成長させる体質にはなっていないのです。この結果、売り上げが中長期になるオフィス向けおよび産業向けビジネスを後回しにして、得意なコンシューマ領域で埋めようとしています。これは結果として薄利多売の方向に走ることになり、収益性が悪化します。この体質を変えなくてはならないというのが、3年間の取り組みとなります。

 今「全速力で走れ!」と言ったら、すぐにコケますよ(笑)。全速力で走ることができる基礎体力をつけるために、今は売り上げ拡大を過度に追わなくていいから、形を変えることを優先しよう、というわけです。

 エプソンを、「モノ」から「コト」を売る会社に変えていきます。社員のスキル、マインドを変え、パフォーマンスを発揮できる企業への転換を目指していくつもりです。その様子が、外から見えるのは後でもいい。まずは、社員がそういう気持ちになり、中から変えていかなくてはいけない。2015年の全力疾走に向けて、徹底的な鍛えていくつもりです。

(大河原 克行)