山田祥平のRe:config.sys
本当は誰も知らないビッグデータ
(2015/7/10 06:00)
トレンドワードとしての「ビッグデータ」という言葉がすっかり定着した感がある。TVのニュース解説でも登場するくらいだが、どのくらいの量のデータがあればビッグなのかという明確な定義はない。実は、我々の知らないところにものすごいムーブメントが隠れているのではないかとワクワクもすれば少し怖くもなる。
スポーツブランドとウェアラブル
イギリス発祥のスポーツブランドReebokが原宿・キャットストリートに直営店「リーボック クラシック ストア 原宿」をオープンするそうだ。リーボック クラシックの世界観を伝える初のコンセプトショップだという。このブランドは1980年代のフィットネスと1990年代のスポーツをテーマに展開される復刻シューズや雑貨を揃えて訴求するものだ。
この記事が公開される日が開店初日となるが、事前の内覧会があり、ちょっと様子を覗いてきた。ITとは何の関係もなさそうだが、最近はそうも言っていられない。こうしたブランドがいわゆるIoTやウェアラブルのカテゴリに参入しても全く不思議のないご時世だからだ。なので、分野が全く異なると思っても、事前に案内を頂いたり、誰かから教えてもらったりした時には、できるだけ参加するようにしている。
結果から言うと、Reebokは、少なくとも現時点ではウェアラブルに食指を動かしてはいないと言う。もちろん真新しい店舗にも、それらしきデバイスは見当たらない。かろうじて、Webカメラを装備した大きなデジタルサイネージが設置されていて、その前でポーズすると写真がFacebookにアップロードされるくらいのことだ。
同ブランドは、街で歩くファッションアイテムというよりも、自発的にランニングやウォーキング、さらに、ジムトレーニングといった活動をする人々を支援することに力を入れていると言う。
こんな時代なのに、ジムでのトレーニングのIT化が全くと言っていいほど進まない現状では、自前でデバイスを用意して、自分の自発的トレーニングを記録して、どれだけ頑張ったかを目に見える形で残していくには、ウェアラブルデバイス(を装備するウェア)としてのシューズなどのアイテムは最適だ。今、世の中は、日常を全て記録するライフログ的な機能を搭載するウェアラブルデバイスに注目が集まっているが、スポーツブランドの業界ではこの辺りをどのように考えているのだろう。もちろん水面下では、さまざまなアイディアが練られつつあるのだとは思う。だから数年後のムーブメントのためにも、今の状況を見ておく必要がある。
ビッグデータからザ・ビッグデータへ
一方、IoTはどうか。先日、IntelがIoTに関するソリューション・カンファレンスを東京都内で開催し、同社のIoTへの取り組みを紹介した。だが、現状では、IoTはまだ、海の物とも山の物ともつかない。最初のターゲットとして製造業に照準が合わせられ、20年ほど前にトレンドだったファクトリーオートメーションを、最新のITの力を借りてさらに合理化したものというイメージだ。
インターネットは世界中に散在するLANをつないだことに意義があった。だからこその“インター・ネット”だ。英語でいえば、The Internet的なものとInternet的なもののうち、前者こそが、今の暮らしを支えているように思っている。通信にインターネットプロトコルを使っているだけではインターネットじゃないといってもいい。
もし、ビッグデータを解析することで、これまで捨ててきたデータを活用できれば、かつて誰も知り得なかった推論や結論を導き出すことができる。そのためには、まるで関係のなさそうなデータも、何もかも繋いでみて、相互に共通する要素を探し出して、それをキーにして結びつけるような試みが必要だ。そのためには、IoTの標準化が急務ではないか。だが、Intelほどの企業も、まだ、そこまでの段階には達していない。風が吹けば桶屋が儲かる的な要素を発見するためには、データが全くビッグではないわけだ。
社会貢献としてのデータ提供
ビッグデータの活用ではプライバシーの問題が議論されることが多い。個人的には、匿名であるのなら、自分のさまざまなデータを、それを活用しようとする人々に対して提供することは、ちょっとした社会貢献の1つじゃないかと思っている。
もちろん、それによって、誰かが儲かってしまうというのはちょっと癪ではあるが、その見返りとして、モノが安くなったり、潜在的に求めていたものが商品化されたり、あるいは、世の中が楽しくなったりする。さらに、そのデータがオープンデータとして存在できるようになれば、スキルさえあれば単なる個人がそのアイディアで豊かな社会を創造できるかもしれない。大きな企業には想像もできないことを考えつくのはきっと個人だ。過去においては「きっとこうなる」といった根拠のない自信でしかなかったアイディアも、ビッグデータが裏付けになれば現実味を帯びてくる。もっとも、根拠のない自信こそが新たな世界を構築するための原動力でもあったのが80年代だったのかもしれないと考えるとちょっと切ない。
隠すよりも知りたい本当の自分
AppleはiPhoneが、GoogleはAndroidスマートフォンが、MicrsoftはWindows PCが、どこでどのように使われているのかをきっと知っている。収集されたテレメトリデータは、ぼくらの想像もできないくらいに細かいデータを雄弁に報告しているに違いない。そして、それが数年後の製品に活かされて還元されるのだ。もうすぐ登場するWindows 10なども、公式ブログの発言を読んでいると、Insiderのフィードバックはもちろん、収集したデータがいかに細かく分析されて、製品の仕様に反映されているかが想像できる。すでに商品の開発は、こうしたデータ抜きには考えられない時代になっているのだろう。
願わくば、これらのデータを隠す権利より、これらのデータを知る権利を主張したい。世の中でいったい何が起こっているのかを知りたいと思う。なぜか。その方が、自分に戻ってくるものがきっと大きいからだ。言わばバーターだ。インターネットは壮大なワリカンだと説明されるように、ビッグデータもワリカンでどうだろう。極論かもしれないが、それが情報民主主義というものだ。